レグエルグ神殿 1
黒炭色の鎧を全身に纏った騎士、タークは困り果てていた。
古い時代、隔世の術式版とやらで、古代の罪人や忌々しい魔族達が罪を贖う為、見知らぬ世界へ送られたというが、あくまで伝承であり、本当に実在するとは思いもしなかった。騎士である以上、必要であればアルウェンシス王国や自身の仕えるファイルヘンブラフ公爵家に仇なす者共を戦場や決闘で斬り伏せてきたが、己の信じる理に反する事はしてこなかったつもりであったし、そもそも失われた神代の条文などという、だいそれた遺構も解読出来るとは思ってもみなかったのだ。
タークは、足下に転がる風化し、様相も判別のつかぬほど朽ち果てた人型の三刀ほどの彫刻の残骸を、右脚の先でコツコツと叩きながら、まるでここに隔離した神をなじるように一方的な対話をした。
『親愛なる神よ慈悲深き九大神よ
私をリリウム様達の元へ
きっと帰してくださるのでしょうか
孤独からようやく解放され信義を持ち
人も殺めずに生きていけると思い
束の間喜んだ矢先この仕打ちなのですか
なんという惨い罰なのです天上の神よ
ですが私は贖う方法も罪すらも知らぬのです
かつて授けていただいた天啓を
ここにもう一度だけ降臨させてはくれませんか』
その騎士の問いに神は答えることはない。
砂漠の乾燥した風が頬を撫でる。
「……うんざりだ」
ぼそっと呟き、砂にまみれた古めかし神殿を見遣る。
中庭を全周するような荘厳な石造りであったが、打ち捨てられて久しいであろう神殿に当然、人の影もなく気配もない。乾燥した風が、ガントレットの握り込んだ拳の中にすら透かして、たびたび巻き上げられた微細な砂が、盾にぶつかり寂しげな波音じみた音を奏でる。ここにすでに四刻時と立ち尽くしているのではないだろうか。
光神ペレイデスがすでに神殿の影に喰らいついてその半身を隠し始め、先刻までタークを追い立てるように熱く焼き尽くしていた尊大な陽が少し恋しくなってきた。
ーー冷えてきた……火でも焚いてひとまずは野営しようーー
廃神殿には一本の樹木もなかったが、ビオイデスには魔力の神経が繋がっていることを感じて、摂理の乱れがない事を確認し安心する。左手で、風におおられ背にはためく布を押し広げて、その蝶のような羽根に右手を突き入れた。
ーー野営用テント、薪、鉄板皿、魔獣避けの香炉ーー
どしゃん!と騒がしい音を立てて、念じた品々がタークの足元に落とされた。魔導具の一つであるビオイデスは、その漆黒の布地に魔力を通すと念じた物が出てくる仕組みになっている。
もちろん、念じればなんでも出てくるか。といえばそうではなく、自身がしまった物だけである。容量はおそらく、ファイルヘンブラフ公爵家の邸宅を丸々一飲み出来るであろう大きさを持っているらしかった。
茫然と四刻時程度立ち尽くした砂の薄ら寒い中庭から、正四角形に切り取られた神殿の一辺に、ガサゴソ。と広げた荷物を担ぎこんでいく。そして、壁もなく柱だけで支えられた中空の石床を砂を佩けて臨時の寝台下地に手早く設営した。
ーー確か虹魚の干物と黒パンがビオイデスにあったはずーー
先程と同じように念じると、干物と黒パンが右手にすっと収まる。陽が上がり切れば灼熱の太陽に身を焼かれそうな現実的な予感がしたタークは、ささっと鉄板皿の下の薪にイアと唱え火を纏わせた。
ちちっ。と薪に火が移り鉄皿が熱されたのを確認し、そこに干物を撫でつけると。じゅ。という音が聞こえ、つまみあげて黒パンと共に齧りつく。
タークの口に放りこまれた淡水魚の虹魚の干物は、味は淡白だが、大ぶりの身に薄く虹色の肝があり、風味がすこぶる豊かで、麦の香りが強い黒パンにもしっかりマッチする。
ーー釣ったままの虹魚なら皮も由来通りの虹色の脂が乗りとても美味だろうに……しかしあたりが暗くなってきた。飯を済ませてテントに入るかーー
しばらく孤独にむしゃむしゃと咀嚼を繰り返していたが、それを済ますとクアを唱えた。クアは水のないような土地でも飲料水を生み出せるうえ、且つ身体も清めたり色々と応用の効く水属性魔法である。
眼球ほどの小さな水球を唇のすぐ前で発生させて、何度か口に含み、飲み込んだ。そして万全を喫する為、香炉を立て、そして適度に腹も膨れテントに入ろうかというその時。
唐突にも神殿の深く遠い闇から、悪夢のような馬のいななきが聞こえてくる!恐ろしいほどの殺気がびりびりとタークを焚きつける!
すでに陽は落ち、宵神ノテノールの光が、砂にまみれた中庭を鋭く照らしはじめていた。