第十三話 ケイドロ戦争
ヴィルヘルムは、花壇の影に転がり込むように退いた。
冷気弾が跳ね返った直後から、肩口がじんじん痛む。擦り傷だけのはずなのに、皮膚の奥がひりつく感じがする。歯を食いしばったところへ、足音が二つ――土を蹴る軽い音と、ドレスの裾が草を撫でる音が重なった。
「大丈夫!? 兄ちゃん!」
エマがしゃがみ込み、ヴィルヘルムの腕を取る。続いて、エリーゼが花壇の縁に膝をつき、心配そうにのぞき込んだ。
「……エマかよ……」
ヴィルヘルムは苦笑いを作ろうとして、痛みに顔を引きつらせた。エマは自分によく似た金髪碧眼の兄のそばに付き添う。風精人の多くは銀髪と優れた容姿を持つが、この二人は淡い金髪と活発な印象の兄妹だった。
「作戦、必要だな……。このままじゃ、牢屋が地獄だ」
遠くから聞こえる。「うぇええ……くっさ……!」という呻き声。ヴァルターだ。誰かの靴の匂い責めがまだ続いているらしい。
「分かってる。ほら、ちょっと動かないで」
エマは息を整えると、指先をヴィルヘルムの傷に当てた。小さく、淡い光。目立たない、けれど確かな魔法の温もりが皮膚を撫でる。
エリーゼは驚きに息を飲んだ。
(……エマ、回復ができるんだ)
「村の子だって、できる子はできるのよ」
エリーゼの驚愕に気づいて、エマは笑って言った。ヴィルヘルムの傷口の赤みがすっと引いていく。
「はい。これで痛みはマシになる。で、作戦」
ヴィルヘルムは顔を上げた。木々の影の方――クルトとミラの黒髪が見える。二人ともこちらを見て、黒髪を揺らし、同時に頷いた。
声は出せない。出したら見つかるだろう。
だから、目--視線で会議する。
(宝物は無理だ。今はヴァルター救出だけ)
(同意)
(でも、宝物取れたら一気に全開放だ)
少年たちが目で合図をしあっている間、ミラは頬を赤くして、クルトの袖をつまんでいた。
クルトは「分かってる」とでも言いたげに、小さく指を立てた。お互い意識してるのが、丸分かりである。
エマは心の中で「今それどころじゃない」と突っ込みながらも、ちょっとだけ笑いそうになった。
「……宝物、取れたら牢屋が自動で開くんだよな?」
ヴィルヘルムが低く言う。
「そう。宝物はアッシュの剣」
エマが即答する。「あれ取れば、ヴァルターだけじゃなくて全員自由だよ、兄ちゃん」
「じゃあ……剣を取るしかない」
エリーゼが小さく呟いた。声が震えているのに、目は真剣だった。
「お嬢様、怖い?」
エマが横目で訊く。
「怖い……でも、ヴァルターが……」
「だよね」
エマは頷くと、ヴィルヘルムの肩を軽く叩いた。「兄ちゃん、ルーカス引っ剥がせる?」
「やる」
ヴィルヘルムは短く言った。九歳の背には九歳なりの、硬い決意があった。
そして――
一方その頃。木々の影で庭全体を睨むように見回しながら、アッシュは真剣な表情だった。
(花壇の影にヴィルヘルム組。木陰にクルトとミラ。牢屋は……)
牢屋――庭の端の木柵で組まれた即席の“檻”には、ヨナスが看守役として立ち、ルーカスが怪力でヴァルターを押さえ込んでいる。ヴァルターは靴の匂い責めに対して、無我夢中で暴れようとしては、押さえつけられている最中だ。
アッシュの手元には宝物――木の剣。
それが、今日の勝負の“鍵”だった。
「よし。泥棒を一網打尽にしてやる!」
アッシュは低く言った。
「フランツ。パウル。……来い」
フランツは太く笑い、パウルはすでに走る準備をしている。速い。パウルはとにかく走ると速い。
「人数の少ない方から潰す。牢屋はヨナスとルーカスに任せる。――クルトとミラ、狩るぞ」
「了解!」
パウルがアッシュの前に飛び出し、掌をくるりと返した。
「風の手裏剣、いっくぞぉ!」
しゅっ、しゅっ、と見えない刃が飛ぶ。枝がぱしぱしと叩き落とされ、木陰の逃げ道が削られていく。
クルトは即座に判断した。
(正面は無理。ミラ、透明化トラパレ。迂回! 牢屋へ!)
ミラが頷いた。指先がきゅっと結ばれ、小さな透明感が二人を包む。姿が薄くなる。呼吸だけが残る。
クルトとミラは風精人の得意とする風の魔法で、光の屈折率を変え、完全に透明化した。
二人は音を殺して走った。木陰から花壇の裏へ――牢屋の横へ回り込み、ヴァルターの肩を叩く。解放。解放。解放――!
……のはずだった。
パキリ。
ミラの足が、落ちていた枝を踏んだ。
小さな音。けれど、この庭では“合図”みたいに響いた。
「そこぉ!!」
アッシュが、笑いながら剣を振った。
「風の炸裂弾!」
ぼん、と空気が弾ける。目に見えない衝撃が走り、透明化が剥がれた。クルトとミラが、ぱっと太陽の光の下に露出する。
「やばっ――!」
クルトが身をかばうより早く、パウルがすでにミラに飛びついていた。
「タッチ!」
「きゃっ!」
「お前だってミラに触ってるんじゃないかー!」
クルトが訳の分からない叫びを上げる。
「違いますー! これはただのタッチですー!」
パウルが笑いながら大声を上げる。
そこへフランツが横からぐいっと入り、クルトの肩をぺしり。
「はい、タッチ!」
「うわぁぁ!」
二人はあっという間に牢屋へ連行された。
ヨナスが満足そうに頷き、ルーカスは「おとなしくしろ」と腕の力だけで制圧する。
アッシュは木の剣を肩に乗せたまま、庭を見渡す。
「……よし。次は――」
その瞬間。
ルーカスが、ふっと牢屋の外側へ誘導される。
「おい! こっちだ、怪力!」
挑発の声。ヴィルヘルムだ。花壇の影から飛び出し、わざとらしく走って見せる。ルーカスは単純だ。目の前で逃げるものがいると、つい追いかけてしまうのだ。
「おらぁ!」
ルーカスがヴァルターをほったらかして、牢屋を離れた。
今だ。
花壇の影から、透明な何かが滑るように動く。エマとエリーゼだ。二人とも透明化トラパレを使っている。二人が息を合わせて牢屋へ近づく――
だが、ヨナスがふいに顔を上げた。
「……魔法の気配」
魔法感知。
ヨナスは“目”ではなく“感覚”で、近づくものを捉える。
「来るなよ」
ヨナスが低く言った途端、空気が硬くなる。寄せ付けない、というより――寄せ付けたら、逆にタッチされる。
(やばい。見えてないのに見えてる)
エマは歯を噛んだ。
「……お嬢様」
エマは、決めた顔で囁いた。
「私がヨナス引っ張ってく。だから……剣を取ってきて」
「え、でも――」
「それしかない。宝物取れば、全員開放。ヴァルターも、クルトもミラも。私達の勝ち!」
エリーゼの胸がどくんと鳴る。
怖い。足が震える。けれど――今、ここで退いたら、みんなは牢屋のままだ。
エリーゼは小さく頷いた。
エマはトラパレを解き、わざと光の下に出た。
「ヨナスー!」
エマの声は、村の元気な子どもの声じゃなかった。
女子族の、容赦なく、イケメン以外の男子を刺す声だった。
「魔法感知できるって偉そうにしてるけどさ。結局、ルールブック暗記してるだけの“先生の犬”じゃん」
ヨナスの眉がぴくっと動く。
「は?」
「本当は怖いんでしょ? 自分で何か決めるの。だからいつも“正しい”側にくっついて、上から見てるふりして――」
「黙れ」
「え、図星? ほら見て。顔真っ赤」
エマは一歩近づき、さらに低い声で畳みかける。
「それにさ。あんた、友達いないよね。だって話してるとすぐ“それは規則違反だ”って言うだけ。空気読めないの自覚ある?」
ヨナスの額の血管が浮いた。
「……やめろ」
「やめない。あんたみたいなやつ、精霊祭の火に触ったって、火が凍っちゃうんじゃないのー? 冷たいんだから!」
ぶち、と何かが切れた音がした気がした。
「……風の竜巻」
ヨナスが腕を振る。
ごう、と庭の空気が渦を巻き、エマの前で風が牙をむいた。威嚇。吹き飛ばす一歩手前の圧。
「うわっ!」
エマが踏ん張ったその瞬間――
同じ風が、もう一つの“透明”にも触れた。
エリーゼのトラパレが、ふっとほどけた。
「え――」
エリーゼは驚きで息を呑んだ。
そして次の瞬間、ひらひらのドレスが至近距離の風に裂かれた。
びりっ。びりびりっ。
布が切れる音。袖が裂け、裾が千切れ、肌に細い擦り傷が走る。痛みが遅れて、じわっと来た。
(うそ……)
エリーゼは思った。
自分のドレスが、紙みたいに――
そこへ。
「――取らせるか!」
アッシュの声が飛んだ。エリーゼが自分の木の剣を掴もうとしている事に気づいたのだ。
アッシュは速い。パウルの速さとは違う、獣の速さ。気配がして振り向いた時にはもう――風を割って突っ込んできていた。
エリーゼは、緊張に引きつった顔のまま、それでも前へ出た。
(宝物を取れば、みんなが――)
アッシュの木の剣が、エリーゼの手の届く位置にある。
エリーゼは、両手を伸ばした。
同時に、アッシュも伸ばした。
指先がぶつかる。
視線がぶつかる。
「やめろ!」
「やめない!」
エリーゼは叫んでいた。自分でも驚くほど大きな声で。
次の瞬間、アッシュが飛びかかった。
どん、と芝が沈む。
エリーゼの背中が地面に落ちる。土と草の匂い。エリーゼの天地がぐるんと回る。
「っ……!」
アッシュの腕がエリーゼの肩を押さえ、もう片方の手で剣を掴む。
止められた。
でもエリーゼは、止まらなかった。
エリーゼの指が、ぎりぎりで木剣の柄に絡む。
「離せ!」
「離さない!」
揉み合い。
そして、勢いのまま――
アッシュの額が、エリーゼの額に触れた。
違う。
触れたのは額じゃない。
――ちゅ。
ほんの一瞬。
唇が、額に当たった。
アッシュが固まった。
エリーゼも固まった。
時間が止まる。
風が止まる。
庭の騒ぎが、遠くなる。
「……」
アッシュは顔を赤くする暇もなく、反射で自分の剣を高々と掲げた。
エリーゼを押し倒した格好のまま、勝利宣言みたいに。
「剣は守った! 俺の勝ちだ!!」
「どんな格好で言ってるのよ!!」
エマが叫ぶ。
その声で、庭の外れから別の声が落ちた。
「何をやってるのかお前らー!!」
クラウスだった。
屋敷から飛び出してきた父は、庭の惨状を見て目を見開いた。
花壇は踏み荒らされ、芝は掘れ、木の枝は折れ、即席牢屋には子どもがぎゅうぎゅう。
エリーゼはドレスがびりびり、泥だらけ。擦り傷がいくつもある。
他の子も軽傷だらけだ。骨は折れていないようだが、せいぜい、この整備された貴族の庭で大暴れしたことが丸わかり。
クラウスのこめかみが、ぴくぴく動いた。
見渡せば、庭の花壇や木々だけに被害はとどまらず、整えられていた地面は穴ぼこだらけ。
どろんこまみれで傷だらけの子どもたちを、村に返したら、貴族の屋敷で何があったといわれるのは必定。
よくもまあ、子どもギャングたちは、大活躍してくれたことだ。
「……全員」
クラウスの低い声。
庭全体が凍る。
「整列しろ」
子どもたちは一斉に固まった――が、次の瞬間、エリーゼがエマと顔を見合わせて、笑い出してしまった。
みんなも笑う。
ミラが牢屋の中で泣き笑いになり、クルトが「ミラ大丈夫?」と顔を赤くする。
ヴァルターは「靴はもうやめろ!」と叫びながらも、生きている。
その光景を見て、クラウスは怒鳴りかけた息を、途中で飲み込んだ。
(……元気に話している)
泥だらけで、みっともなくて、騒がしくて。
けれど――娘は、外の光の下で笑っている。
クラウスは頭が痛かった。
ただ、その痛みの奥に、小さな安堵があった。
(……奇行が治るなら、病が治るなら……これは、これで)
もちろん、説教はする。
庭の修復費も、請求する。
でも今、この瞬間だけは。……病気で奇行に走っていた娘に、やっと現実の希望の光が訪れた事を、太陽神ミトラに感謝したい。
神様、娘に良き友達を、ありがとう。
クラウスは目を細めて、短く言った。
「……死ぬほど叱る」
子どもたちは一斉に青ざめた。
その背後で、アッシュだけが、まだエリーゼの額を見ていた。
自分が何をしたのか、理解したのは――
たぶん、クラウスの説教より少し後になる。




