第1-1話 悪夢に満ちた世界
「……に、さ……いさま……」
聞き覚えのある声に、彼は少しだけ瞼を持ち上げた。
ガタンゴトンと規則的に揺れる身体は、意識とは別にまだ覚醒できていないようだ。
「兄さま、兄さま。もうすぐ目的地ですよ。早く起きないと、『お目覚めのチュー』はお預けなんだから」
最初に目に入ったのは、自分を揺すってふざけたことを言っている少女の、爽やかなスカイブルーの瞳。ウェーブのかかった金色の長い髪の少女は、フリルとレースをあしらった水色のエプロンドレスに身を包み、楽しそうに微笑んだ。
兄さま、と呼ばれた彼――リュカ・キャロリアンが大きく息を吸い込むと、淹れ立ての紅茶のような甘い香りが鼻腔をくすぐる。
唇を寄せて迫ってくる少女を押しのけながら、リュカは眉根を深く寄せた。
「アリス……『お目覚めのチュー』は要らないから、もう少し寝かせろ」
「あら、そんなこと言って。乗り過ごしたって知りませんよ?」
敬語とタメを混ぜた、変わった喋り方をする少女に、リュカは無言を返す。
まだ寝ていたいのは山々だが、乗り過ごすのは非常にまずい。
どうにか怠い身体を動かして座り直したリュカは、大きく伸びをして固まった骨を伸ばす。
「ふふっ。おはようございます、兄さま」
「……あぁ」
ついでに目にかかるシェルピンクの髪を鬱陶しそうに払うと、列車の窓から強い西陽に、リュカは顔を顰めた。
「兄さまったら、お昼を過ぎた辺りから全然起きないんだもの。でも、退屈はしなかったわ。兄さまは寝顔もステキですし……きっと一日中見てたって飽きませんもの」
頬を赤らめてうっとりとするアリスに、リュカはげんなりする。
あぁ、こんなに最悪な目覚めもそうそうないだろう。後味が悪いのでもう一度寝たい。
そこへ、正面から二人分の視線を感じ、リュカは赤い瞳を向けた。クスクスと笑っているのは、年若い母親と幼い娘の二人だ。そういえば、席を探していたリュカたちへ、親切にも相席を勧めてくれたのだった。
「朝から乗っているんですもの。大変ですね、魔法士というお仕事も」
「魔法士?」
リュカが聞き返すと、母親は「だって」と言って彼の着る白い騎士のようなコートを示した。
「そのコート、魔法士の皆さんが着ているでしょう? 特徴的だからすぐに分かります」
リュカが着ている騎士のようなデザインのコートは、魔法士が所属する魔法協会に支給された制服だ。一目見れば魔法士だと分かるように作られたものである。
「あぁ、これか。そうだな……」
確かに、間違ってはいない。魔法士でもあるのだから。
「すごいなぁ! すっごくカッコイイ! アタシたちのせかいを、わるい魔物からまもってくれてるんだよね! アタシも、大きくなったら魔法士になる!」
「十年後ね。十五になって、あなたが大人になったら考えましょう?」
魔物――世界に蔓延る邪悪な魔の者。人々を守るために魔物と戦うのが、魔法を操る魔法士だと、世間では認識されている。
「えぇ、本当に助かっています。魔物は無差別に人を襲いますから……」
だから、魔法士を束ねる魔法協会は、世界各国に十二ヶ所の支部と中央本部を持ち、いつどこに魔物が現れても対応できるようにしている。
「……そうか……そう言ってもらえると、こちらも励みになる」
「兄さまったら、心にもないことを」
小声でボソッと呟きながら笑うアリスの足を踏みつけようとしたが、避けられてしまった。
ガタンゴトンッと音を立てて流れる外の景色は、平坦な田舎道だ。母娘と他愛のない会話をしながら、リュカはぼんやりと外の景色を眺めていた。
「あら? どうしたの?」
「…………うん、なんだろ……なんだか、むねがくるしくて――……」
胸元を抑えて身体を震わせる娘に、母親は小さな額に触れて目を見開く。
「ひどい熱! ……どうして……たった今まで元気だったのに……っ」
唐突というにも不自然すぎる娘の急変に、母親が一瞬でパニックに陥った。小さな背中をさすりながら、震える声で娘の名を呼ぶ。
「兄さま……これは……」
アリスのスカイブルーの瞳に見上げられ、リュカは静かに頷いた。
「どうしたんだ、さっきまであんなに元気だったのに……っ!」
「しっかりして、どうしちゃったの、急に――……」
「うわぁぁああぁあぁぁんッ‼」
「くるしいよ……たすけて、ママ……っ!」
列車内が混乱に満たされる。あちこちで子どもの泣き声や呻き声が上がり、親たちの焦りや戸惑いが伝播していた。
――キキィィイィイイィィィ…………ッ!
「きゃぁぁあぁぁああぁぁ――――っ‼」
「うわぁぁあぁぁああぁぁ――――っ‼」
追い打ちを掛けるようにして、列車が緊急停車する。パニックの中で、親たちは自らの子を守るようにして抱きしめた。
「きゃ……っ!」
「大丈夫か、アリス?」
バランスを崩したアリスを支えると、彼女の頬が朱に染まる。
「ありがとうございます、兄さま」
「別に」
素っ気なく返すものの、彼女はなぜか笑顔を見せた。そんなアリスを不可解に思いながらも、リュカは「行くぞ」と少女を促し、列車を停めた運転手のところへ急ぐ。
リュカのいた車両はちょうど中間辺りで、運転席まで大した距離はない。泣き叫ぶ子どもや狼狽える親の声を聞き流しながら、前方の車両へ向かった。