第二十三話 守りの網
妖とは何か?
妖とは、簡単に言うと、魔族の中でもレベルが低い、魔獣や魔物のうち、民間に近いものを言う。民間伝承の中に頻々と言い伝えられるポピュラーなものたちだ。妖の出現は、ミトラ寺院の僧侶や村の自警団によって食い止められる事がほとんどだが、稀に惨状の程度によっては軍が動く。
ちょうどアッシュ達が生まれた頃から、デレリンのヴィスター村では、妖は出てこなかったため、皆が油断していたのだった。
妖は何のために人を襲うのか--それは、魔族が何故人を襲うのかという話にも似ている。
今回、妖が人を襲った理由は、自分たちの住む異界に、子ども達を連れていくためである。人の住まない自分たちの領域に、か弱い子どもを何人も連れて行って、どうする気なのか……それは妖でなければわからない。
異界、”あの世”と人間の住む世界”この世”の境界を印し、見えない開かずの扉を作っているのが結界石だ。村人の通称は”触るな石”。
その結界石の近くにミャウに似せた影を持つ鈴影と、凍息がいる。その影に魅せられたのがミラ。
ミラを追いかけてきた子ども達。
鈴影は、小動物の影に擬態する妖で、ペットの鈴の音を鳴らし、首輪をちらつかせる。大事な家族やペット、恋人を失った人の心に反応し、喪失に苦しみ、再会への願いを利用する。失われた愛する者に会えると優しく誘いながら、境界へと引っ張り、異界へさらおうとするのだ。
凍息とは、魔獣ではなく現象である。結界の意志そのものとでも言うべきか。結界がほころぶと出る匂い、気配の事を言う。夏でも息が白むほどの寒気が走り、水は全て凍る。そして、結界がほころびた反応として、結果石が避けそうな音が鳴るのだ。
これが出ると、ヤバい。村の長老や村長だったら誰でも知っている事であった。結界石の鳴る音が響くたびに、あの世とこの世を分けている結界は裂けていき、傷口が広がり、人々はさらわれ、魔獣や魔物が跋扈する。
「ミラ!!」
ここ最近、妖は村に出ていない。だから、危険がどういう危険か分からない。そのため、ヴァルターは、猫の影に近付いていくミラに走り寄り、危険も顧みずにその手を掴んでたぐり寄せようとした。
「ミラ、危ない! こっちに来るんだ!!」
途端に、凍てつく冷気が飛び、ヴァルターは弾かれたようにその場にとどまった。ヴィルヘルムなど目ではないような冷気が、風の塊のように飛んできて、ミラに近付けまいとしているようだった。
「ヴァルター! 待って!!」
ヴァルターと、親友のミラがいよいよ危ないと、エマは水辺に走り寄ろうとするが、暗闇に足下をすくわれ、その場に転んだ。
遠くでは妖が出た事により、村人達がパニックを起こしかけている。カールが自警団を仕切って、何とか人々をなだめ、ヴィスター村の中央広場まで逃がそうとしているが、悲鳴を上げて勝手な方に走る者も多く、群衆事故が起きかけている。妖の対処法を知らないものも混じっているためだ。まして、火を使うイベントである。
「畜生っ……」
ミラの事も心配だが、やるべきことはやらなければならない。
アッシュは護符を懐にしまい、防火班の方に向かった。
「妖からは離れて距離を取れ! 水桶と砂を準備! 火は全て下げろ!!」
子ども達に的確な指示を出し始める。逃げていいのかどうかも分からず、混乱していた公立学校の子ども達は、アッシュの指示に安心した顔を見せて従った。
それを見て、カールは、ふう、と息を吐いた。そして自分も、自警団達に、若い連中を落ち着かせるように言う。
アッシュは、空を見上げた。会場に、紐と一緒に仕込んでいた透明な大網を見てみた。”灯り舟”が空の一定の高さ以上には勝手に上がっていかないように、魔法で、透明なネットを張り込んでいたのだ。現代地球で言うならば、超巨大な透明ビニールネットを何枚も何枚も重ねて張って、上昇気流を防いでいたようなものである。
アッシュは、元々、村長のカールに妖の昔話は散々聞かされていた。あんまりな悪戯を繰り返すために、”妖に連れて行ってもらうぞ!”と脅されて育ったのである。そのため、最近、クラウスの図書室で興味半分に妖の事を調べていた。だから、知識はある。
(このままではミラが異界に引きずり込まれる……迷っている場合じゃない!)
アッシュは、ミラの近くのネットを叩き落とした。巻き添えを食っていくつかの”灯り舟”が横に流れていく。だが、かまっていられる場合ではない。
透明ネットが、鈴影とミラのちょうど真ん中に落ちている。魔力を帯びたネットを操って通せんぼをさせ、ミラが物理的に鈴影の方に近寄れないようにした。
「な、何……!」
暗い夜の闇、突然、見えないネットにさえぎられたミラがうわずった声を立てる。
途端に、凍息が”触るな石”から強烈にい放たれた。
立っていられずに、思わずミラはその場にうずくまった。気がつけば、真夏の夜だというのに、凍えるように寒い。体の熱が異常な速さで奪われていく。
何故、今まで平気でいられたのだろう。
寒い。死にそうに寒い。
湖のほとりの”触るな石”。
真っ黒な石が、目に見えるほどの冷気を放っている。その隣に、猫の影。
猫の影のあたりから--闇が広がる。闇の中に底なし沼がある。その底なし沼に、落ちていく錯覚。
否、錯覚ではない。
ミラは、いつの間にか、その底なし沼、”異界の穴”に囚われかけていた。
凄い勢いで、重力のような魔力が、ミラを”異界の穴”に引っ張っていく。
「やめて……!」
ミラは慌てて、その場の砂にかじりつき、自分の体を守ろうとした。ちょうど、そこに見えないネットがあり、ミラが”異界の穴”に落ちていくのを防いでくれている。だが、ミラには何がなんだかわからない。ただただ恐くて、砂の上で身をもがいた。
「ミラ!」
防火班に指示を出し、安全を確保した後。
アッシュは、ミラと仲間の方に追いついた。転んだエマをヴァルターが助け起こしている。
エリーゼは、アッシュの方を振り向いた。
「大丈夫か、エリーゼ。お前達は、無事か」
アッシュは咄嗟にエリーゼの腕を掴んで尋ねた。
「わ、私達は大丈夫……ミラが、大変なの」
「ミラを、妖が連れて行こうとしているのか?」
「異界に連れて行こうとしているのよ。これは……」
エリーゼは、聡明な瞳を揺らし、辛い事を口にした。
「ミラは、想いが重すぎるの。ミラが今持っている、猫のミャウの宝物、それのどれか一つを置いていかなきゃダメみたい」
「宝物?」
「重くて大きすぎる悲しみを、宝物のどれか一つにこめて、湖に流して。そうすれば、ミャウと、湖の女神がミラを助けてくれるわ。ミラの、ミャウに会いたくても会えない悲しい気持ちが問題なのよ」
自分でもなんでそんなことがわかるのか、分からない。だが何故か、どうすればミラが助かるのか、エリーゼの脳にはっきりと答えが浮かんでいた。エリーゼは、特別な子どもなのだ。
それにしたって、こんなことをミラの前では言いたくない。愛しいミャウとの思い出の詰まった宝物を、どれか一つでも手放すなんて。だが、大きすぎる悲しみや無理難題な祈りは、いつだって、子どもの未来をふさいでしまうのだ。
ミラにも、クルトにも、その声は聞こえていた。
「ミラ、しっかりしろ!」
クルトはミラのぎりぎり近くまで行きながら声をかけた。
「宝物なら俺がまた作ってやる。どれか一つ、手放せ! 出来るだろう!?」
「クルト、私……」
それでもミラはまだ震えている。持ってきた、ミラの宝物の詰まった紙袋を抱えて。
「ミラ! また一緒に、ミャウの墓参りに行こう? 思い出話、聞いてあげる。一緒に宝物見てあげる、だから……!」
たまらずにエマがそう叫んだ。だが、ミャウの宝物を捨てろとは言わなかった。言えなかったのだ。
そのエマの様子を見て、ミラは決断した。
「分かった。これ……」
ミラは、ミャウと遊んだ長い紐の何本かのうち一本を取りだした。先ほど、もう一本は灯り舟の中に入れてある。かじかむ手で紐の一本を取り出して、湖の女神ザビーネの名前を唱えて、凍った水面に投げだそうとした。
その途端、腕が強烈な力で引っ張られた。
紐が--。
猫の遊び紐が、”異界の穴”に、腕ごと引っ張られている。
ミラの体は砂浜に引きずり倒され、そのままずるずると、暗く黒い”異界の穴”へ連れ込まれそうになった。
「ミラ!!」
アッシュが怒鳴り声のように叫ぶ。
「い……やぁ……!」
ミラも叫んだ。
「ミラ、紐、放せ! 捨てちまえ!!」
妹の命には変えられない。ヴァルターが必死に怒鳴った。
「出来ない……お兄ちゃん。手が……離れないの。手が、動かない!!」
「ミラ!!」
たまらずヴァルターはエマのそばからミラの方へ走り出した。途端に、”異界の穴”が吠えた。吠えたようにしか、聞こえなかった。異質なうなり声があたりに響き渡り、激しい冷気が”触るな石”から噴き上がる。
「あ……」
小さな声を立てて、ミラはついに気絶した。
”異界の穴”の方に猫の紐で、ピンと腕を伸ばしたまま。
「ミラ、しっかりして!」
エマが泣きそうな声で叫ぶ。
「クルト、出来るか!?」
アッシュは彼の方を見てその名を呼んだ。
「……やる!」
クルトは、公立学校での成績はかなりいい方に入る。魔法の基礎練習も何もかも、高得点で、正直、高学年クラスの勉強に混ざってもいいほどだった。
クルトは呪文を組み合わせて唱え、遠隔で、透明のネットをミラの体に巻き付けるようにして固定した。防寒のためと、これ以上、”異界の穴”に引きずり込まれないようにだ。
それでも、右腕は”異界の穴”の方を向いて、紐でぶら下がっているようになっている。
アッシュは、懐からナイフを取り出した。流石に木の剣は家に置いてきていたが、様々な作業に使うナイフは持ち歩いていた。ナイフを片手に、アッシュは砂浜を走った。
猫の鳴き声が聞こえる。
まとわりつくような優しい声。
鈴影だ。
鈴影が、ミラの意識を支配し、彼女を逆の猫なで声でたぶらかして、異界へ連れ去ろうとしたのだ。
アッシュは意識から猫なで声を振り払い、ナイフを振りかざした。
猫の紐を一閃で切り払う。
紐が、湖の水面に落ちた。凍っていたはずの水面が、紐が落ちた途端に凄い勢いで溶けていった。薄氷が解けて、夜の湖の黒いうねりが猫の紐をさらっていく。
ミラの手は、ひもの切れ端を握りしめたまま、重力に逆らわずにだらりと砂浜に落ちた。
猫の紐が波に揺れる。たちまち解けていく氷。それは、デレリンの街を育ててきた湖の女神ザビーネの魔力だったのかもしれない。まだ子どものアッシュ達には、どういうことかは分からなかった。だが、猫の紐は確実に、湖の波の中に飲まれていった。
「いにしえより伝わる神々に祈ります。一つは精霊祭の神アトゥルに、一つは優しき湖の神ザビーネに、一つは昼と夜の神ミトラに、我々人間は平和と絆を望みます。神々の作りし豊かなこの世を守り、愛し、調和して生きてゆかんことを……かつてはこの世にあり、呼吸をしていた数々の生命もまた、この世にあるかぎりは、神々の掟を守り……人を愛し、命あるものを愛して害をなさないことを……祈ります」
古代の言葉の呪文を交えながら、エリーゼは”触るな石”と異界の穴を見つめながら祈った。異界の穴がへこんでいく。明らかに、空間が閉ざされ、小さくなっていくのがわかった。小さく、小さく……次第に、消えていった。
異界の穴が完全消滅した瞬間、子ども達は全員、大きく息を吐いた。
アッシュはナイフをおろし、クルトはミラに駆け寄った。
ミラはクルトとヴァルターの間に挟まれ、透明なネットにぐるぐる巻になったまま、ぐったりと気絶している。
「ミラ、しっかり」
ヴァルターが、そう言って、妹の頭を撫でた。
「ミャウのために、無茶しやがって……」
「ミャウ?」
ふとそのとき、クルトは思い出した事があった。
クルトは、元々ヴァルターとは仲が良く、彼の家に遊びに行く事が多かった。そこで小さい頃からミラとも遊ぶようになったのである。だが、ミラの大事なミャウは、クルトの事が気に入らず、来る度彼の事をひっかいて威嚇した。それでもめげずに、クルトはミラと遊び、彼女と一緒にミャウにごはんをあげたり、何とか撫でようとしたりした。
ある日、ミャウは、クルトが来てもひっかかなかった。彼が恐る恐る、ごはんを出しても何も言わずに食べてくれた。おっかなびっくり、頭を撫でると、……噛みつくようなそぶりをした。噛むふりで彼の手に軽く歯を立てたあと、「ふん!」というように尻尾を立てて、どこかに行ってしまった。
それから一週間経たないうちに、老衰でミャウは亡くなった。朝、起きたら、自分の猫ベッドで、冷たくなっていたそうだ。
ミラは酷く泣いたが、クルトは泣くような気分にもなれなかった。
なんというのか……それはそういう意味だったのかと、10歳なりにわかったのだった。
何故か、今、そのとき、誇り高くまっすぐに伸びていた、ミャウの尻尾が見えたような気がした。
カン……
また、金属音がする。先ほどよりもよっぽど澄んだ、綺麗な音だった。
「空間が安定している。元に戻ったわ」
エリーゼが、周りのみんなにそう言った。
「そんなこと、分かるの?」
エマが驚いてエリーゼの方を見た。お嬢様は元から、頭が良い事は知っているけれど。
「……分かる、と思う」
エリーゼは自分の秘密の事を思い出しながら、口ごもってそう応えた。
そのとき、アッシュは、空間がまだ揺れているのではないかと思った。不思議な猫が、見えたのだ。
突如現れた、三毛猫が、自分の足下に寄ってきて、まるでお礼を言うように、するりと体をこすりつけていったのだ。
見間違いじゃないのなら、それは、ミラの……愛猫ミャウだった、ようだ。猫はすぐ風のように消えた。
消えてしまった猫に首を傾げながら、アッシュはナイフを鞘におさめた。……一仕事、終わった。




