身も心も
君を亡くした。
婚約者の急な病死を、俺は受け入れることが出来なかった。これは悪い夢だ。そう何度も自分に言い聞かせた。でも、小さな骨壺に入った君を手にした時、俺は君の体のあまりの軽さに、重い現実を受け入れたんだ。
夜行列車に乗って故郷へ帰るつもりだった。君のいないこの街に、もう用は無いと思って。でも、出発ギリギリのところで列車を降りてしまった。故郷への切符は、細かく破いてゴミ箱に捨てた。
駅を出る。酒が飲みたい。駅裏の寂れたバーの看板が目に入る。君と何度か飲んだ店。この店に来るのは、ずいぶん久しぶりだ。重い木の扉をこじ開けると、店内に客はいない。マスターが古めかしいスピーカーから流れる音楽に聴き入っている。流れていたのは、俺の好きな曲。古いジャスのナンバーで『ボディー&ソウル』。邦題は『身も心も』。
「いらっしゃいませ。おや、お久しぶりですね。今夜はお一人ですか。さあ、カウンターへどうぞ」
白髪を後ろで束ねた初老のマスターが、気さくに出迎えてくれる。へえ、俺のこと憶えていてくれたんだ。ほんの数回しか訪れたことないんだけどな。なんか嬉しいな。
「……あの、差し向かいで飲みたいので、テーブルでもいいですか?」
「?……もちろんです。こちらへ」
ほんの一瞬だけ怪訝な顔をしたが、マスターは、すぐに澄んだ目をしてニッコリと笑い、俺をテーブル席に案内してくれた。
ところどころ生地のほつれたソファーに座り、カバンから黒枠に縁取られた君の写真を取り出して、テーブルの向かいにそっと据える。おしぼりを持ってきたマスターにバドワイザーを注文。俺は写真の君を相手に酒を飲み始める。すべてを察した様子のマスターは、それ以降、俺が次々に注文する酒を、ただ静かにテーブルに運んでくれた。
「会計をお願いします」
カウンターの向こうでグラスを洗うマスターにそう声を掛け、俺はふらりと立ち上がりレジへと向かう。へべれけ。千鳥足。どれぐらいの時間が過ぎたのだろう。ビール、カクテル、ウイスキー、どのお酒を何杯飲んだか、よく憶えていない。
「いくらですか?」
支払い金額を尋ねる。すると、マスターは、わざとらしく伝票を凝視してこう言ったのだ。
「あちゃ~、しまった。私としたことが、うっかり伝票を付けるのを忘れてしまった。これではお客様がどれだけお酒を飲んだか分からない。う~む、痛恨のミスだ。しかたがない。お客様、すみませんが、今夜は無料とさせて下さい」
「無料? いやいや、そういうわけにはいきませんよ!」
俺は、声を荒げて拒み続けた。やがて、マスターは静かな口調で――
「……旅立つお連れ様を送る会とお見受けしました。どうか、ご馳走させて下さい」
――そう言うと、また澄んだ目をしてニッコリと笑った。
「いや、でも、いくらかでも払わせて下さい。こちらこそお願いです」
「では、こうしましょう。席料を二人分だけちょうだいします」
マスターの優しさに、俺はその場で顔を覆う。目から、もう枯れ果てたと思っていた水が溢れた。
やっぱり俺、この街で生きて行くよ。だってこの街には、君と酒を飲んだこのバーがある。君とかよった喫茶店がある。君と暮らしたアパートが。君と出逢った美術館が。君と待ち合わせをした公園のベンチが。君の好きだった古着屋が。映画館が。バーガーショップが。かけがえのないたくさんの思い出の断片が、今日も存在し続けている。
どんな理由であれ、生きる理由があるに越したことはないだろう?
だから俺、決めたんだ。この街で、君との思い出に、身も心も、すべて捧げて生きて行く。
「本日は、ご来店いただき、誠にありがとうございました」
「こちらこそです。また来ます、必ず」
重い木の扉をこじ開けて外へ出ると、夜空が白み始めていた。