誘惑はどこにでもはないと思います9
貴族の子女が着る服は、動きやすさよりも美しさを重視して作られている。
重く揺れるスカートも、華奢な靴も走るのには向いていない。思いっきり駆け回ったのは、領地で女学校に入る前のことである。けれど、私はこれまで生きてきた中で一番といっていいほどの力を振り絞って走った。
大きく校舎を迂回して、学園を囲む庭へと飛び出す。門に近いところに避難した生徒らしき人々が見えた。そこから呼び止める同級生の声を聞いたような気もしたけれど振り返っている余裕もない。
走り抜けて、ホールの大きな扉を両手で押し開ける。息切れした呼吸の音と足音だけが響く広い空間を抜けて、廊下へと続く扉を開けた。
「ヴィルレリクさま!!」
炎が悪魔の化身のように見えた。
大きく伸び上がったそれが、まるで喰らい尽くそうとしているかのようにヴィルレリクさまの頭上を覆っている。風で勢いを増した波のようにその頭上から火の手が下へと垂れて、ヴィルレリクさまの体を飲み込もうとしているようだった。その髪や服や体が燃えていないことが、違和感を感じるほどだ。
収穫祭で見る大きな焚き火でも、こんな揺らめきは見たことがない。
「ヴィル……ッ」
扉を開け放して近寄ろうとしても、乾いた熱風に怯んでしまった。暖炉に当たりすぎたときのようにちりちりと熱を伝える光は、手で遮らないと目を開けているのも辛い。
降りくる炎を振り払うように時折頭を振っているヴィルレリクさまは、それでもその場に止まっていた。ゆっくりと動く図形の魔術画に向き合って作業をしている。
「ヴィルレリクさま、逃げましょう!」
私の声が聞こえていないのか、ヴィルレリクさまはこちらに反応することなく手を動かしている。炎が迫っているからこそ、それに照らされてヴィルレリクさまの姿がよく見えた。
魔力画に描かれた線の上をなぞるように、何か細かい文字を彫っている。
「ヴィルレリクさま、魔力画はもういいですから、逃げて!」
大声を上げると、口の中まで乾いた風が吹き込んだ。水分が乾いてしまった気がして何度か咳をすると、ちらりとヴィルレリクさまがこちらを向く。熱のせいで照らされた顔が汗で滲んでいる。それでも魔力画から離れようとしなかった。
やがてヴィルレリクさまが手に持っていた金属の棒を取り落とす。あっと思わず声を上げたけれど、ヴィルレリクさまはそれに構わず額を持ち上げ、魔力画を抱えてこちらに走ってきた。
よかったと息を吐いたところで、更に大きく膨らんだ炎が天井を伝い、ヴィルレリクさまの肩を掴むように落ちてきた。ヴィルレリクさまの顔が歪むのと同時に、しがみつくようにそこを叩く。
「リュエット!!」
「火が!」
払い除けるように叩くと、熱さを感じたものの、火傷をするような温度ではなかった。消えるまで払い除けてから離れようとすると、眩しい光が間近に迫っていることに気が付く。息を呑んだ瞬間、ぐっと抱き寄せられてそれが遠ざかった。
魔力画と同じように抱えられて運ばれ、ホールへと出る。ヴィルレリクさまが懐から何かを取り出して投げ、そして扉を閉めるのを、魔力画と一緒にヘナヘナと床に崩れ落ちながら見た。
広がる炎を眺めていたせいか、差し込む日光しか明かりのないホールが暗く感じる。熱風に当たっていた肌の熱もゆっくりと引いていくのが感じられた。
まだ息が切れている。迫る脅威から逃げ出せたからか、靴を履いた足がちくちくと痛み始め、それだけでなく肘やすねもあちこちぶつけたような鈍い痛みが走った気がした。
それでも火傷をしている気配はない。お守りにと持っていた小鳥の魔力画がどうなっているのか心配になったけれど、ポケットに手を入れることすら億劫だった。
ヴィルレリクさまが近付いてきて、私の前に膝をつく。息を整えようとしている私の顔を覗き込んで、ヴィルレリクさまの顔が汗や煤で汚れていることに気が付いた。怪我は見当たらないけれど、髪も乱れている。そんな姿になってなお美しさが残るのだから、イケメンというのはすごいなあと場違いに感心してしまった。頬や額に汚れがついているからむしろ、琥珀色の目が宝石のように輝いて見える。
ヴィルレリクさまはしばらく私を見つめ、それからそっと口を開いた。
「リュ」
「リュエットォオオオオオオ!!!」
大きな音に、それより大きな声。驚いて振り向くと、勢い良くホールに入ってきたのはお兄さまだった。異様な速さで近付いてきたお兄さまが、鬼気迫る顔で私の胴体をがしっと掴む。そしてそのまま私を持ち上げた。
インドア文系のお兄さまに、そんな力があったとは。
「うっ」
「リュエッ」
「お兄ちゃまが助けに来たぞォオオオオ!!! 安心しろォ——!!」
視界が揺れる。お腹が痛い。耳も痛い。
ぐわんぐわんと世界がかき混ぜられているような混乱の中で、私はお兄さまを一発殴ろうと決める。しかし残念ながら、それを実行に移す前に私の意識は暗いところへと沈んでしまった。




