序章 悪夢の始まり
――……いもうとではない誰かが、「兄」と呼ぶ声を聞いた――……。
見飽きた家の中が、真っ赤な海に沈んでいる。
壁に飛び散っているものが何なのか、考えたくもない。
地獄というのも生温い悪夢の世界。
父が、母が、いもうとが――真っ赤な海に力なく横たわっている。
信じがたい光景に、指一つ満足に動かすことができない。まるで自分の身体ではなくなったようだった。
愕然とする少年の視界の端で、いもうとの指がピクリと反応する。
赤い血の海を駆け、服が汚れるのも構わずにいもうとを抱き上げる。自分と同じシェルピンクの髪を撫でると、少女は瞼を震わせた。服はぐっしょりと濡れ、元の色が分からないほどに変色してしまっている。
力いっぱいに揺すりたいのを理性で押さえ、いもうとの名前を叫ぶ。グッと込み上げる戸惑いや悲嘆などの様々な感情を呑み込み、止まりそうになる思考を無理やり動かした。
声が届いたのか。薄く開かれた赤い瞳は、少年を捉えることなく彷徨う。やがて、掠れた声が、「おにぃちゃん」と舌足らずに言葉を紡いだ。
――あぁ、これは夢だ。
ギュッといもうとを抱きしめた少年の傍らでは、両親が息絶えている。いもうとの傷も深く、残された時間が少ないことは素人目にも明らかだった。
――あぁ、これは夢だ。
それ以外に考えられない。
こんな……こんなことが現実にあってたまるか。
否定するための言葉を心の中で紡ぐ。
嘘だ、夢だ、現実ではない。
――誰か、この悪夢から目覚めさせてくれ。
必死で祈った。
神でも魔王でも、天使でも悪魔でも、何でもいい。
ただ、この悪夢を終わらせてくれるのなら……この悪夢から覚ましてくれるのなら。
涙が尽き、声も枯れ果てた少年へ、唐突に陰が落ちる。異常な状況に茫然自失状態の少年は、驚くほど緩慢な動作で振り返った。
そこに立っていたのは、母と同じ顔立ちの女性。シェルピンクの髪と赤い瞳は、少年とも同じ色素だ。彼女の手に握られた血塗れのナイフに、頭の中の冷静な部分が「犯人はこの女だ」と答えを出した。
少年を見つけた女性が、呪いの言葉を吐く。愛情を伴う深い深い憎悪の呪い。
恐怖が悲しみを上書きし、逃げることもできない。それでも、まだかろうじて息をしているいもうとを守ろうと、強く抱きしめた。
眼前にナイフが迫る。鈍く光る切っ先に、少年はなぜか口角を上げた。
――あぁ、これは夢だ。
きっと、このナイフが胸を貫けば、その痛みで夢は覚めるのだろう。そうすれば、「変な夢を見た」と、笑って家族に話してやるんだ。
目が覚めれば父がいて、母がいて、いもうとがいる……そんな退屈で他愛のない、幸せな日常が帰ってくる。
そう信じて、少年は静かに瞼を閉じた――……。