イェギン
さびれた樹海だった。
右も、左も、木しかなかった。
休日はゲーム三昧で、自然と触れ合うことなんてしてこなかった――羽島啓介だったから、当然、目の前に生えている木がどんなものかなんか知らない。
啓介はゲームの中の自身のキャラクター「ゲノス」の姿になっていた。
ゲノスの姿となった啓介の後ろには一人の少年がついてきていた。
「どうかされましたか、イェギン様」
「は」
めまいがしたように頭を抱える啓介に、後ろで控えるようにしてついてきていた少年が心配そうな表情を浮かべる。
自分が、啓介でも、ゲノスでもなく全く聞いたこともない名前で呼ばれることに違和感を抱く。
「イェギン……? 俺の名前が? ゲノスや啓介じゃなくて?」
啓介がそう問うが少年は首をかしげるだけで答えない。
「イェギン様はイェギン様です。どのようにでもお呼びするよう命じられればそれに従います」
従僕という言葉が似合う少年をもう一度見たとき、啓介は激しいめまいに襲われた。
その日、羽島啓介はイェギン・オルパとなった。
イェギンが目覚めると、すぐそばには従僕の少年――ヘジムがいた。
一睡もしなかったのか目の下にはくまがあった。
「イェギン様、イェギン様。ようやくお目覚めになられましたか。三日も眠っておられたのですよ。医者にこれ以上経てば危ないと言われていたのです。お加減はどうですか?」
「ヘジムか。少し微熱があるが大丈夫だ、私は」
イェギンとなった啓介の頭の中に流れ込んできたのは、イェギン・オルパの記憶だった。
大陸の中腹。
大山脈と大河に挟まれたルエヤン平原一帯のアシュト族のペギアガナ氏の長の息子がイェギンだった。
アシュト族というのは、戦闘と芸術の民族であり、幾度となく衝突しあっていた。
一度、魔法帝と呼ばれたアシュト族をまとめ上げた英雄がいたが、それも数百年も前のこと。
アシュト族はペギアガナ、ハジャッシェ、キャタ、シテンリオ、ホンジャ、プッチマの六つの氏族に別れ、互いを牽制しあうようにして対立している。
アシュト族は、三大魔法族と呼ばれる、世界でも稀有な魔法を使える種族として多くの民族や国家に影響を与えてきた。
一番北に領分を持つキャタ氏は、魔法都市と近いというだけあって、大衆的な誰にでも使うことのできる魔法による、兵士の増強を行っている。
特異な戦法でたった一代で国を作りあげたゴーサリ王国と面するプッチマ氏は、ゴーサリ王国の支援を受け、隣接するシテンリオ氏、ホンジャ氏への影響力を強めている。
では、イェギンのいるペギアガナ氏とはいうと、ルエヤン平原の中央に位置する。
そのため、最も多く他の領分と隣接している。
それだけあって、最大の勢力を率いているのだから、軍事力、財政力ともに高度なものである。
イェギンは、そんなアシュト族最強の頭領の次男だった。
イェギン――になった啓介は、そんなことを考えながら身を起こす。
従僕のヘジムの手を借りて寝台に座ると、三日間の動きを聞く。
「フィガ家の息子がまたへまをしたようです。頭領が今度は七日の謹慎を命令する、と……」
「他の……他の領分や魔法帝に関することは?」
「それは、お父上に止められたではありませんか。魔法帝に関する一切の情報を遮断するように命じられています。この忠臣ヘジマは、我が主の信頼を失墜させるような行動はできませぬゆえ、お許しください」
「くそ。魔法帝になりたいだなんて言わなければよかったのに」
魔法帝とは、三大魔法族の一角であるアシュト族の全てを――おおよそ一億にものぼると言われている、アシュト族をたった一人で、己の魔法だけでまとめあげたと言われている英雄である。
そしてどうも、啓介が入る前のイェギンは魔法帝になろうとしていたようだった。
「頭領が後継者を指名するまでは私の身は保証されるが、兄上が後継者として指名されれば、私たち弟は厄介払いのように、遠方の土地を貰って生活しなければならない。ならば、魔法帝に憧れるのは道理だろう」
「イェギン様、普通は頭領を目指すものではないですか?」
「頭領になれるのならなりたい。だが私は長子ではない。それぐらいのことは分かる。ならば、出自に関係なく魔法の強さだけでアシュト族を従えたという魔法帝になりたいと思うだろう」