誘惑はどこにでもはないと思います11
長椅子の近くに置かれた小さな丸椅子に、ヴィルレリクさまがゆっくりと座る。膝の位置が高く、足を持て余しているように見えた。お兄さまよりも足が長い。
私の方に顔を向けたまま、視線は少し下に向いている。ややあってからヴィルレリクさまは顔を上げた。
「具合はどう?」
「まだほんの少し頭痛がしますが、水を飲んだら楽になりました」
「そう」
頷いたヴィルレリクさまが、テーブルに手を伸ばしてグラスとピッチャーを取る。水を入れたそれを渡された。飲めということだろうか。
ミュエルが入れてくれた一杯を飲み干したので喉は乾いていなけれど、気遣いをしてもらったようなので少しだけ口を付けた。
「ありがとうございます。ヴィルレリクさまは大丈夫でしたか? その、炎が肩に」
「服は汚れたけど、体は何ともない」
「そうですか……良かったです。炎があんなに大きかったので」
ヴィルレリクさまを飲み込もうとしているようなあの炎は、今思い出してもぞっとする。ヴィルレリクさまも私も、よく無事だったものだ。
ポケットを探ると、小さな巾着が出てきた。けれどそれは中に正方形の魔力画があるようには見えない。そっと触れると、細かい粉が指に合わせて動くのがわかる。レモン色の巾着が薄暗く染まっていた。
開いて中を見ると、白っぽく細かい粉が少しだけ舞う。額縁も絵も、その欠片すらなかった。
「魔力画、全部灰になってしまいました」
「あのとき、近付いてきたから。……どうしてあんなことしたの?」
さらさらと指で灰に触れていると、ヴィルレリクさまがそう訊ねた。
琥珀色の瞳が、窓から入る夕日で赤みがかってみえる。
「ヴィルレリクさまは、どうしてあそこまでしてくれたのですか?」
魔力画は好きだけれど、人の命に替えてまで守るべきものだとは思わない。
最後の魔力画を持ったヴィルレリクさまに炎が落ちてきたとき、間違いなく布が燃えかけていた。つまり、ヴィルレリクさまを守っていた身代わりの魔力画が、すでにその役目を果たし終えてしまっていたのだ。
魔力画を助けてほしいと願ったのは私だけれど、もしそれでヴィルレリクさまが怪我をしてしまったら、私は悔やんでも悔やみきれなかっただろう。だからあの時、ヴィルレリクさまに降りかかった炎をどうしても払い除けたかった。私の理由はそれだけだ。
もしあの魔力画を諦めていたとしても、ヴィルレリクさまに対しては感謝しか抱かなかったはずだ。なのにヴィルレリクさまは危険を冒してでもそうしなかった。
「そうしないと、死ぬかもしれないと思ったから」
「え? ヴィルレリクさまがですか?」
「違うよ。リュエットが」
ますます意味がわからない。なぜヴィルレリクさまが危険を冒さないと、私が死ぬことになるのだろうか。もしかして、魔力画惜しさにあの火の中に飛び込むとでも思われていたのだろうか。
首を傾げると、ヴィルレリクさまが少しだけ微笑む。
「わからなくていいよ」
微笑みと言葉はどちらも優しい雰囲気だったのに、どうしてか私とヴィルレリクさまの間に線が引かれたように感じた。とても細い線だけれど、明確に境界を作ったような。
その微笑みを隔てて見つめ合ったヴィルレリクさまは、すぐにその雰囲気を元のものに変えた。
「それよりも、はい。あげる」
「……またお守りですか?」
「うん」
小さな楕円形のものが、私の手のひらに載せられる。額縁はごく控えめで小さく、魔力画の背景である赤ワイン色と同じ色に塗られていた。額縁との境目には白い線が引かれていて、その内側に描かれた2つの正円がゆっくりと動いていた。ひとつの円は楕円の外周に沿って時計回りに転がり、もうひとつの円は奔放に跳ねている。どちらもゆっくりした動きで、たまにふたつの円が重なってひとつに見えることもあった。ついつい目で追ってしまう魅力がある。
「これ、あの飾られていた魔力画と同じ方のものですか?」
「そう。気に入った?」
「素敵です……けど、もしもまた壊れてしまったらすごく嫌です」
「ちゃんと持ち歩いてね」
念を押された。惜しくなってしまうようなものばかり選んで渡してくれるのは、もしかしたら私が危険な真似をしないようにという意図が含まれているのかもしれない。
「ヴィルレリクさまもどうぞお守りを持ち歩いてくださいね」
「持ってるよ。ほら」
「わあ、綺麗!」
ヴィルレリクさまが見せてくれた長方形のそれには、花が描かれていた。
小さなガラス瓶に載せられていた球根から、芽が出て花が咲き、そして枯れる。伸びていく葉っぱの揺れや花びらが綻ぶところ、枯れた花が儚く落ちるところも全てが美しい。
「すごく綺麗ですね……花の成長に合わせて変わる背景の影が、描かれていない日光を示していて素敵です。蜜蜂も可愛い」
「気に入ったなら交換する?」
「えっ、でも……これもかわいいし……」
「両方持っててもいいけど」
「これはヴィルレリクさまのお守りなんですから、そんなことできません!」
どっちも同じ魔術が掛けられているものらしく、ヴィルレリクさまはどっちでもいいとこともなげに言った。かなり魅惑的なお誘いだけれど、円が動いている絵も捨てがたい。他にもお守りはあるから両方持っていてもいいとは言われたけれど、もし何かあったときにどちらもダメになってしまったら悲しすぎる。
結局私は断腸の思いで、最初に渡されたものを選んだのだった。




