外伝:虜囚の諦観
腹が減っていた。
もう春だというのに外には雪が降っていて、積もった雪が街灯の光を反射して、部屋の暗がりを微かに照らしていた。
俺は眩しい光から逃れるように、身を縮めて部屋の隅に隠れていた。
居場所はなかった。
誰にも見つからず気にされず手も差し伸べられず。
それが俺にとって唯一の救いだった。
でも、その日も俺は救われなかった。
「――竜輝! ――――!」
部屋が揺れる。
帰ってきた、扉を開けてあいつが帰ってきた。
部屋の中央に立って部屋を隅から隅まで見渡している。
差し込む光があいつの顔を照らして、見たくもない恐ろしい形相は俺の網膜に焼き付いた。
思わず声が漏れてしまって、そのせいで俺は見つかった。
いつの間にか頬が痛む。
耳に残った音でビンタされたのだと気づいた時には、そいつは俺の髪をつかんで玄関へ引きずっていた。
背中がそこら中に落ちているごみに削れらている。
手を足を、壁にこすりつけても無慈悲に引きはがされて、俺の体は放り投げられた。
「――!」
何を言っているのかは覚えてない。
しかし俺は覚えている。
遠目で俺を覗いていた奴らが、何も見なかった事にしようとカーテンや扉を閉める音を覚えている。
あいつが寝るまでの長い間、この冷たい雪を床にしないといけないのだという絶望を覚えている。
空腹でひどい音を鳴らす腹を慰めるために、俺は雪をひとつかみ口にした。
それは頬の熱を下げ、わずかながらも俺の心を癒した。
そして幼い心に、この先の人生の絶対ルールを刻み込んだ。
絶対に復讐してやる。
俺を見下す奴、憐れむ奴、手を差し伸べる奴、敵も味方も引きずりおろして、全員の頂点に立って頭を踏みつけてやる。
それが俺の最初の記憶だ。
戦争が終わり何日か経ったが、俺はまだこの地下牢に囚われたままだ。
怪我に加えて邪竜の毒で、まだ身じろぎすらできないというのに、ご丁寧に腕と足を鎖で壁や床と繋いでいやがる。
恐れているんだろう、俺を。
ここ数週間、連邦国側に着いた聖と出会ってから俺は何百もの連邦軍兵士を殺してきた。
あいつらからしてみれば、俺は無差別に殺戮を繰り返す獣だろう。
だからか、邪竜の毒のせいで戦争が終結した今も、連邦国の奴らも俺の処分に困っているようだ。
「ほら【義手の勇者】さんよ。今日の分の飯だぜ」
牢の隙間からスプーンに乗せられた貧相な食事が出される。
俺は皇国の勇者で、階級で言えば貴族待遇を受ける身分だ。
通常なら俺の身柄は、戦争が終結した直後に皇国に送還が始まり、その間は個室内であれば自由に過ごせるはずだった。
だがしかし実際はどうだ。
俺は薄暗い地下牢に閉じ込められ、食事は1日に1度一般兵が持ってくるこんな物だけ。
「そのダサい名前で呼ぶんじゃねえよ。……上の奴らはまだ俺をどうするか決められねえのか?」
「ああ、現場に出てない後方支援や、そもそも政治面を担当している奴らはアンタを送り返せと主張しているけど。現場に出てた将軍達はアンタの恐ろしさをよく知ってるからな。殺せの一点張りだそうだ」
現場に出ていた奴らの中には、連邦国の大統領もいる。
発言権では現場側の有利か。
抜け出せないと、ここで死ぬ……最悪じゃねえか。
「おっと。かといって逃げ出そうとか考えないほうがいいぜ。上にはヒジリ様がいるからな。今のアンタの怪我で勝てるわけないだろ?」
兵士がスプーンで左肩の傷をつつく。
治りかけの傷から噴き出た血が床を汚す。
「ぐっ……テメエ、舐めやがって。ここを出たらまずお前を最初に殺してやる!」
「言ってろよクズが。俺はアンタに友人を殺されてるんだ。この役につけてラッキーだったぜ。送還されるか処刑されるか、せいぜい数日の間これからも楽しんでやるよ」
「チッ、半端野郎が。こちとらそんな扱いは慣れてんだよ! この程度か? テメエの恨みはよォ!」
伸ばされた腕に噛みつこうと、鎖を引っ張り前へ出るが、やはりあと数センチ足りない。
それでも腰抜けの兵士には十分のようで、手に持っていたスプーンを取り落として後ろの壁にぶつかる程によろめく。
「う……獣め、何て言おうとアンタはここで終わりだ。アンタはどうせロクなことにならないんだ!」
まだ飯が半分以上残った皿を持って、兵士が帰っていく。
ふん、雑兵が調子に乗りやがるからだ。
少し威圧しただけで逃げるぐらいの根性しかない奴が、俺の心を折れると思うなよ。
兵士が駆け上がっていく階段を睨んで、俺は眠りについた。
あれから数日経った。
調子に乗った兵士も俺に軽口を叩く真似はしなくなった。
しかし食事の量は依然少ないまま、これだと処刑の前に餓死しそうだ。
何とかここから出る方法を見つけないと……だが地上には聖がいやがるんだっけか?
それに宝剣も取られて武器もない。
地上に出ても取り押さえられるか、殺されて終わり。
かといって皇国と連邦の人質取引が上手く進むとも思えない。
……時間切れで俺は飢え死にか。
「はっはっは……あっけねえなあ。これで終わりか、俺の人生」
この世界に骨を埋める気で、ここまでやってきた。
いつか自分がこの世界の頂点に立つものだと、転移して初めて丘の上に立ち、皇国の街並みを眺めた時からそう信じ続けた。
だが結果は地下牢にいる俺が全てだ。
右腕を奪っていったドラゴンが、今度は俺の人生まで奪っていきやがった。
デカい獣に襲われて、土壇場でユニークスキルが発揮できて逆転して、その時これから俺が世界の中心になるんだと思った。
そこから街に行って、5人でパーティーを組んで冒険者として名を挙げて、他の奴に黙って汚れ仕事もしてやっと街の領主と知り合えた。
そこからいけ好かない貴族のジジイに、何考えてるのか分からねえ皇帝に頭を下げ続けてこき使われて、屈辱を味わってようやく勇者に成り上がったってのに。
……だがここで終わりなら、それでいいのかもしれない。
こんなに手を尽くしてきたのに、それも無駄だっていうんなら、もう終わって楽になろう。
怒りも妬みも屈辱も禍根も全部手放して――ああ、なんだから心が軽い。
考え事をするしかできない牢獄の中に、ふと耳に雑音が混じりこむ。
地下への階段を靴の底が打ち鳴らす、乾いた音。
だが前回の食事からまだそんなに時間は経っていない。
「看守か? 飯の時間はまだ早いだろ。もしかして俺の処刑が決まったか?」
返事はない。
ただ靴音が耳にうるさく響くだけだ。
――奇妙だ。
突然ピタリと靴音が止まったかと思うと、影は一切動かなくなった。
「からかってんのか? それとも……怯えてんのか? 身動きできない虜囚相手に臆病だな」
挑発を繰り返しても、それでもなお返事はない。
その事実が静かに、ゆっくりと異常事態が起きていると俺に告げていた。
魔法はそもそも使えないし、宝剣は没収された。
しかし義手は外し方が分からなかったのか、右腕に着いたまま。
腕が動かせない今、攻撃手段は自滅覚悟の義手の機能だけ。
……違う。
もう終わりって決めただろ、俺の人生は。
「はぁ……俺を殺しに来たんなら好きにしろよ。抵抗しないでやる」
体から力を抜き、壁に繋がれている鎖に体重を任せる。
しかしそれでも反応はない。
強情な奴だ。
慎重を通り越して臆病だ。
こっちは頭を下げて、自分の足元に伸びる影しか見えないのに……影?
これは誰の影だ?
牢の外に置かれた蝋燭によって照らされる俺の体からは、影は後ろの壁に延びて俺からは見えないはず。
「これはまた……しばらく見ない間に、随分とみすぼらしくなりましたね」
下げた頭の真上に気配、影は消えた。
俺の頭上に移動した? この一瞬で? 浮いているのか?
というか牢には鉄格子があるんだぞ、どうやって。




