誘惑はどこにでもはないと思います10
誰かが手を握っている。
暗い意識の中で、ゆらゆらと魔力画が燃えていた。
火を消さないと。そう思うのに、魔力画は大きな炎に飲み込まれていってしまう。炎は燃えさかりながら形を変え、大きなおばけのように伸び上がる。ゆらりと口を開けた。
早くしないとヴィルレリクさまが飲み込まれてしまう。
「リュエット」
優しく呼ぶ声が聞こえた。
その声に導かれるように、ぼんやりと意識が浮き上がる。
「……リュエット、覚えているか? あれはリュエットが5歳の頃の話だったな。お前は冬梨が大好きで、庭になっているのを見て取れとお兄ちゃまにねだったんだ。納屋から梯子を運んできて、登ったものの梯子が倒れてお兄ちゃまが降りれなくなったとき、泣いていただろう……まさかあれがお兄ちゃまのための涙でなく、冬梨が食べられないことへの悲しみだとは気が付かなかった。リュエットが気合で木を登ってくるまではな」
「……」
「そうやって登ってきて、好きなだけ冬梨を食べたお前は、そのあと盛大にお腹を壊して母上と父上を心配させたな……いたた、痛い」
人が寝ている側で、なぜ掘り起こさなくていい過去をしみじみと語っているのか。
怒りではっきりと目が覚めたので、お兄さまには感謝すべきなのだろうか。
「リュエット、目覚めたことは嬉しいが、お兄ちゃまの指はその方向へは曲げられないんだ」
「……なぜお兄さまが?」
「火事の現場からお兄ちゃまに助けられたことを覚えていないか? あとそろそろお兄ちゃまの指を解放してくれないか?」
握っていたのはお兄さまの手だったようだ。パッと離すと、お兄さまは自分で望んだのに何故か悲しそうな顔をしていた。
周囲を見渡すと、長椅子に並べられたクッションの上に寝かされている。布を使ったパーテーションで周囲からは目隠しされていた。
独特の香りや見覚えのある天井画から考えると、どうやら私がいるのは学園内にある医務室のようだった。
最後の魔力画を外すヴィルレリクさまと共に、炎から逃れてホールまで出たことは覚えている。そのあとのことは曖昧で、お兄さまがやってきたのは思い出せなかったけれど、どうやらここまで運んできてくれたようだ。
体を起こすとわずかに頭痛がする。
「ヴィルレリクさまは? ヴィルレリクさまと魔力画は無事なんですか?」
「リュエットは何も考えずゆっくりと体を休めるんだ。お兄ちゃまが隣にいるからな」
「そうではなくて」
「久しぶりに子守唄を歌ってやろうか? 昔はよく泣きながらお兄ちゃまと寝ただろう?」
「黙ってください」
「ちょっとティスランさま! リュエットが起きたら教えてくださいってお願いしておいたでしょう!」
ひょいと顔を覗かせてお兄さまを睨んだのはミュエルだった。パーテーションの中に入ってきたミュエルはお兄さまを追いやると、小さなテーブルにあったピッチャーからグラスに水を注いで私に持たせてくれた。それからハンカチを濡らして、そっと頬や額を拭いてくれる。制服が汚れているところを見ると、どうやら私にも煤がついていたらしい。
「お医者さまは気が抜けただけだろうって仰ってたけど、辛くはない?」
「大丈夫。ありがとう、ミュエル」
「ティスランさまが意味不明な叫び声を上げながら走っていて、その肩にリュエットを担いでいるのを見たときには心臓が止まるかと思ったわ。色々な意味で」
「その……ごめんなさい……色々と……」
学園の敷地を走るお兄さまが脳裏にはっきり思い浮かんで、私は赤面してしまった。
ミュエルはその異様な姿にも負けず、医務室に付いてきてパーテーションの外で待っていてくれたらしい。つまり、さっきの恥ずかしい昔話が聞こえていたことになる。私は帰ったらお兄さまのことを一発殴ろうと思った。
「あの、ヴィルレリクさまは大丈夫なの? 魔力画は?」
「どっちも無事よ。生徒は帰るように言われたけれど、火も無事に鎮火したわ。廊下はひどい様子だけど幸運にもホールや他の部屋には燃え移ってないみたい。臭いは凄かったけどね」
「そう」
「魔力画はリュミロフ先生が保管して、お手入れに出すのですって」
「よかった」
「原因がわかってないから、他の飾られてる魔力画についても極力取り外すそうよ。残念ね」
「でも、魔力画のためにはそれがいいのかも」
先月のマドセリア伯爵家での火災も、その前にあったカフェの火災も魔力画が燃え、そして原因が解明されていない。そんな中で学園でも被害が出たのだから、対策をするのは当然だろう。魔力画が見られなくなるのは寂しいけれど、他の魔力画が守られるならそのほうがいい。
「あ、まだ立っちゃダメよ。お迎えが来るまで横になってたら?」
「ミュエル、ヴィルレリクさまも倒れたの? 私より炎に近いところにいたから、怪我してるかもしれないわ」
「ピンピンしてるわ。というか、ヴィルレリクさまならそこにいるわ」
そこ、とミュエルが指したのは、パーテーションの向こう側である。見ていると、先程のミュエルと同じようにヴィルレリクさまが顔を覗かせた。
琥珀色のそれと目が合う。
つまり、ヴィルレリクさまもお兄さまの昔話を聞いていた、と。私はお兄さまとしばらく口をきかないことにした。
「淑女の寝顔だから身内以外は見ないように見張ってたんだけど……リュエット、ヴィルレリクさまとお話する?」
「あ、えっと……」
パーテーションで囲まれた空間の外に立っているヴィルレリクさまは、身嗜みを整えたようで髪も肌もいつものように綺麗になっていた。私は慌てて自分の頬に触れ、髪を手櫛で梳かす。ミュエルが髪を軽く留めてくれて、それから自分のストールを貸してくれた。お礼を言うと綺麗なウィンクが返ってくる。
「さ、ティスランさまは馬車をお呼びになって。私はお医者さまを呼んでくるわね。……す、ぐ、に、帰ってきますから!」
最後の言葉をヴィルレリクさまに向けて言ったミュエルが、お兄さまと一緒にパーテーションの外に歩いていく。
それを見送ってから、ヴィルレリクさまはそっと近付いてきた。




