誘惑はどこにでもはないと思います8
ヴィルレリクさまが取り外した最初の一枚は、燃えている魔力画のすぐ隣、私から見ると火元の向こう側にあるものだった。黒く濁った煙が出ていたので、何をしているのかよくわからなかった。
「触っていいのはこの裏の上側だけ。こうやって持って。持てないなら壁に立てかけておいて」
「はい」
魔力画を飾る額の裏側、上部に指を引っ掛けられるような段がある。そこに指を引っ掛けるようにして持ってきたヴィルレリクさまは、私が頷いたのを見ると足早に壁際へと戻っていった。教えられた通り、引っかかりにそっと両手の指を引っ掛けて絵を運ぶ。落とさないように注意しながら進み体で押すようにして扉を開け、少し迷ってから中庭を囲む生垣に立て掛けておく。廊下の近くに人通りはなく、その代わり遠くで何か指示しているような声が飛び交っているのが聞こえた。
立て掛けた魔力画が問題ないことを確認してから、私は急いで中へと戻った。
同じく火元に一番近い魔力画の、今度はこちら側の絵を取り外そうとしているヴィルレリクさまが見える。よく見えないけれど、工具のようなものを魔力画と額縁の境目に当て、さらに額縁と壁際の境目にも同じようにしているようだ。ナイフで彫りつけているようにも見える。不規則に場所を変えて作業を終えると、ヴィルレリクさまは額をそっと持ち上げ、それから額縁の裏に指をかけてこちらに持ってくる。無言で差し出された魔力画をそっと受け取った。
「ヴィルレリクさま、怪我は」
「ない」
それだけ言うと、ヴィルレリクさまはまた足早に火の向こう側へと移動した。私も急いで魔力画を運ぶ。
戻ってくると火はますます勢いを増していて、まるで魔力画から炎が吹き出ているように見えた。その明るさを背景にヴィルレリクさまの姿が浮き上がっている。
サイアン家で魔力画が燃えたとき、身代わりとなってくれるお守りの魔力画を持っていても、肌に感じる温度はとても高かった。私はすぐに離れたけれど、ヴィルレリクさまはじっと作業をしている。
彼が持っているお守りの魔力画が無事かどうか心配になった。
炎を避けるように壁際を通って、魔力画を持ったヴィルレリクさまが近付いてくる。
「ヴィルレリクさま、大丈夫ですか」
「うん、暑いけど」
「あれ、この絵……」
渡された絵を見て、私は思わず呟いた。
この廊下に飾られていた絵画は6枚。
燃えているのはこちらから数えて3番目に飾られている魔力画、宝石をモチーフにしたものである。ヴィルレリクさまはその1つ奥、4番目にある魔力画を取り外し、それから1つ手前、2番目にある魔力画を取り外した。
火元から近いものを順番に外しているのだと思ったので、次は5番目のものを持ってくると思ったのだけれど、今渡されたものは6番目、一番端に飾られているものだった。
「あれは時間がかかる」
「そうなんですか」
「そんな顔をしなくても、ちゃんと外すから」
5番目に飾られていた魔力画は、線と円の描かれた例のものだ。だからだろうか、私を安心させるようにヴィルレリクさまがほんの少し微笑んだ。それから次に一番手前の魔力画を外し始める。
私は渡された魔力画を運んでからその姿を眺めた。火はさほど広がってはいないのにますます強さを増していて、ちらちらと踊るその先が天井近くに伸びて黒く焦げさせている。
一番近い場所で作業しているヴィルレリクさまは、細い金属の棒のようなもので魔力画の縁に何かを書いているようだった。顔を近付けてほとんど動かない状態での作業から、かなり細かいことをやっているのだということだけはわかる。やがて絵の中でくんくんと鼻を揺らしていた子犬の動きがゆっくりになり、そして止まった。
常に動いているはずの魔力画の動きが、完全に停止している。魔力画の仕組みは難しくてよくわからないけれど、完成した瞬間から壊れるまでずっと動き続けるものだと思っていたし、本の解説にもそう載っていたはずだ。どうして止まっているのだろうか。今まで運んだ魔力画も同じように動きが止まっていたか思い出そうとしたけれど、気持ちが焦る中で運ぶことに集中していたせいか覚えていない。
「はい」
「ありがとうございます」
ただの絵画のようになったそれを、ヴィルレリクさまが私に差し出す。これで残るのはあと一枚。あの抽象画だけだ。
「外し終わったら、向こう側から出る。リュエットは先に避難して」
「でも、」
「大丈夫だから。これ持って出てて」
「……お気を付けて」
いつものように「うん」と頷いたヴィルレリクさまが、魔力画から手を離してまた火の方へと向かっていく。火元とは反対の壁に沿って移動するヴィルレリクさまを眺めていると、炎が急激に大きくなった。ごうと音を立てて膨らんだそれに、ヴィルレリクさまの姿が飲み込まれる。その光景に一瞬、息ができなくなった。
「ヴィルレリクさま!!」
「大丈夫だから! 外に出て!」
「ヴィルレリクさま!」
火が廊下を塞ぐように、床や天井にも伸びていた。その眩しい光の中に、ヴィルレリクさまの姿は見えない。聞こえた声も、再び呼びかけた私に応えることはなかった。
駆け寄ろうとしても、まるで見えない壁があるように熱風で近寄れない。私は数歩そこで躊躇して、それから叫んだ。
「ヴィルレリクさま!! 回り込んでまいります!」
炎の燃える音しかしない光景を睨んでから、踵を返す。
この廊下を通らずホールの方へ向かおうとすれば、かなりの遠回りになる。
子犬の魔力画を外に置くと、私はホールの方を目指して力一杯駆け出した。




