第1-4話
消えた《マッドネス・テイパー》を確認したリュカは息を吐くこともせず、武装化を解くことなく女性に近づいた。
「な……何よ……何なの?」
ギュッと我が子を抱きしめる女性に、リュカは無言で赤い瞳と剣を向ける。
「ちょっと……何の真似? 止めて……」
「……少し黙ってろ」
短く言って、固い声音で厳かに言葉を紡いだ。
「《絶望より出でし者……慟哭より解き放たれ、ここに姿を現せ――解放》」
十字架に月と両翼を取り入れたリュカの魔封書と同じ紋章が、女性が抱きしめる子どもを包み込んだ。子どもが苦しげな泣き声を上げると黒い靄が立ち昇り、生まれたての赤ん坊程の大きさの獏が現れる。
「ゃあッ⁉ 何⁉ 何で……何で魔物がこの子から……っ⁉」
「魔物じゃない。こいつは――歪魔だ」
「歪魔……?」
「魔物の突然変異種――人間の絶望に取り憑く魔物と言われている」
歪魔に取り憑かれた人間は感情の箍を外され……怒り、憎しみ、嘆き、恐れなどを具現化させ、自分と自分が負の感情を向ける対象を中心に、怪異を引き起こす。
秘匿しているわけではないが、魔物の存在が大きいようで、歪魔に関しては世間にあまり周知されていないようだった。
列車内にいる子どもが一斉に高熱を出して泣き始めたのも、《マッドネス・テイパー》が列車を襲ったのも、歪魔現象の一つだ。ついでに説明すると、《マッドネス・テイパー》の力が強くなっていたのも、歪魔の影響である。
リュカはそう説明し、獏の姿をした歪魔に対して、おもむろに剣を突き立てた。まだ生まれたばかりだったのか、取り憑ついたばかりだったのか。大した力を持っていなかったらしい歪魔は、抵抗することなくジュワッと音を立て、黒い塵を撒き散らしながら消えた。
「これで終わりね……」
『いいえ、まだよ』
ホッと胸を撫で下ろす女性に、アリスが警戒を解くことなく歪魔を見つめた。スカイブルーの視線の先では、消滅すると思われた歪魔が身体を震わせて立ち上がろうとしている。
「なんで? だって今、剣を……っ」
「歪魔は不死だ。どれだけ攻撃しても、最後には必ず復活する。絶対に倒せない」
「じゃあ、この子はどうなるの⁉ こんなヤツに取り憑かれて……」
「そのために、僕たち魔封士がいるんだ」
魔封書に選ばれた魔封士の職務内容は魔物の討伐――そして、歪魔の封印。
剣を歪魔に向け、リュカは唇を開いた。
「《ここに悪夢の終焉を記す――封印》」
青みの強いパープルの光が獏の姿をした歪魔を包み込んだ。光は徐々に収束し、最後にカランッと音を立てて小さな人形を落とす。先ほどの獏の歪魔をそのまま小さくしたような、親指ほどのサイズの小さな人形――歪魔が封印された姿――魔封人形と呼ばれる人形だ。
リュカは魔封人形を、懐から取り出した小さなガラスケースに入れ、ようやく武装化を解いた。
「やっぱり楽勝だったわね。わたしと兄さまがいれば、魔物も歪魔も恐れることなどありませんわ!」
少女の姿へ戻ったアリスがギュッと腕にしがみついてくるが、リュカはやんわりと振りほどき、未だ子どもを胸に抱える女性に近づいた。やや警戒した様子の彼女に、リュカは微かに眉根を寄せる。
「あんた、子どもを庇えるだけの愛情があるなら、何で手を上げるんだ?」
「え……?」
リュカの言葉の意味が分からず、女性は目を丸くして呆然と聞き返してきた。
「言っただろ。歪魔は人間の絶望に取り憑くと。だったら、あんたの子どもが抱えた絶望って何だ?」
幼い子どもが歪魔に取り憑かれること自体、決して珍しいことではない。けれど、絶望という言葉は、子どもが抱えるにはあまりに早すぎる。
「……しっかり愛情を示してやれ。喪ってからじゃ――……何もかもが、遅いんだ」
女性の返事も待たず、リュカは「行くぞ」とアリスを促した。