第1-3話
「――いい加減にしなさいッ!」
女性の怒鳴り声がリュカの言葉を遮った。子どもの泣き声や親の戸惑いの声を、パンッという乾いた音が引き裂く。明らかに、他の親子とは違うやり取りだ。
「ぃやぁあぁぁあぁ!」
一際大きな声で泣いているのは、おそらくその女性の子どもだろう。年齢は三歳前後か。中性的な顔立ちで少年なのか少女なのかは分からないが、叩かれた頬は赤く腫れていた。
「泣き止んでよ! 周りの迷惑が分からないの⁉ アンタが泣くせいで、ママまで変な目で見られるのよ⁉ パパだって、アンタがわんわん泣き喚くから出て行って……それでも、アンタをここまで育ててやったんじゃない! どうして分からないの⁉ どうして分かってくれないの⁉」
再び振り上げられた女性の細い腕を、リュカは掴んで止める。
「な、何⁉」
「そこまでにしておけ。手を上げたら余計に泣くぞ」
狂乱に満ちた女性の目が、リュカの赤い瞳を捉えた。
「なに……何よ、あなた……これはアタシたちの問題よ。余計な口は――」
「残念だけど、あなたたちだけの問題では済まないことになっていますの」
アリスが冷めたスカイブルーの瞳を女性へ向ける。
リュカは黙って膝を折り、未だ泣き喚く子どもの額に手を添えた。
「……熱があるな。かなり高い……」
ついでに子どもの身体へ視線を走らせる。手足は折れそうなほどに細く、子どもにしては肌が荒れ、髪もパサついていた。少し袖を捲ると、たくさんの青あざができている。
明らかな――虐待の証拠だ。
「何よ……何が言いたいの⁉ 親が子どもを躾て何か悪いの⁉ この子が悪いのよ! すぐに泣いて、ぐずって……あなたに母親がどれだけ大変か分かる⁉ 分からないでしょ⁉ アタシは女手一つでこの子を育てているの! この子が将来困らないように、躾ているの! それの何が悪いのよッ‼」
リュカは別に、女性を責めるようなことは言っていない。だが、勝手にそう解釈したのは、女性にも後ろめたいことがあるからではないだろうか。
まぁ、どちらでもいいが。他人の家の事情に踏み入るつもりはない。
けれど――……。
脳裏に過ったのは、すでに遠い日々となった思い出――……父と母、いもうとの楽しそうな笑い声が鼓膜を震わせた気がした。
――ガシャンッ!
窓ガラスを割れた音に、意識が現実へと引き戻される。それと同時に、八体の《マッドネス・テイパー》が一気に侵入してきた。どうやら、《氷守護者》の数が足りなかったようだ。
「――アリス」
「はい、兄さま」
名前を呼ぶと、細い身体が淡いスカイブルーの粒子を散らし、一枚のカードとなった。リュカはカードを手に取り、《マッドネス・テイパー》へ赤い瞳を向ける。
「《幻想の書に宿りし精霊よ、我が呼びかけに応じよ。汝は『夢見る永久の乙女』――アリス》!」
『わたしが兄さまと武装化すれば、どんな相手も敵じゃないわ!』
カードは再びスカイブルーの粒子に溶け、今度は二振りの剣へと変化した。右手には白く縁取りされた小ぶりの剣、左手には赤く縁取りされた白い長剣――列車の運転席でアリスが使っていたものと同じ武器だ。
《マッドネス・テイパー》が鼻から一斉に黒炎を吹き出す。八体分の黒い炎が渦となり、リュカたちを襲った。
「きゃあぁ!」
悲鳴を上げながらとっさに子どもを庇った女性を横目で見ながら、リュカは二人の前に立つ。しかし、彼は指一つ動かすことはしなかった。
――パンッ!
青みの強いパープルの光を放つ紋章が黒い炎を弾く。
『その程度の攻撃が、兄さまに届くと思いまして?』
リュカを守るようにして現れたのは、十字架に月と両翼を飾った紋章――《幻想の書》だ。
「あなた……何なの? その制服、魔法士よね? でも、金髪の女の子は武器になるし、その十字架の紋章みたいなのとか……あなた、いったい何なの?」
戸惑いと驚愕を浮かべる女性に少しだけ振り返ると、薄く背景を透かしたアリスがリュカの背後に現れた。
『わたしはアリス。兄さまが持つ魔封書――《幻想の書》に宿る精霊ですわ』
ふふっとアリスは楽しそうな笑い声を上げる。
魔封書は、名称から本の形をしていると思われがちだが、本来は紋章の形をしているのだ。
リュカは双剣を構え、《マッドネス・テイパー》を見据えた。
「僕は魔法協会中央本部所属の魔法士にして魔封士――《幻魔封士》のリュカ・キャロリアンだ」
――この悪夢、ここで終わりにしてもらう。
ポカンとした表情をする女性を置いて、リュカは足を踏みしめ、《マッドネス・テイパー》へ迫った。狭い列車内で、剣を大きく振るうことはできない。けれど、リュカには大した障害でもなかった。
飛び掛かる一体目の《マッドネス・テイパー》を斬り捨て、背後を狙ってきた二体目の攻撃は一旦飛び退いて躱す。三体目が黒い炎の弾丸を吹き出してきた。
「『――《時間停滞》』」
放たれた黒炎の弾丸のスピードが、目に見えて落ちる。リュカはその炎を斬り裂き、黒炎を吐き出した《マッドネス・テイパー》に一閃を浴びせた。
『ふふ……そんな遅い攻撃じゃ、兄さまには届かないわよ』
「攻撃が遅いんじゃなくて、僕たちが遅くしたんだけどな」
背景を薄く透かして嗤うアリスに、リュカはツッコむ。けれど、そんな漫才のようなやり取りをしている暇などなかった。
「危ない!」
女性が叫んだ。隙だらけだと判断したらしい《マッドネス・テイパー》が三体まとめて飛び掛かって来る。二体は突進してきて、もう一体が鼻から黒い炎を吹き出してくるが……。
「黒魔法・第二十三番――《暗き籠》」
闇色のドームがリュカを覆い、《マッドネス・テイパー》たちを弾く。リュカは弾かれた《マッドネス・テイパー》を追いかけ、両手の剣を横に凪いだ。
「面倒だ。一気に決める」
『ふふっ、任せて、兄さま』
くるりと踊るように背後でターンするアリスをちらりと見て、リュカは残りの《マッドネス・テイパー》へ右手の剣を向けた。
「『《ロイヤル・ストレート・フラッシュ》!』」
剣を横に凪ぎ、その軌跡から現れた五つの赤い刃をもう片方の剣で突き飛ばす。放たれた刃が鋭く飛び、残った《マッドネス・テイパー》を貫いた。耳障りな悲鳴を上げた《マッドネス・テイパー》が、黒い塵となって消える。
消えた《マッドネス・テイパー》を確認したリュカは息を吐くこともせず、武装化を解くことなく女性に近づいた。