受け継ぐもの:最後のこたえあわせ(星芒の賢者)
グレンダ57歳、クリス28歳の時の話になります。
さやさやと風が葉を揺らしている……。
窓から差し込む光は、学舎の横に植えられたけやきの木に遮られた木漏れ日で、老いた私にも優しい。
白いカーテンを小さく揺らす初夏の風は、午前中のこの時間ならまだ涼しかった。
私は、窓の横に置かれた座り心地の良い揺り椅子に腰かけ、来訪予定の客を待っていた。
先にもらった知らせでは、今日あたりにくるはずだ。
こんこん、と、控えめだけどしっかり聞こえるノックの音。
まるで、ノックした者の性格のようだと少し笑いながら立ち上がり、声をかける。
「どうぞ。開いているよ」
「失礼します。……お久しぶりです、グレンダさん」
「えぇ、久しぶりだね、クリス」
扉を開けて入ってきた青年に、私は微笑む。
魔導士の黒いローブには、王宮魔導士の紋章がついている。
久しぶりに会った青年の顔に眼鏡があった。
きっと新しい肩書が増えた後の仕事で目を酷使してしまったのだろう。
「お元気そうで良かった。ルカからは色々聞いていたから、ちょっと心配していました」
「年相応に体力が落ちてるだけだよ。無理はしていないから大丈夫」
「とりあえず、座ってください。僕、リドさんに叱られたくないですから」
「なんだか立場が逆だね」
クリスは、扉近くまで来ていた私の手を取り、部屋の小さな応接セットの方へと促す。
ここは私に与えられた、学舎の教官室。
年に数度学生と話すだけの私に、部屋なんて要らないと言ったのだけど、リドルフィが学園を作る時に用意してくれた。
学舎の一番奥、北側に面した部屋だが、風通しもよく、村の広場やその向こうにある豊かな森も見える。
ちなみに隣は言わずと知れた壮年マッチョの学長室だ。あの人はどうあっても私を横に置いておくつもりらしい。
部屋にはさっきまで私が座っていた一人掛けの揺り椅子と、訪ねて来た人と話す時に使う応接セット、それに小さな書き物机と本棚だけ。あとはリチェをはじめ何人もが持ち込んだ植物の植木鉢などのおかげで、小さな部屋はちょっとした温室みたいなことになっていた。
「……この部屋だと、果樹園と間違えて小鳥とか入ってきそうですね」
「実際何度か入ってきちゃったことがあるよ。やれやれ、ありがとうね」
よっこらしょと応接セットのソファに腰を下ろせば、ふぅと息を吐く。
その様子に微笑んでクリスも私の向かいの席についた。
「さて、眠くなってしまう前に用事を済ませようね。……クリス、これを受け取ってちょうだい」
「……これは?」
予めテーブルに置いておいた本のようなものを一冊、そっと向かいの席に押しやる。
「私が書いたものなのだけどね。きっとあなたが探しているものだと思う」
本を受け取ったクリスは、そうっと丁寧にそれを持ち上げしげしげと眺める。
見た目は王都でならよく売っている少し厚めの日記帳そのものだ。
「……初めて会った時のことを、覚えているかい? ……今更だけど、こたえあわせ、だよ」
「……!」
まだ本を開かずに、私を見ていた青年は、はっとしたような顔になった。
私はソファに座ったままちょっとだけ背筋を伸ばす。
ゆっくりと用意していた言葉を口にする。
「私は、聖女グレンダ。今、この世界にいる唯一の聖女にして、神樹の言葉を知る者、だよ」
クリスと初めて出会ったのは、駆け出し冒険者だったこの子が村にカエルの討伐に来た時だった。
毎年季節になると、村の近くにある沼にたくさん湧く大きめのカエル。
王都の冒険者ギルドが見どころのある駆け出し冒険者に割り振る、初心者向けの討伐依頼。
クリスと、そのパーティメンバーである幼馴染の少年たちがモーゲンの村にいた時に、村の北側に広がる森に大型の魔物が現われた。
双頭の熊。我が子を探す悲しき親熊の、成れの果て。
ベテラン六人で行われた魔物討伐と、見つかった魔素溜まりの浄化に少年たちは立ち会った。
その際に、私の呪文を聞いたクリスのとの会話。
国内最高峰である王都の魔法学校にも記録がない、私だけが使う呪文の正体。
私はそのままの姿勢で、ゆっくりと短い呪文を唱えてみせる。
その響きにクリスは目を大きく見開いた。
唱え終わった私は一度唇を引き結び、微笑む。
「我が時よ、遡れ。……その日記帳には、この世界の言葉に直した、あれの言葉を書き留めてある。もっとも、神樹を抱く聖女以外が唱えたところで、ほとんどは発動しないけれどね」
唱えた呪文を皆の知る言葉に言い直してみせてから、私はクリスが手に持ったままになっている日記帳に視線を落とす。
若い頃神樹をこの身に受け入れた後、少しずつ書いていったものだ。
国の知識が集められた魔法学校にも王立図書館にも大神殿にも、その内容が記された記録は残っていない。
おそらく、この世界で唯一の、聖女の呪文について書かれた文献になるだろう。
「……い、良いんですか、僕なんかに渡して……」
何度も私と日記帳を交互に見ながら、クリスが言う。
「うん。貰っておくれ」
「でも、神殿とか、リドさんは……?」
「どちらもちゃんと納得してる。大丈夫、持って行っても捕まったり怒られたりなんてしないから」
「あ、いや、そうじゃなく……!」
「大丈夫。クリスに渡すのが一番良いんだよ」
過去、神殿は伝承を捻じ曲げてしまった。おそらく利権絡みだったのだろうそれが、いつの時代に行われたのかは分からない。
あの一件以降、セドリックを中心に神殿内の粛清が行われ、信仰の対象を神樹からよりによって聖女である私に変えようという動きがある。
今の神殿であれば、確かにこの日記帳を渡しても大丈夫だろう。
でも、それは今の神殿であり、この先も絶対とは言い切れない。
そういう意味では、おそらく王家に渡したとしても同じことが言えるだろう。王政が存続する限り一人の者に権力は集中する。今やその次の代の王がまともであっても、この先脈々と続く王たち全員がまともな保証はどこにもない。
ならば、いっそ知識を至高のものと扱い、この先も研究し続けるであろう者たちに公開してしまった方がいい。
この情報を、闇に葬られないように。
「……シェリーから聞いているよ。あなたは、あれを今も研究しているのでしょう? 神話の神樹や、歴代の聖女についても調べているって聞いた。あの場にいた者として、後世に残すために。……だから、クリス、あなたが一番これを大事に扱ってくれる。きっと、次の聖女への橋渡しをしてくれる」
「……っ」
「リドやエマに、私が死んだら私の部屋にある日記もあなたに見せるように伝えてある。……受け取ってくれるかい?」
もっとも、あちらは本当に私自身の日記でしかなくて、神樹を宿していた間と、その後の体感的な記録や葛藤を記したものでしかないのだけども。
あちらの方はリドルフィがきっと持っていたがるだろうから、見せるだけになってしまうがそれでも問題ないだろう。
何かを堪えるような顔で私の言葉を聞いていたクリスは、その場で立ち上がった。
何度か話そうと口を開けて、その唇が言葉を探して何度か震える。
やがて、一度引き結ぶと、私の名を呼んだ。
「グレンダさん。……いえ、聖女グレンダ。星芒の魔導士ロドヴィックが弟子、王宮魔導士クリスがその役割、しかと承りました。……僕を選んでくれて、僕を信じてくれて、ありがとうございます。必ず、次の聖女へと繋ぎます」
感極まった様子で深く、深く頭を下げる。
その様子に私は苦笑浮かべる。
「見れば分かるけれどそんな大層な代物じゃないよ。どう書けばいいかかなり迷ったから、初めの方など分かりづらいことこの上ないだろうし。……受け取ってくれてありがとう」
さぁ、顔を上げて、と促すと、クリスは本を持たぬ方の手で目元を拭いながら姿勢を戻した。
「いい歳の男が泣くんじゃないよ。その辺は昔と変わってないねぇ」
「……すみません」
二人で顔を見合わせて笑う。
なんだか時が戻ったように感じる。十一年前の食堂でも、二人で苦笑し合ったように思う。
思えば不思議な縁だ。歳も全く違う私たちが偶然出逢い、そしてこんな風に未来を託せる仲になる。
もしかしたら、偶然なんてものは一つもなく、全ては何に用意された必然なのかもしれないと思ってしまうほどに。
「……さてと、私はそろそろ昼寝の時間だよ。ルカから聞いてるのかもだけど体力がちょっと落ちてしまってね。午後は横になってないとあちこちから怒られてしまう」
「屋敷に帰るなら、送りましょうか?」
「いや、そろそろ過保護な迎えが来るから大丈夫」
「なるほど」
お茶の一つも出さなくて悪いね、と言えば、クリスはううんと首を横に振った。
何度も礼を重ねて言う青年を送り出し、私はまた揺り椅子へと戻る。
腰を下ろし、体を包み込むような椅子に背を預ければ、深く深く息を吐いた。
これで一つ、片付いた。
私が安心して旅立つための、準備。
もしかしたらそれらは全て、私の身勝手なお節介でしかないのかもしれない。
それでも子どもたちには、優しい世界が広がっていてほしいと願ってしまうのだ。
私のために作られた揺り椅子に抱かれて、私は祈りのかたちに手を組み、目を閉じる。
どうか、この先も良き風が、この村に、そしてこの世界に吹き続けますように。
聖女から託された日記を元に神樹と聖女について研究し続けたクリスは。
のちに、星芒の賢者と呼ばれ、聖女の存在と共に後世に語り継がれる人物となった。
彼の物語は、ある意味、聖女に日記を託されたこの時に始まったのかもしれない――……
食堂の聖女に最初から出てきていたクリス君。
彼は、あれ以来神樹についての研究を進めています。
その過程で、きっとグレンダから色々と話を聞いたのだろうなぁ、なんて。
なんとなく、クリス君は最終的につくなら魔術師というより賢者という称号の方がしっくりくるな、なんて思っています。




