割れた眼鏡
今年で十七になる井上誠は、昔から、目が良いのを小さな自慢にしていた。それは、若い頃に目を悪くしたのを後悔した母親が、息子には眼鏡をかけさせるまいと努力した賜物でもあるのだが、それを抜きにしても、誠の目は世界を鮮やかにとらえる良い目だった。高い山並みも、遠くの店の看板も、店先にある求人の小さな文字さえ、彼の目にははっきりと見えるのである。
定期的に行われる視力検査で穴ぼこの空いたランドルト環を見つめる時、まるでそいつに決闘でも挑むかのようにきっと睨みつけて、一番小さいものまで当ててみせるのだ。
そんな誠は、目の悪い者の気持ちが分からない。世界がぼやけるということを、全く想像出来ないでいる。眼鏡やコンタクトをつけている者を見ると、はたしてどのように世界が見えているのかと、不思議に思うのである。
だが別に、目の悪い者を馬鹿にしているわけではない。その証拠に、彼の小学校からの幼なじみは、ひどい近視眼である。
井沢文彦というその幼なじみは、二人が出会った時にはすでに眼鏡の世話になっていた。色白で、小さな顔に合わない大きな眼鏡をかけた文彦少年を見て、誠はフクロウみたいな奴だと思った。だが、それは別段二人の仲を深める邪魔にはなり得なかった。小学校から高校まで、実に人生の半分は一緒にいるのだから、お互いのことは大体分かりあっているよき友であった。
ただ一つ、誠には理解できないことがあった。文彦は顔立ちの整った青年で、昔から女子に人気がある。そこまでは、まだいい。だが不思議なのは、彼女に対するあれこれを、必ず誠に相談することだった。
悲しきかな、誠という青年は肝っ玉が据わっていて頼り甲斐のある男だが、いかんせん無口で女受けはあまりよくない。本人も恋愛には興味が薄いので、恋愛経験も無きに等しい。
しかし文彦は、恋愛に関して悩むことがあると、必ず誠に相談するのである。自分の方がよっぽど豊富な経験を持っているにも関わらずだ。
ただ文彦もなにか悪意を持って彼に相談するのではない。文彦は大真面目な顔をして心から誠を頼るのだ。それが分かっているから、誠も親身になって相談に乗ってやっている。
けれども、成長するにつれて頻度を増していくそれに、彼はいささか辟易し始めてもいた。
○
「まーくん、ちょっと聞いてくれないかな?」
文彦の相談は、たいていこの言葉で始まる。シャーペンの芯を詰め替えていた誠は、ゆっくりと顔を上げた。
視線の先に現れた文彦は、いつものように柔らかな笑みをたたえながら、レンズの奥から誠を見つめている。色素の薄い、ちょうど自分の机と同じような色をした目だった。
「なんだよ」
「ほら、この前もちょっと話しただろ。卒業式から付き合い出した美香さんのこと」
美香さん、というのは文彦が所属する吹奏楽部の二つ上の先輩で、今の彼女である。去年めでたく現役合格して、東京で華の大学生活を送っているらしい。すぐに離れ離れになるのに、卒業式のその日に文彦に告白したそうだ。
それを聞いた時、女というのはよく分からない、と誠は心底思った。
「最近、返信が遅いんだよね。前はその日のうちに返ってきたんだけど、今は一日二日経たないと返ってこないんだ。もう飽きられちゃったのかな? 僕、遠距離恋愛は今回が初めてだけど、こういうものなのかな?」
誠はシャーペンを置いて頬杖をついた。正直に言えば、こんなことを相談されても「知らん」の一言に尽きる。
だが、眉尻を下げて曇り空のような顔をする文彦に、誠はめっぽう弱かった。
「さあ。大学生っていうのは、俺たちが想像しているより忙しいんじゃないのか。お前ばかり気にかけてる余裕も無いんだろう」
「そうかもしれないけど、文章もなんだかそっけないんだ。前はたくさん話を振ってくれたのに、今じゃ僕ばっかり話してる感じでさ」
想像もつかぬ乙女心というやつを頭を捻って絞り出してみても、文彦からは次々と悩み事が飛び出してきて、誠の頭は追いついていかない。なんだか面倒になってしまって、誠は窓の外を見やった。
校門のそばに植えられた大きな桜の木は、花が散って葉桜になり始めていた。
「……お前には、そもそも遠距離恋愛が向いてないんじゃないか? LINEより、顔を合わせて話すのが好きって言ってただろ」
誠は文彦の方を見もしないで言った。文彦はぱっと目を丸くすると、こくこくと頷いた。
「そう、そうなんだ! 顔を見て話せないと、相手が何を考えているのか分からなくて色々なことを考えちゃって。やっぱり僕には無理なのかなぁ、遠距離恋愛は」
「続くか続かないかは、お前次第だと思う。たとえ不安になっても、お前がその人を思い続けられるだけの気持ちがあれば――」
誠はしばらく想像上の持論を語っていたが、文彦が何も言わなくなったのを訝しんだ。桜の木から顔を戻すと、文彦は何故か微笑みながら誠を見ていた。
「なんだよ、気持ち悪い顔して」
「気持ち悪い顔なんてひどいな。まーくんはこんなに優しいのに、なんで彼女ができないのかなって思っただけさ」
「別に興味が無いだけだ。お前の話を聞いてると、女子に夢も見なくなる」
「そんな、僕のせいって言いたいの?」
文彦はくすくすと笑った。いつもそうだ。文彦が声を上げて笑うことはない。いつでも、静かに、密やかに笑うだけ。
女子はこいつのどこに男らしさを見出すのだろう、と誠は思った。
その時、休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「三時間目は体育だね。そろそろ着替えに行かなくちゃ」
ロッカーに着替えを取りに行った文彦の背中を見て、誠は気だるげに立ち上がった。
更衣室はすでに着替えを始めた生徒でいっぱいだった。
誠と文彦は空いているロッカーを探したが、隅にある一つしか空きはなかった。仕方なく、狭いロッカーに二人分の着替えを詰め込んだ。
年頃の野郎ばかりの更衣室は、特有のむさ苦しさと騒がしさに包まれている。下卑た話が飛び交うその中で、隅の二人は何も話さずに黙々と着替えていた。着替えになると、自然に話すことがなくなるのが、彼らの日常の一つだった。
誠はちらりと文彦の体を盗み見た。普段運動をしない文彦は、ほとんど筋肉がついてない。吹奏楽部で外に出ることも少ないためか、腕も足も生白いままだ。そのせいで、脇腹にある一つの黒子がやけに目についた。
余計に、こいつの男らしさというものが分からなくなった。もしかすると、女子が求めるのは何も男らしさだけではないのかもしれない。こいつが持つ特有の、危うさとでも言うのだろうか。
「そばにいてやらなければならない」ような儚さ。
不意に、野球部の坊主が話す下衆な話が耳に絡みついて、誠は考えるのを止めた。一刻も早くこの暑苦しい場所から出たくて仕方がなかった。
「まーくん! まーくん!」
微かな金属音と、焦ったように自分を呼ぶ声で誠は振り返った。
「眼鏡落としちゃったんだけど、間違えて蹴っちゃって、どこにあるか分からないんだ。そこら辺にない?」
誠が見渡すと、眼鏡は部屋の真ん中の辺りまで飛ばされていた。ずいぶんと勢いよく蹴ったらしい。
「僕じゃ分からないから、まーくん拾ってくれないかな。眼鏡がないと本当に何も見えないんだ」
必死に目を細めて辺りを見回している文彦を見て、誠は好奇心がむくむくと頭をもたげてきた。
文彦は今どんな世界を見ているのだろうか。ぼやけているというその視界の中で、こいつは何を感じているのだろう。
そんなことが、無性に気になった。
「お前、今は何が見えてる?」
文彦は驚いたように、目を緩めて呆けた顔をした。
「何って、今は近くにいるまーくんしか見えないよ。それすらぼんやりはしてるけど」
野球部がひときわ大きな笑い声を上げた。
誠は「そうか」とだけ呟いて、眼鏡を拾いに行った。
眼鏡までの歩数など数えるほどでもないが、そのたった数歩が気だるげに感じられて仕方がなかった。
ひどく暑苦しいこの部屋から、みんな早く出ていけばいい。そうすれば、きっとすぐにでもこの胸苦しさは消えるだろう。
眼鏡を拾おうと屈んだ時、目の前に誰かの足が現れた。野球部のばか笑いが止まった。そいつが足を上げると、かわいそうな割れたレンズがきらきらと光った。
誠は、その美しさに静かに笑った。