第1-5話
女性の返事も待たず、リュカは「行くぞ」とアリスを促した。
列車はもう動かせないだろう。エンジンに損傷がなくても、窓ガラスは割れ、破片が散乱している。
リュカは左耳につけた、羽を模したデザインのイヤーカフス型の通信機で、本部にある通信司令室と連絡を取った。
二言三言話している間に、背後から「あの」と声を掛けられる。振り返ると、相席をしていた母娘が立っていた。リュカは母娘に歩み寄り、膝を折って視線を合わせ、娘に話しかける。
「……ケガはないか? 苦しいのは?」
「うん、もうだいじょうぶ! ケガもないよ。 ぜ~んぶ、おにぃちゃんのおかげ! ありがとう、おにぃちゃん!」
――ありがとう、おにぃちゃん。
記憶の中で、シェルピンクの髪がさらりと揺れ、大きな赤い瞳が瞬いた。
息を詰めるリュカの様子に気づかず、娘の頭を撫でながら、母親も「ありがとうございました」と頭を下げる。アリスだけは主人の様子に気づいているようだが、わざわざ指摘することはしなかった。
「兄さまが救助を要請しましたの。すぐに来られるということだから、もう数十分も経たないうちに到着するはずよ」
「そうですか。安心しました。本当に、何から何まで……」
「これが仕事だから……気にすることはない。僕たちは急ぎの任務があるから、ここまでだ」
どうにか固い声音で言葉を絞り出し、母娘と別れる。
幸い重傷を負った者はいないようだ。魔物の心配がなくなったわけではないが、救助に来る者たちも魔法士。対応は充分に可能である。
停車した列車から遠ざかり、閑散とした道を歩きながら今回の目的地――ワンドラントという小さな街へと向かう。
「兄さま! 兄さまったら、ちょっと待ってよ!」
アリスがパタパタと後ろからついて来る。その声に、リュカは足を止めた。
「兄さま……?」
「メアリに、会わせてくれ」
「メアリ? でも、あの子は……」
「いいから、早くしろ」
胸の中がモヤモヤする。黒い何かが渦巻いている。
子を叱りつけて虐待する母親、「おにぃちゃん」と屈託なく呼んでくる声。
それらが、リュカの中にある記憶の箱を強く揺さぶった。
リュカのどこか切迫した声に反し、アリスはプクゥと不機嫌そうに頬を膨らませ、渋々口を開いた。
「――《アリスの夢世界》」
瞬間、アリスを中心にして、平坦な道が色とりどりの花畑へと変わった。風が吹き、草花が揺れる景色からは、自然が発する甘い匂いすら感じる。どこからか、鳥の鳴き声まで聞こえてきた。
《アリスの夢世界》――アリスの能力で作られたこの空間は、時間がほとんど止まっている。たとえ感覚で十年の時が過ぎたとしても、現実では五秒未満の時間しか経過していない。
リュカはゆっくりと足を動かした。その行く手にあるのは、花畑にはやや不釣り合いな、飾り気のない無機質な箱。
「メアリ……」
箱の蓋は常に開かれており、そこにはリュカと同じシェルピンクの髪を持つ少女が眠っている。膝を折ったリュカは、まるで棺のような箱の中に横たわる少女へと手を伸ばした。
少女の名は、メアリ・キャロリアン――リュカの従妹だ。
今から四年前――歪魔に取り憑かれた叔母により、リュカは家族を殺害された。
「おにぃちゃん」と舌足らずな声で呼んでいた従妹を思い出しながら、リュカはメアリの白い頬を撫でる。
育児放棄を受けて心身ともに疲弊しきったメアリは、リュカと初めて会った頃は感情のない人形のようだった。そんなメアリと引き合わせ、母はリュカに言ったのだ。
――『リュカ。この子はあなたの従妹――あなたの妹よ。お兄ちゃんとして、あなたが守ってあげて。この子が安心して笑っていられるように』
そのとき、リュカは兄という立場を理解し、妹を守る使命感に目覚めたのだ。そして、メアリが笑ったり泣いたりと感情を取り戻していくのを見て、兄として嬉しかった。
メアリに触れたことで、胸の中で渦巻いていた様々な感情が鎮まっていくのを感じた。怒りも戸惑いも、不安も焦燥も。
「兄さま……何度ここへ来たって、この子は目を覚ましませんわ。現実にある医術では、この子の命を繋ぎ止めるのは不可能。だから、兄さまはこの世界にこの子を連れてきたわけでしょ?」
「あぁ、そうだ」
あの日、メアリが受けた傷は致命傷だった。その傷を、時間が止まったこの世界で治したのだ。けれど、メアリは目を覚まさない。いわゆる『植物状態』である。
「身体の傷は治っているわけだし、あとは現実の医療に任せては?」
「僕は魔封士だ。任務で長期間遠出をすることも多い。頻繁に様子を見に行くこともできないし、万が一容体が悪化したとき、駆けつけることもできないだろ」
いつか意識を取り戻したときに、すぐ傍にいてやりたい。いつか、あの頃のように笑って、「おにぃちゃん」と呼んでくれるはず。
リュカの言葉に、アリスは不愉快そうに眉を寄せた。
「でも、その子の顔を見る度に、兄さまは辛い出来事を思い出すんじゃない。だったら、会わない方が兄さまのためよ。眠ったままのその子に会ったって、意味なんてな――」
「――意味ならある」
アリスが言い終わる前に、リュカは言葉を被せた。
睨むように視線を上げれば雲一つない青空が広がっている。同時に強く吹きつけた風が、足元の草花と、シェルピンクの癖毛を揺らした。
「忘れないためだ。あの日の憎しみを、絶望を、悲嘆を……そして、誓いを」
血に沈んだ部屋、動かない両親の身体、冷えていく従妹の手。ここへ来れば、全てを思い出せる。
「今、僕は復讐に生きている。あの女を見つけて、封印する。それが、僕の全てだ」
あの日、取り逃がしてしまった叔母を――。
サワサワと通り過ぎる風が、二人の身体を撫でる。ほとんど時間の流れない空間に、風だけが爽やかに通り抜け、甘い花の香りを運んだ。
「兄さま……?」
訝しげに自分を呼ぶアリスに、彼は軽く頭を振って頭を切り替える。
「何でもない……戻るぞ」
「もういいの? その子に会いに来るのは癪だけれど、わたしと過ごすと言うのならどれだけいて下さってもいいんですのよ? 大歓迎だわ」
何を言っているんだ。どれだけの時間をここで過ごしたところで、先ほど言った目的は少しも果たせないではないか。
冷ややかな眼差しを送ってやれば、アリスは細い肩をすくめ、《アリスの夢世界》を解いた。