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幽霊少女エリーゼ  作者: スズシロ
はじまりの日へ

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第二十五話 鐘の鳴った日

 精霊祭の翌朝。


 ヴィスター村は朝靄に包まれていた。清らかな朝の光が柔らかく、中央広場を洗ったように輝かせている。


 昨晩の喧噪の名残は、テーブルの上に倒れ伏して、いびきをかいている数人の男。それに対して早起きの働き者達が、広場で後片付けをしていた。


 まだ人々の楽しげな笑い声が、耳に残っているようだ。女房連中は食べ残しの皿を片付け、鍋を片付け、空いた酒樽を転がした片付けた。眠たげな目をこすりながらミラ、エマ、それに起きだしてきた子ども達も親の真似をして手伝った。


「ほら! あんた、起きて」


 テーブルの上で寝こけている旦那を女房が肩を叩いて起こしている。


 間抜けな声を立てながら男は目を覚まして立ち上がり、女房にせかされてテーブルや椅子を片付け始めた。




 楽しかった記憶の名残は、足下にまで残っている。皆で踊ったダンスの足跡が、踏み固められた土の上に。草の上に。


 設置されていたテーブルが壊されて、薪に変えられていくのを見ながら、エマがため息をついた。


「楽しかったのにな……」


「精霊祭は年に二回、冬にもある。そんとき、また、踊ろう」


 ヴァルターがそう言って笑った。実際に、8月のアトゥル月の他に、雪深い2月のイシラ月にも精霊祭は行われる。真冬の寒い時期で、ザビーネ湖まで出てくるような事はしないが。それはそれで、雪国の情緒深い祭であった。




「よし、ここまで。あとは昼からでも間に合う」


 そう言って、働く手を止めたのは、クルトの父だった。中年の親しみやすい風精人ウィンディの彼は村の中心人物の一人である。クルトの父は、片付けを終えた村の老若男女を見渡しながら言った。


「忘れるなよ。今日は墓参りの日だからな。あとで、寺院で会おう」


 その言葉で、村の皆は顔を引き締めた。精霊祭の夜に、ご先祖様達は、皆のところに帰ってきて歓迎の宴を受けた。生きてる人間もご先祖様も皆一緒のパーティだ。そのあとは、しっかり墓参りをして、ミトラ寺院で儀式を行い、ご先祖様を無事に霊界に送り返すのである。


 そうして半年ごとに村の空気は蘇り、”今日から””今から”を大事に、皆、生きていく。




 アッシュは片付けをしながら、いつものように大声では騒がなかった。まだ眠いため、広場の井戸のところまでいって、冷たい水でもう一度、顔を洗った。既にじわじわと大気は蒸し暑くなってきて、ひんやりした水が心地よい。それなのに、何故か心は浮かない。うまく言えないが奇妙な感覚で、何かが引っかかっている気がする……昨日現れた、妖の鈴影のせいだろうか?




「眠いのか、アッシュ?」


 ヴァルターが、桶を抱えたままアッシュの方をのぞき込んだ。




「別に」


 アッシュは前髪の水滴を手で拭いながら答えた。暗い予感を振り払うように笑う。自分でも説明出来ない不安な感じを、仲間に伝えるつもりはなかった。




 クルトは濡れた雑巾を絞りながら、普段のように笑っている。


「昨日、騒ぎすぎただけだろ。俺も、興奮して明け方まで眠れなかったよ」


「ああ」


 アッシュは口が重い。普段なら軽口の一つや二つ、自然と出てくるのに。


「……そういや、エリーゼは?」


「来てないよ。やっぱり、お姫様だな」


 クルトは簡潔にそう答えた。伯爵令嬢の彼女は、村の片付けには参加していないらしい。


「そうなのか」


「かわりに、ほら」


 クルトが視線で指し示した方には、見慣れない男女が二人いた。身ぎれいな制服を着込んで、くるくるとよく動いている。


「ハルデンブルグ伯爵家の使用人だ。早朝からテキパキ、働いてくれている。伯爵の配慮だな」


「……なるほど」


 エリーゼは、まだ、ベッドで夢の中なのだろう。


「午後からのお参りには来るさ。姫はきっと」


 鈴影の妖を倒した後から、クルトは自然と、エリーゼの事を姫と呼ぶようになっていた。


 彼女の神秘的な記憶力のおかげで、ミラが助かったと思っているらしい。




「クルト! お母さんがちょっと呼んでるー!」


 そのミラが、ちょうど、母にクルトを呼んでこいと言われたらしく、走り寄ってきた。


「ああ、今行く」


 クルトはアッシュを残して、ミラの方についていった。


 アッシュは二人の仲の良い背中を見送り、昨夜の衝撃は乗り越えたようだと思った。


 アッシュは、ザビーネ湖の方に視線を投げた。その途中に、北の森がある。唐松やニオイヒバの多い寒い土地の森だ。晩夏の森の燃え立つ緑、その影が妙に気になる。木陰の暗がりが、普段より一段と濃いような違和感。




 エリーゼがいないことも、仕方ない事だが奇妙な苛立ちを誘った。エリーゼが悪い訳ではない。


 伯爵令嬢が、村の人々と入りまじって、祭のあとの片付けなどするはずがない。もちろん、しては悪いと言う事ではないけれど。


 むしろエリーゼは、アッシュたちと片付けをしたいと言ったかもしれない。だが、そんなことをすれば逆に、村のみんなが気を遣って、全然仕事がはかどらなくなるだろう。使用人の何人かがかわりに働いてくれる、それでいいのだ……。


 だが。


(エリーゼは、俺達と違うって、誰がきめたんだ?)




 アッシュは自分が、そのことで、不安と苛立ちを感じているのだと思った。




 アッシュ達がよく遊ぶ、村はずれの空き地からずっと進んだ先に、村の墓地がある。


 小さな丘に寄り添うように並ぶ墓石は、古いものほど丸く、苔に柔らかく包まれている。外れの方にいくつかばらけてある墓石は、古すぎる時代のものだが、四百年ほど前にミトラ寺院が建てられてからは、墓地は綺麗に整理され、どの家の墓石か分かるように整然と順序よく並んでいた。




 村では、どの家も、黒い色合いの上等の服を着て午前中から墓参に訪れる習わしだった。


 必然的に結婚式に着る以外はそれが一番綺麗な服になるのだが。家族の皆は、手に手に花束やキャンドルを持ち、故人を弔う想いを表す。


「あ! 昨夜はどうも……」


「いやいやこちらこそ、いつもお世話になってます」


 早速、墓地に訪問してきた村人達は、墓石の前のあちこちで、それぞれ頭を下げたり挨拶したり、人付き合いを始めた。


 日頃疎遠な相手同士も、頻繁に交流がある相手同士も、かわりがない。家族に連れられてきた子ども達の中には、小さな者もいるが、その子ども同士が自然とくっつき、大人が立ち止まって長い話をしている間に、墓地の中を走り回ったりしている。


 精霊祭は、火を使うイベントのあるものは子どもの年齢を選ぶが、この墓参と寺院への参詣は、どこの家でも全員参加が普通なのだ。




「こら、墓地の中で走るなよ。怪我するぞ」


 学校に通う低学年のグループが、大人の長話が退屈で、追いかけっこを始めたのを見かけ、ヴィルヘルムが注意をした。


「なんだよー!」


「べー!!」


 ところが元気のいい低学年達は、ヴィルヘルムの方に舌を突き出して反抗的な態度を取る。


「お前らなあ! 墓石にぶつかって、化けて出られても知らないぞ!」


 ヴィルヘルムが怒ると、何故か低学年達ははしゃいだ笑い声を立てて喜び始めた。挑発のつもりなのだろう。


「何やってんだ、ヴィル」


 そのとき、家族で通りかかったアッシュが、ヴィルヘルムに声をかけた。


「あ、アッシュだ……」


 低学年のわんぱく坊主たちは途端に大人しくなり、萎縮した様子でその場に固まった。何やら頬を赤らめてアッシュの方を見ている。


「こいつらが、墓地で騒いでいたんだよ。墓石にぶつかったら危ないって教えてやったんだ」


「…………」


 わんぱく坊主はきっとヴィルヘルムの方を睨むが、本当の事なので何とも言えない。


 そしてアッシュの方を見てもじもじし始めた。


「? なんだ」


「サインでもしてやれば? 昨夜の活躍、知ってるんだろ」


 自分へのとあからさまな態度の違いにヴィルヘルムは苦笑いしている。


「サインって……」


 アッシュは呆れた。気分が良くない訳でもないが、有名人でもないのにそれはないだろう。自分は妖を一匹倒しただけだ。


「姫は! 姫は来ないんですか!」


 わんぱく坊主の一人が、勇気を出してアッシュに質問してきた。


「エリーゼならすぐ来るだろう。伯爵家がこういうこと、きっちりしないわけがない」


 アッシュは肩を竦めてそう答えた。


「そんなことよりお前ら、墓地で走り回るんなら、人が少ない時にやれ。人にぶつかったり、かわそうとして転んだりしたら危険だろ?」


 アッシュから見ると問題の本質は、小さい子どもが不注意のために怪我をする事だけだった。


 墓地で騒ぐなとかそういうことではなく、お前らが怪我をしないようにしろとそれだけを言った。


 子どもが子どもの遊びをするのは当たり前のことである。大きくなってから墓地で追いかけっこなんて出来ないんだから。


 今のうちにやっておけ。ただし怪我をしないように。




「はーい!!」


 アッシュの言った事が伝わったらしく、子ども達は大人しく、走り回るのをやめて、別の遊びの相談をし始めたのだった。




「ヴィル、エマは?」


「ああ。エマなら、母ちゃんと親戚のおばちゃんと何か話し込んでいて長くなりそうで。俺と父ちゃんは、ミトラ寺院の方に先に行こうかって言っていたら、父ちゃんも別の親戚に捕まっちゃって、長い話をしていて、俺、暇で」


「お前放置されてるのか!!」


「そういうアッシュは?」


「俺はこれから、親父と丁稚のみんなで墓参りだよ。キャンドルが足りないんで、今寺院から買って来たんだ」


「なるほど。俺もう、墓参り終わったから、先に寺院に行くよ」


 そんなふうに、アッシュはヴィルヘルムとすれ違った。墓地にはクルトやヴァルターとミラの兄妹、寺院好きのヨナスなどの影も見える。全員、家族と一緒だった。その家族が大体、親戚やらご近所の仲良しやらと合流して立ち話をしている。




「毎回だけど、凄い人だな……」


 小さい村でも大イベントの後はこうなるのか、と納得しながら、アッシュは寺院で買ったキャンドルとライターを持って、カッツ家の墓の方に向かった。


 村長のカッツ家は、農業も漁業も手広くやっており、牛や馬、それに番犬を飼い、丁稚奉公を何人か召し抱える事が出来る程度に裕福だった。


 また代々、鍛冶屋も営んでいたため、その徒弟の何人かは同居していた。その丁稚や徒弟の大勢いる、母親だけがいない家でアッシュは育ったのだった。


 丁稚の中には、代々、カッツ家が面倒を見ている者もいて、その墓石もカッツ家のすぐ隣に置かれた。葬式を、カッツ家で出す事もあるからだ。




「親父、キャンドル買って来たぞ」


「おお、アッシュ。すぐ火をつけるから、こちらに渡しなさい」


 寺院から渡された白いまっすぐのキャンドルを、カールは受け取り、先祖の墓の前に火を供え始めた。一番大きい墓は”先代カール”で、アッシュの祖父である。父と同じ名前だったのだ。


 その隣にあるのが、アッシュを産んで亡くなったとされる母のルツィアの墓である。


「……」


 カールが滅多に話したがらないので、アッシュはルツィアの話はよく知らない。だが、才気煥発で明るい女性だったらしいことは、昔からの奉公人から聞いていた。


 カールはルツィアの死の悲哀から立ち直っていないのだと、寺院の僧侶が言っていた事がある。そのため、アッシュにも母親の話がなかなか出来ない、だからアッシュが、カールの心を分かってやりなさいと言われた。それで、アッシュはカールの前でも、誰の前でも、母の話はしたがらなくなった。それでも、自然と、アッシュの視線は祖父である先代のキャンドルではなく、母の墓前に供えられたキャンドルの方に向かって行った。


(お袋はどんな人だったんだろう……みんな、口を揃えて美人だったって言うけど……)


 墓前に来る度、他のどの先祖よりも、母の事が気になる。じっと、墓前の火を見ていると、妙な事に気がついた。




「風向きと、逆……?」


 風は、北から南に吹いている。今、肌を撫でる晩夏のじわりとぬるい風は、明らかに南に向かって吹いている。


 それなのに、墓前の火は、墓石の方--北に向かって、炎を揺らがせていた。


「!?」


 キャンドルの火が、風と逆向きに揺れている。誰か、不謹慎にも墓地で魔法をいたずらに使っているのかと、アッシュは辺りを見回そうとした。例えば先ほどの低学年とか。


「アスラン、大人しくしなさい」


 ところがカールが、低いが厳しい声音でそう言って、墓前で祈りのために手を合わせたた。アッシュは続いて手を合わせ、母に、ミトラの祈りを捧げ始めた。大人というものはそういうところがあることは知っていた。妙な事があったとしても、その場では話題にしない。それに、元から、精霊祭の前後には不思議な事が起こるという迷信が伝わっている。それがあったのかもしれない。




 一通り、お祈りを終えて、顔をあげると、エリーゼがちょうど、伯爵と何人かの使用人と一緒に、墓地に入ってくるところだった。なんでも、数年前にヴィスター村の屋敷に奉公していた使用人の1人かが亡くなった時、この墓地に入れたのだとか。その墓参りに来たのだ。


 エリーゼはアッシュと目が合うと、嬉しそうに微笑んで手を振ってくれた。


 だが、クラウスに呼ばれてすぐに父の後をついていった。




 墓地の隣の小さな丘の上にヴィスター村のミトラ寺院がある。


 神聖バハムート帝国はミトラ十二神を始めとする多神教を国教としていた。アストライア星は数々の神々や精霊が棲まう聖なる幸いの星なのである。その中でもミトラ十二神は最強の力を備え、その中でも光り輝く太陽神ミトラが主神となるのだ。


 太陽神ミトラを含む十二神は、神界でスメール山という高い高い山の山頂に宮殿を築き生活しているとされる。そのため、ミトラ寺院は丘や山などの上にあるのだ。


 丘を上がる途中で、カッツ家の一行と、伯爵家の一行は合流した。カッツ家は先祖代々の墓参りをする必要があったが、伯爵家は奉公人の一人分ですんだので、時間が短縮出来たのである。


 カールとクラウスは快く挨拶をかわし、一緒に並んで参道を歩き始めた。アッシュとエリーゼ、そのあとに使用人達が続いた。アッシュはエリーゼを意識して横目で見た。銀髪のかかるエリーゼの額、薄い縁の眼鏡をかけたライムグリーンの瞳、柔らかそうな口元が見えた。そして色白の肌。


 初めて会った時は本当に幽霊かと思うぐらい、真っ白な少女だったが、自分たちと遊ぶようになってから、随分血色がよくなったような気がする。白い額も、微かに赤みを帯びてピンク色に見える。


(額……)


 アッシュは初めて伯爵家の庭で遊んだ日の事を思い出していた。何故今、その事を思い出したのかは分からない。エリーゼが綺麗にしているからかもしれない。あの時も、エリーゼはひらひらしたドレス姿だったから。




 不意に、違和感。


 それはエリーゼの方がはっきり感じたようだった。


 急激に体が冷える。周囲の音がやけに遠く感じられる。すぐ前で話しているはずのカールとクラウスの声が、布でも通したようにくぐもって聞こえる。


 それに驚いてクラウスの名を呼ぼうとした時、肩の↓が痛んだ。ちょうど、右の肩甲骨の内側が、急激に熱を持って痛い。まるで焼きごてでも当てられたように、瞬間的に熱くなった。


(何、これ……熱いっ、息が出来ない)


 エリーゼが声をあげようとした時、アッシュが半歩前に出た。


 まるで背中にエリーゼを庇うように。


 それから振りかえって彼女に手を差し伸べた。




「前。段差があるから気をつけろ」


 うずくまりそうだったエリーゼだったが、アッシュに手を取られ、急勾配の参道を何とかのぼり始めた。


 微笑ましい光景に周りが苦笑する。


 だが、アッシュの顔は厳しい。アッシュはアッシュで、胸骨の中央が痛くて仕方なかったのだった。原因不明の熱を持った痛み……。




 やっと、丘の上のミトラ寺院に着いた。


 石段を上がっていくと、境内全体から古い木の匂いがする。


 エリーゼはミトラ寺院を見た時、手入れのよく行き届いた、日本の古い神社みたいだと思った。木造建てでそれほど大きくはないが、境内の中にはちり一つ落ちていなくてとても清潔感があった。




 村人達は列を組んで順番に寺院に参詣し、僧侶にご先祖への祝詞をあげてもらい、祈りを捧げ、最後に寺院の鐘を鳴らしてもらうというのが大雑把な精霊祭の手順である。本当はもっと細かく丁寧な儀式である。本来なら、各家族ごとに祈祷するのだが、最近では、2~4家族ずつまとまって、一緒に儀式を執り行う事も多い。その方が効率が良いからだ。


 カールとクラウスは、一緒に参詣する事にした。


 寺院に入って、そのことを報告しようと、寺院の雑仕にクラウスが声をかける。


 アッシュとエリーゼは、そのあとをついて、寺院の門前に立った。




 そのとき……。




カーン……




 誰も、触っていない、寺院の鐘が高々と鳴った。


 同時に、境内の影が、”薄く裂けた”。




 空間の裂け目は、それこそ、時空を巨大な剣で切り裂いたように突如、そこに現れた。裂け目の向こうは暗く黒い。


 その暗がり……異質な、異界の真っ暗闇。


 そこに、明らかに誰かがいた。誰かがこちらを、両目でのぞき込んでいる。




 エリーゼは息を飲んだ。


 アッシュがエリーゼを庇った姿勢のまま、硬直する。


 クラウスは咄嗟に帯剣している剣に触れる。




 そのとき、何も気づいていない僧侶が、日頃の口癖でカールに向かってミトラの祝詞を唱えた。


 老人のカールに、健康と精霊祭の寿ぎの意味の祝詞を唱えながらにこやかに近付いてきた。


 本人にとっては頑固者の村長への明るい挨拶のつもりである。




 途端に、空間の裂け目が震えた。縮み上がるように震えた。


 その事に気づいたエリーゼは、立て続けにアトゥルの祝詞を唱えた。


 何故そうしなければならないかは分からなかったが、小声で早口に立て続けに太古の神アトゥルの名を呼ぶ祝詞を繰り返した。


 ぶるぶると震えながら--裂け目は消えた。




「何だ? 今の……」


「分からない。多分、魔族だと思うけど……」


 アッシュの質問に、エリーゼは冷や汗を拭いながら答えた。




(エリーゼ……)


 偶然にも裂け目を見たクラウスは、娘の方を振り返る。一体何があったのかは、伯爵である自分にも分からなかった。


 だが、恐らく魔族だろうとは思う。魔族がミトラ寺院という清浄な場所に現れるとは何事なのか……。


 しかし、精霊祭の最中だけに、クラウスも、大声で事件を話すような事は出来なかった。


---


 何かが始まっている……。


 確実に、何かが変わってきている。




 そのことに、まだ大半の人々は気がついていなかった。


 だが、物語はもう始まっていた。




 あの長く苦しい魔大戦がいつ始まったのかと問われれば、皆、ひとりひとり違う答えを出すだろう。


 ひとりひとりの記憶に沿って、魔大戦の開始の”時”を思い出す。




 だが、本当の始まりは、このときだったのだ。


 アッシュとエリーゼの”魂印”がふれあい、重なり合った時から始まったのである。




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