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幽霊少女エリーゼ  作者: スズシロ
はじまりの日へ

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第二十六話 「噂」という魔物

 精霊祭の夜、子どもギャング団のミラが、妖に異界にさらわれかけた。


 そのことは、村の公式の記録にも残された。




 噂好きの村人達は、その原因を、探し始めた。


 魔族が子どもを襲った理由を作りたがった。




 村の中央広場や色々な場所に、井戸がある。


 井戸、水場には自然と人があつまる。そこで、村人達は話し合った。


 皿を洗う手、野菜を洗う手、笑う口元――その合間合間に、口さがない言葉が飛び交う。




「聞いた? 寺院の鐘が勝手に鳴ったって」


「墓地の煙が逆に流れたってよ」


「妖が戻ってきたんだよ。昔みたいに」




 尾ひれはひれをつけながら、全く根拠のない思いつきも交えながら、噂は膨れ上がっていった。


 それこそが、目に見えない魔物を思わせるのだが、本人達は気にしない。


 水場にいるのに、水面に、噂をするときの自分の顔は映らないらしい。


 


 そのうち、言葉の端々に、”原因”が作り上げられていく。


「伯爵家の……ほら、あの子。あの子が来てから、何か――」


「やめとけ」


 別の声が、強めに遮った。


「彼女は、領主様の子どもだぞ」




 噂はそこで一度引っ込む。でも、消えない。


 口の中で転がされて、形を変えて残る。


 エリーゼは逆に、ミラを守って戦ったのだが、その事実は偏見の前にあっという間に消えた。


 手柄は、目立つ餓鬼大将で身近な村長の息子であるアッシュの方に全て持って行かれた。


 逆に、エリーゼは不吉な娘と思われた。異質な伯爵家のお嬢様。




「彼女は”幽霊”なのよ。幽霊が魔物を、妖を呼んだんだわ」


 そんなふうに、言われ始めていた。


 幽霊少女エリーゼ。彼女はつくづく、風評被害に悩まされる魂であるらしい。




 エリーゼは気づかないふりが上手かった。そうするしかないからだ。貴族の子女は、視線や噂を自然体で受け流す作法を教わっている。




 だが。


 村の噂は、城の噂と違う。


 距離感がやたらに近い。顔が見える距離、声が聞こえる距離でひそひそと粗雑な言葉で刺してくる。




 アッシュはその近さが腹立たしかった。


 だが、その腹立ちをそのまま出せば、噂は益々燃え上がり、エリーゼが苦しむ事になる。




「おーい! クルト、エマ! 今日は、川行って石投げ勝負しねえ?」


 そういうとき、アッシュはわざと大声を貼った。噂を別の音で塗りつぶそうとした。


「うわ、急にうるさい」


 エマはわざとらしく眉をひそめる。だが、彼女も、母の手伝いで井戸端に居れば聞こえてくる事もある。その隣でミラが、うるさいよねと同意しながら、わざと音を立てて桶を揺らす。まるで井戸端会議に抗議の雑音を交えるように。




「子どもは元気だねえ」


「さすがギャング団の団長だよ」


 誰かが、笑ってくれた。笑いは起きた。




 そうやって、空気を変えられるうちは、まだ大丈夫だったのだ。


 アッシュは変えられる男だった。10年間の人生のうちで、彼は様々な事を変えてきたし、変える事を当然だと思っていた。


 だが、彼にも、どうしようもない、変えられない事はあった。


 例えば、エリーゼがデレリンに帰ること……など。


 それは全ての事情が連携して決まってしまったことである……など。


---




 最初の実害は、小さかった。


 ヴィルヘルムの父の畑の一角が荒れている--と聞いて、子ども達が駆けつけた時、そこは確かに”荒れて”た。


 だが、食い荒らされたというより、踏み倒された感じだった。




 収穫前の人参が、ある一線から先だけ倒れている。


 歯は千切れているのに、囓った後がない。土はえぐれているのに、掘り返した跡がない。




「イノシシだろ」


 ヴィルヘルムの父が気落ちした口調でそう言った。手塩にかけた野菜が踏みつけられているのを見てがっかりしている。




 クルトは人参畑の端でしゃがみ、土の表面を指でなぞった。


 小さな跡が残っている。蹄でも靴でもない、妙にそろった……見慣れない形。




「足跡か、これ。何かあるぞ」


 クルトが低い声で言い、仲間達を振り返った。




 ヴァルターがその”足跡”を辿る。畑の端から森の方へ、まっすぐに、足跡は続いていた。そして、途中で消えている。




「……帰りの足跡が途中で消えている」


 ヨナスが低く呟いた。


「え? やばくね??」


 ルーカスが震えている。




「飛んだんじゃねえの。獣だって飛ぶだろ」


 アッシュが考えてそう言った。


 パウルが乾いた笑い声を立てた。だが、その笑いに誰も続けなかった。


 森……ヴィスター村、ザビーネ湖を覆う形の原始林。その原始の森に近い側だけ、空気がひんやりしているように感じられた。季節の冷えではない。肌の下に入ってくる冷たさだ。




 ヴィルヘルムの父は「秋の風のせいだ」と言った。「イノシシのせいだ」とも言った。


 そう子どもの前では処理をして、畑をなおしていった。処理しないと、村の暮らしに差し支えが出るからだ。村の暮らしが立ちゆかなくなったら--そんなことは考えたくもない。




 その、存在を知らせない不安。魔物、妖の与える不安と恐怖に勝つために、大人は、”説明出来るもの”を押し込む。簡単にしてしまう。そういうことだった。




---


 次の日。


 井戸の水が鉄臭かった。


 それも、皆が共用で使う、村の中央広場の大きな井戸だ。




 桶を降ろした女性……フランツの母が、顔をしかめた。


「今日の匂い、変じゃない?」


「鉄だよ鉄。井戸が古いんだ」


 ヨナスの母がそう答えた。皆で笑ってごまかした。




 母に連れられて水を汲みにきていたエマは、そっと水の臭いをかいで、口元を押さえた。


 鉄の匂いは確かにする。だが、それだけではない。野原を元気に駆け回ってきたエマにはわかりやすい……血みたいな匂い。




「……」


 エマはそれを言いかけて、言葉を飲み込んだ。


 それを言ったら、本当に、村中が使う井戸に何者かの血が混ざってしまうような気がした。




 その日の昼から夕方にかけて、ミトラ寺院の僧侶が、塩を配って歩いた。精霊祭の終わりに、毎年のように配られる清めの塩だ。だが例年なら九月に入ってからゆっくり配るのに、何故八月の今日なのか?




「今日は浄めを丁寧に。念のためです」


 何のためなのかは理由を言わない。理由がはっきりしないから、想像がどんどん勝手に膨らんでいく……エマはそう思った。彼女も実際、奇妙な想像に悩まされた。




---


 そのさらに翌日。


 アッシュがいつもの空き地で言い出した。




「見張りをしよう!」


 見張りと言ってもごっこには違いないのだが、アッシュが言い出すと何事も本格的になる。


 それを知っていて、皆がわっと沸き返った。




「見張りって、夜もやるの?」


 エリーゼが目を丸くしてそう尋ねた。


 今までの犯行は、夜に行われているものが多い。




「夜はやらない。夕方までだ」


 アッシュは素早くそう言った。夜ってなんだ。カールや伯爵に怒られる未来が見え見えだ。




 けれど、やり始めた“遊び”は、笑えないくらい手際が良くなっていった。




 妖を見つけた時野合図を決める。指笛は目立つから却下。


 石を二回打つ。咳払いは普段からしてるから自然。


 妖からの逃げ道も決める。納屋裏から用水路へ、そこから寺院の石段へ。寺院へ入れば大人がいる。




 エマが当番表を作った。


「二人一組。時間は短めに区切って。ええっと……これなら大丈夫」




「お前、母ちゃんみたい」


 ヴァルターが笑うと、エマは赤くなって「うるさい」と言いながらも、紙はきっちり折られる。




 クルトが村の地図を確認し、地形を見て、死角を指で示した。


「ここ、見えない。ここからなら森が近い。……ここは避けたほうがいい」




 ヨナスは紐と鈴を持ってきた。


「これ、木とか塀にに結べば……誰か通ったら鳴る」




「おお、天才」


 アッシュが褒めると、ヨナスは照れもせず眼鏡をかけ直し、結び目を作る。手が慣れている。




 アッシュは「遊びだぞ!」と声を大きくしながら、いつの間にか全員の動きを回していた。


 誰がどこに立つか。誰が先に帰るか。もし鳴ったらどっちへ逃げるか。


 無意識に“隊長”になってしまう。




 エリーゼも、少しだけ混ざった。


 当番には入らない。入れない。エリーゼは、割り切れない事に11人目だった。


 それに、九月になったら彼女はデレリンに帰る。もうすぐいなくなってしまう。


 けれど合図の決め方を聞き、逃げ道を目で追って、小さく頷いた。




「……いいと思う」


 幽霊と言われている彼女がそう笑ってくれるだけで、アッシュは胸の自責の念が晴れた。


 エリーゼは無理に入ってくる事はしなかった。そういう距離感。




---




 驚くほど早く、夕暮れ時に森の縁で「見た」が増えた。


 黄昏時、逢魔が時に、原始の森で、何かが見えたのだ。




「黒い影が、木の間に」


「二本足だった」


「いや、四つ足だ」


「目が光った」


「光ってない」




 話は揃わない。揃わないのに、怖さだけが同じ形で残る。


 目撃場所もバラバラだった。森の入口、畑の端、用水路の向こう。


 移動しているというより、そこに“出る”。




 その夜、寺院の鐘が遠くで一度だけ鳴った。




 遠いのに、胸の中に直接落ちてくる音。


 音のあと、ほんの一瞬だけ――周りの音が吸われた。虫の声が消え、風の擦れる音も消え、世界が薄くなる。




 アッシュは布団の中で目を開けた。


 眠くてしかたないはずなのに、身体が起きている。心臓が熱い。




(幽霊が……)


 大人達のヒソヒソ話が脳内で反芻される。


(幽霊の女の子が来た時から始まった。幽霊娘が悪いんだ)




 違う。


 アッシュはそれが言いたかった。


 違うんだ。エリーゼは原因じゃない。原因は他にある。妖はよそにいる。




(幽霊娘が、村を悪くする)


 違う。誰がそんなことを言った。誰がそんなことを言い出した。


 分かってる。


 そんなことは分かっている。


 最初に、エリーゼを、「幽霊」と言ったのは……よく知りもしないのに、名前だって知らなかったのに、幽霊扱いしたのは。




 自分だった。




 村長の息子、子どもギャング団の団長、アッシュが、エリーゼを最初に幽霊と思い退治しようとしたのだ。


 そこから、エリーゼへの「噂」が始まった。




 アッシュはまんじりともせず、夜の闇を睨んでいる。胸が熱い。苦しい。


---


 翌朝。


 村の大人達が、中央広場に集められた。子どもも何人かついてきた・


 皆が集まったところで、壇上にのぼり、村長のカール・カッツが広場で咳払いをした。


 その音ひとつで、村人が自然に沈黙する。笑い声は出なかった。




「夜回りを増やす」


 短い言葉だった。けれど言い方がいつもと違った。カールにしては短すぎる上に笑い話がまるで出ない。




「子どもは夕方以降、外へ出るな。戸締りは早めに。寺院の鐘が鳴ったら、まっすぐに家に帰って、外へ出るな。……いいな」




 “噂”が、“決まり”になった瞬間だった。


 村の空気が、いっそう凍り付いた。




 アッシュは横のクルトを見、そのあと真後ろのヴァルターとヴィルヘルムを振り返った。


 二人とも妹を連れてきていて、彼女達と、アッシュに向かって頷いた。


 昨日までの「見張りごっこ」が急に馬鹿みたいに思える。


 でも馬鹿じゃない。馬鹿じゃないから、余計に怖い。




 エリーゼは村長の横顔を見て、胸の奥が冷えた。


(アッシュのお父様。……何か知っているみたい。恐い)


 彼女は、直感的にそう悟ったのだった。







 ――季節が進んだ。




 熱い草いきれの晩夏はたちまち初秋に変わっていった。涼しさを含んだ風が吹き渡り、夜の月は透明に冷たく輝いた。


 昼間の暑さは間違いなかったが、それでも汗は引いていった。暑さに乾き、くたびれた草の匂いは、いつの間にか復活し、瑞々しい自然な緑が広がっていった。ザビーネ湖の周りには、黄色い葉もちらほら見え始めてきた。




 それなのに、噂は消えなかった。


 消えないまま沈殿して、形を変えた。




「伯爵家の姫は危ない」


「村に置くな」


「何かあったら、伯爵家のせいになる」




 相手は伯爵家で身分違いであるから、言葉は表面、“心配”の顔をしている。


 だが、、その心配はエリーゼを守るためではない。自分たちの暮らしを守るための心配だ。




 まがりなりにもデレリン地方の王様のクラウスが、その空気を見逃すはずがなかった。




 クラウスは、まず畑と井戸の話を聞いた。


 そして夜回りが増えていることを知り、寺院の神官に会い、村の空気の硬さを確かめた。




 ミトラ寺院の表向きの言い方はこうだ。


「風評が伯爵家に及ぶ。娘をここに置くのは、よくない」




 クラウスの実務としての言葉はこうだ。


「村の治安が揺れている。娘の身が危うい」




 それに、エリーゼの体調は持ち直していた。毎日、外で元気に遊んだためだ。


 以前のような、使用人にまで陰口を言われてしまう奇行はすっかり治り、病気の娘とは思えなくなっていた。


 墓参りと寺院参詣の後、彼女の顔色は確かに良くなっている。


 笑う回数も増え、眠れる夜も増えた。




 だからクラウスは、結論を出したのだった。




「ディアナとエリーゼを連れて、デレリンへ戻る」


 青蝶城に戻り、エリーゼは貴族学院で学ぶ。


 ディアナは伯爵夫人として、クラウスの補佐をする。


「エリーゼは天才だ。天才なら磨くべきだ。村で噂に擦り減らす必要はない。護衛も整えられる」




 ある晩、晩ご飯のあとにエリーゼは改まって父からそう言われた。


 理屈は正しい。


 正しいから、エリーゼは言い返せなかった。




 でも、胸の中が置いていかれる。




(いやだ)




 子どもみたいな我儘が喉まで来る。


 でも言えば皆が困る。言えば父も母も困る。その話がどこからか伝われば、村もまた噂を増やす。




 だからエリーゼは、小さく頷いた。


 頷いた瞬間、涙が出そうになって、唇を噛みしめた。







 お別れの日。


 アッシュは「見送りとかいらねえだろ」と言いながら、全員を集めた。集めないと、自分の気持ちがばらばらになってしまうから。




 エマは小さな小袋を渡した。中身は塩と乾いた花。ーーポプリのお守りっぽい、普通の贈り物。


 ミラもエマと作った同じ袋、ただし色違いのポプリのお守りを贈った。


「なくさないでね」


「ずっと一緒だよ」




 クルトは紙を一枚、丁寧に折って渡した。


 そこには文通の約束が書いてある。


 いつ出すか。誰宛にするか。返事が来なかったらどうするか。


 子どもが決めたルールなのに、やけに真面目だった。




 ヨナスは木の枝を渡した。


 小さな刻み目が一本入っている。


「帰ってきたら、続きを刻め」――そう言っているみたいだった。それは、ヴィスター村の風習だった。


 遠くに行ってしまう友人への無事と平穏を祈るもの。




「本当に行っちゃうのかよ、姫。行くなよ」


 パウルだった。


「俺達のこと、忘れるなよ!」


 そうルーカス。


「姫、元気で」


 フランツも鼻声でそう言った。


 そうしているうちに、感極まったエマとミラが涙ぐみ、ヴィルヘルムとヴァルターが妹たちを慰め始めた。




 貴族の馬車の前で、エリーゼは笑おうとした。


 口元は上がるのに、目が笑わない。




 アッシュが明るく言う。


「またすぐ戻ってくるだろ」




 声が少しだけ上ずっていた。


 自分でそれに気づいて、アッシュは舌打ちしそうな顔をした。




 エリーゼは、初めて小さく反発した。


「すぐには……無理かも」




 言ってしまった瞬間、目が潤む。


 自分で自分が子どもだと分かって、恥ずかしくて、悔しくて、涙が出る。




 アッシュは一瞬黙って、乱暴に言い直す。


「じゃあ手紙。絶対返せ」




 エマが割って入った。泣かない代わりに、エリーゼの手を握って言う。


「返事が来ないと、私たち……すごく困るから」




 重いのに、子どもっぽい重さだった。


 困る、という言葉に、本当の意味が詰まっている。




 エリーゼは「みんな大好き」と言いそうになって飲み込んだ。


 貴族の癖が、言葉を止める。言うと、崩れてしまう気がする。




 代わりに、静かに言った。


「……ありがとう。忘れない」




 アッシュは笑って、でも目を合わせない。


「忘れたら殴る」




「ごっちんは嫌だよ!」


 エリーゼは咄嗟にそう言い返し、皆がどっと笑い崩れた。初めての日。


 エリーゼを幽霊と間違えたアッシュが、彼女の額を間違って小突いて……それからつきあいが始まった。




「エリーゼ」


 そこでアッシュが改まった顔つきになったので、エリーゼは居住まいを正した。




「お前は幽霊じゃない。俺が知ってる。お前は村の原因じゃない。むしろ村を守ってくれようとした。ミラを守った」


「……アッシュ」


「お前の事を幽霊って、これからも言う奴がいたら、俺がぶっ飛ばす。本当にぶっ飛ばさなくても、そんな言い訳ぶっ飛ばしてやる! みんな、不安なだけだ。不安の正体をエリーゼになすりつけて言い訳した。お前が……知らない家の姫だから」




 エリーゼの事をよく知らないから、そんなことを言える。アッシュはそう言いたいらしかった。


「だからすぐに戻ってこい、エリーゼ。そして……」




 そして。


 そのあと、……どうなるわけでもない。だが、仲間同士で楽しく過ごす事は出来るだろう。


 皆、そう思った。




 その日も、エリーゼは、デレリンに帰るために綺麗なひらひらしたドレスを着ていた。


 まだ子どもなのに軽く化粧までしていた。まるでショーケースの中におさまりかえった姫人形のように可愛らしかった。


 村の子ども達はそれが分かった。




「ぶっ飛ばすは言い過ぎよ。……でもありがとうアッシュ。謝られるより、ずっと嬉しい」


 エリーゼは泣きそうな顔で笑ってそう言った。




「お嬢様、もうお時間が……」


 馬車の中には既にクラウスとディアナが乗り込んでいる。執事にそう言われて、エリーゼは馬車に向かった。


 乗り込んだ。みんな黙って見ている。




 馬車が動き出す。


 エリーゼは窓から手を振った。振っていたはずなのに、途中で手を下ろした。


 見送られるのが辛くて、見続けられない。




 アッシュは最後まで手を振らなかった。背中を向けた。


 強がり。


 でもエリーゼは、それが優しさだと分かってしまう。







 馬車が見えなくなった瞬間、森の方から風が逆に流れた。




 夏の終わりの乾いた風が、一度だけ、冷たい水の匂いを運んでくる。


 ヨナスの結んだ鈴が、触れていないのに一度だけ鳴った。




 チリン。




 その音に、アッシュが振り返る。


 笑っていない顔で、ぽつりと言った。




「……俺は絶対、言った事を守る。エリーゼは俺の仲間だ」




 誰も返事ができなかった。


 エマが唇を噛み、クルトが視線を落とし、ヨナスは鈴を見たまま動かない。




 少し離れたところで、村長のカール・カッツがその様子を見ていた。


 そして、何も言わずに踵を返す。




 夜回りの宣言を――一日、早めるために。

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