ある屋敷にて
クソっ。男は心の中で呟いた。
こんなことなら、町で一夜を明かし、村に帰るのは明日にすれば良かったかもしれない。
男は、畑で収穫した作物を町に売りに行っていたのだ。
だが、ここまで大雨が降るのであれば、町で一夜を過ごした方が良かったかもしれない。
町から村へ帰るには、森を抜けねばならなかった。
この森は、日中でも迷うことがある。まして、夜や雨が降るといった視界が悪い状況なら尚更だ。地元の人間も例外ではない。
男も、この雨の中、進んでいる道が正しいか不安があった。この場で夜明けまで待つという手もあったが、この雨の中じっとしているのは難しかった。既に雨に濡れて体が冷えていた。
とにかく、雨宿りができる場所を探すことが先決だった。
訳もなく、歩いていると、雨でできた霧の向こうに、何やら屋敷のようなものが見えてきた。
村から町への道は数えきれぬほど通ってきているが、こんな屋敷は見覚えがなかった。
やはり、道に迷ったのだと男は思った。
とりあえず、雨宿りをさせてもらうために屋敷に近づいた。手入れはされているようだったが、建物には年季が入っていた。かなり、古くからあるようだ。
男は、屋敷の軒下に入ると、服の雨水をしぼった。
そして、扉を叩いた。
何度か叩いたが、全く反応がない。雨音が強く、聞こえないのだろうか……。
その後も何度叩いても反応は全くない。
男は、試しに扉を手で押してみた。すると、「ギギギ」と音を立てながら、扉が開いた。
中は暗く、人の気配は全くない。窓から入る月の光が頼りだ。
その時、背後で「バンッ」と大きな音がした。男は恐る恐る後ろを振り返った。
どうやら風で扉が閉まっただけのようだった。
ふぅと息を吐く。心臓に悪い。
とりあえず、雨宿りができる場所を見つけることはできた訳だが、男は落ち着いた心地がしなかった。誰もいなく、暗い屋敷の中というのはかなり不気味だった。
それに、気になることがあった。年季が入っているとはいえ、これほどの屋敷だ。手入れも行き届いているようだったし、誰もいないのなら、施錠ぐらいされているはずだ。
扉に壊された形跡はなく、何者かが侵入したという可能性も低いだろう。つまり、初めから施錠されていなかった可能性が高いという訳だ。
男はとりあえず、屋敷の入り口付近に座り込んだ。
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座り込んでからどのくらい経っただろうか。あれから何とか眠ろうと目を閉じているが、どうも寝付くことはできない。
外ではまだ雨が降っている。ふと、家族の姿が頭に浮かんだ。妻も子どもも自分が帰らないので、心配しているだろう。
「カチャン……」
男は思わず屋敷の右奥の方向に顔を向けた。空耳ではない。確かに雨音に混じって何か金属音のようなものが聞こえた。
ゴクっと唾を飲んだ。屋敷に誰かいたのか……?それとも、誰かが侵入したのだろうか?
男はゆっくりと音のした方向へと歩いていく。
そこは廊下になっており、かなり奥まで続いていた。
すると、廊下の先から「カチャカチャ」という音が先ほどよりもはっきりと聞こえてきた。
そして、わずかだが、扉の下から光が漏れている部屋があった。
いよいよ、誰かいる可能性が高くなった。
男は恐る恐る部屋に近づき、ドアノブをつかみ、ゆっくりと回す。ドアはほとんど音を立てずに開いた。
部屋のあちこちには燭台が置かれていて、その全てに火が灯されていた。
どうやら厨房のようだったが、誰の姿も見えない。
ふと、戸棚を見る。ガラス張りの戸棚には、数々の銀食器や調理器具が並んでいる。
やはり、かなりの資産家の屋敷であるようだ。
部屋の中をぐるりと一周するが、やはり誰もいない。
だが、火が自然につくはずはない。誰かがつけたのだ。
それに、燭台を見ると、蝋はほとんど垂れていない。つまり、火がつけられたのはほんの少し前であるということだ。
気味が悪い。とにかく、この部屋から出た方が良さそうだ。
ただ、その瞬間、何か背後に気配を感じた。
男は振り返ることなく、扉を開けると、廊下に飛び出した。
そのまま元の方向に走ろうとするが、体に上手く力が入らない。恐怖心が体を蝕んでいた。
「あ、あのっ。待ってください。あなたを傷つけるつもりはありません。話を聞いてください」
男は背後から声をかけられた。若い女の声だった。
恐る恐る振り返ると、髪の長い女性が立っているのが見えた。
窓から差し込む月の光だけが頼りだったが、その女性には足が見えなかった。
男は腰を抜かした。
男は、このような場合は、声というのは出したくても出せない物だと感じた。
男は、何とか逃げようと後退りした。だが、体がガクガクと震えて上手く動くことが出来ない。
女性?の霊は男にどんどん近づいてくる。
男は、顔を背けて、「勝手に入って悪かった!だから頼む!命だけは助けてくれ!」と叫んだ。
すると、女性の霊は慌てたように言った。
「ですから、そんなつもりはありません。私の話を聞いていただきたいだけです」
男は、ゆっくりと女性の霊の方を見た。
よく見ると、足はちゃんとついていた。暗くて、よく見えなかっただけか……。
男は、胸を撫で下ろした。
男は、立ち上がり、女性向き合った。
よく見ると、かなり若い娘だった。
「どうぞこちらに」
そういうと、女性は客間らしき部屋に男を案内した。
男は、娘に椅子に座るように促され、腰を下ろした。
「それで、その……」
男は、改めて勝手に屋敷に入ってしまったことを謝罪しようとしたが、娘はそれを遮った。
「お分かりかもしれませんが、私は既に死んでおります。つまり、幽霊ということになります。ですが、あなたに危害を加えるつもりは一切ありません」
男は、ゴクっと唾を飲んだ。やはり、幽霊だったのだ。
だが、娘に敵意はなさそうだった。
ここは、とりあえずやり過ごすほかない。
「それで、話というのは……?」
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「私は、かつてここで殺されたんです。私はその犯人を探しているのです」
「な、成程」
つまり、ここで殺され、霊として棲みついたというわけか。
しかし、いくらこんな森の中にあるとはいえ、これほどの大きな屋敷で殺人が起こったとすれば、村にも噂くらい流れてきてもおかしくない気がするが、そんな話聞いたこともない。
男には、全く心当たりがなかったが、何となく娘の顔に見覚えがある気がした。
「残念だけど、力にはなれなさそうだな……」
「そうですか……」
娘はかなり気を落としているようだ。何となく娘が不憫にも思えてきた。
「……。今までもここに来たものに尋ねてきたのかい?」
「……はい。何人もの人に尋ねてきましたが、特に犯人につながる手がかりを得ることはできませんでした」
娘は俯いた。まだ夜が明けるまでは時間がある。男は少しでも力になりたいと思った。
「あの、良かったら、もう少し詳しく話を聞かせてもらえないだろうか。ここに雨宿りさせてもらったお礼としても、ぜひ」
「ほ、本当ですか!?」娘は顔を上げて目を輝かせた。
娘は静かな口調で話を始めた。
「私は、この森に住んでいたのですが、村への帰り道に襲われたのです。あの日もこんな雨が降る日でした」
男は少し疑問に感じることがあった。ということは、娘はこの屋敷の人間というわけではないのだろうか。
「私も、貴方と同様に雨宿りが目的でここに来たんです」
男の考えを察したように娘が答えた。
「それで、入って、すぐに背後から襲われて……」
「成程……」
ちょっと待てよ。男には疑問があった。その時も屋敷に人はいなかったということだろうか?それとも屋敷の人間に襲われたというのだろうか。
「少し、気になることがあるんだが……」
「え、はい、何でしょう?」
「君がここに来た時は、屋敷に人はいなかったのかい?それとも、屋敷の人間に襲われたってことなのかな?」
「ああ、ごめんなさい。きちんと説明していませんでしたね」
娘は、申し訳なさそうな顔をした。
「この屋敷は、私が見せている幻覚なんです」
「幻覚……?」
「こうでもしないと、人が立ち寄ってくれないもので……」
「確かに……」
このような大きな屋敷だったからこそ、男も雨の中見つけることができたんだ。
「じゃあ、元々はここは一体、どんな場所なんだ?」
「実際は、かなり古い古屋なんです」
「小屋……?」
男は、自分でもよく分からないが、頭がズキンとした。
「そういえば、君はかなり若そうだけど、殺されたのは、どのくらい前のことなんだい?」
「今から、15年前になります。私は18でした」
男の心臓は高鳴っていた。男は、娘に悟られないように何とか平静を装った。
娘の顔に見覚えがあったのも説明がつく。
忘れもしない、15年前、大雨の日に小屋で1人の娘を手にかけた。
「どうかしましたか?」
何も答えずにいる男を不審に思ったのか娘が尋ねてきた。
「え?いや、別に……」
そうだ、娘には自分が犯人だとは分からないはずだ。男は自分にそう言い聞かせた。
この場を何とかやり過ごせば何も問題はない。
「そ、そういえば、君は犯人について全く心当たりがないのかい?」
「ええ。顔はよく見えなかったので。強いて言えば、土の匂いでしょうか」
「土の……匂い?」
男には思い当たることがあった。ただ、これだけで自分が疑われることはないだろう。
落ち着け、大丈夫だ。男は自分に言い聞かせた。
「成程。土の匂いというと、やはりこの辺りに住む人物が犯人かもしれないね。この辺りでは農業をしている人が多いからね」
「そうですか……」
娘が残念そうな顔をした。
「ちなみに……」
男は、自分の罪が露見することはないと思いつつも、気になっていることを尋ねてみた。
「犯人見つけたらどうするつもりなんだい?」
「勿論、犯人は、私から全てを奪ったんです。到底許すことはできません。それ相応の償いをしていただきます」
口調こそ穏やかで丁寧だが、逆にそれが恐ろしい。
男は、動揺を見せないように努めた。夜明けまではまだ時間がある。
何としても乗り切らねばならない。