お兄さま、大事件9
「お兄さま」
ヴィルレリクさまも一緒に夕食を取り、惜しみながらも馬車を見送った後、私はお兄さまを早速展覧会へと誘ってみることにした。
ボンヤリしながら歩いていて廊下の突き当たりまで行ってしまっていたお兄さまは、私の声にビクーンと反応する。振り返るためにガタガタと窓に手を付いたので、ガラスが割れないかちょっと心配になった。
「リュエットか。どうしたこんなところで」
「ちょっとお兄さまにお話ししたいことがあって」
「1秒でも早く結婚したいという若さ故の気持ちはわからんでもない。しかしリュエットははまだ学園に通う身であり、ヴィルレリクも貴族としてはヒヨッコ同然」
「私とウィルさまのことじゃありません!」
ヴィルレリクさまがひよっこなら、同じ学年で同じ時期に社交界に出たばかりのお兄さまもひよっこということになる。それにヴィルレリクさまは全然ひよっこじゃない。雰囲気もラスボスっぽいし。
心の中で反論してから、私は気を取り直してにっこり微笑んだ。
「お兄さま、鉱石の展覧会が開催されるのはご存じですか? なんでも外国から集められた珍しいものが沢山並ぶとか」
「そうなのか。文明は鉱石の利用とともに進化してきたといっても過言ではないからな。様々な地域のものが見られるという機会は滅多にない貴重な機会だ」
「ええ、お兄さまも行ってみたいとは思いませんか?」
お兄さまの顔が怪訝そうなものに変わった。
「どうしたリュエット。いつもならお兄ちゃまの話でも興味がないものは右から左へと聞き流しているというのに。鉱石など趣味の範疇外だろう」
「そんなことないですよ。私も鉱石についてはいくつか知っています」
「画材となるものだけな」
図星だ。鮮やかな鉱石を粉にして絵の具にするというのは一般的な絵画でも行われることだし、魔素が多い鉱石を使って描くことによって魔力画に複雑な魔術を掛けることができる。魔力画を鉱石の観点から好きだという人もいるくらい奥深い世界だ。
まあ、お兄様の言った通り魔力画に関係ないものはよくしらないけれど。
「私のことはいいんです。お兄さま、行きたいならチケットを手に入れたらどうでしょう。ちょうどミュエルが」
私がミュエルの名前を口にした途端、お兄さまが盛大に転んだ。柔らかな絨毯しかない廊下で、止まっていたというのにまるで全速力で走っていて石に躓いたような転び方である。逆に器用だ。
「お兄さま、大丈夫ですか?」
「え、ああ、そうだな、明日は吹雪になるかもしれんな」
「今は春の終わりです」
よく見るとお兄さま、顔が茹でた海老のように真っ赤になっている。これはやっぱり、空の手紙のことをラーンズデール博士のあれだと思い込んでいる上に、やっぱりミュエルのことを意識しているようだ。
この様子を見ていると、ミュエルのお兄さまに対する思いがただの友人の兄という感情じゃなさそうだったことがしみじみ嬉しく思えてくる。もしそうであったら、お兄さまは絶望のあまり化石になってしまっていたかもしれない。
「ミュエルがチケットを持っているので、お願いしたら譲ってくれると思いますよ」
「そうか、その鉱石のアレがソレなんだな」
「ミュエルですお兄さま」
「そ、その、ミュ、いや、」
冷静な表情を保っているくせに顔だけが茹で海老になっている。
告白をされた(と思っている)からなのか、それとも好きな人に対してはこうなってしまうのか、お兄さまの慌てっぷりはものすごい。本人を前にしてもこのままならちょっと心配だ。
「お兄さま、」
「おおっともうこんな時間だすまないリュエットお兄ちゃまは明日の仕事に備えて一刻も早く眠らなければならないんだ寂しいかもしれないが我慢してくれリュエットも温かくして眠るんだぞ風邪をひかないようにそれではまた明日おやすみ」
一息でそう言い切ったお兄さまは、私の頭をぎこちなく撫でるとそのまま走って部屋へと帰っていってしまった。
「あ、お兄さま、ミュエルにチケットをもらってみては……」
私の声にも振り向かず、そのままドアを閉められてしまう。
やっぱり今のお兄さまにとって、ミュエルからチケットを貰うことは崖から飛び降りるよりも難しいことのようだ。ヴィルレリクさまにお願いしてチケットを譲ってもらった方が良さそうだ。
展覧会が来る日までには、お兄さまの精神も落ち着きを取り戻しているといいけれど。
私はヴィルレリクさまにお願いするために、自室に戻って手紙セットを取り出した。
便箋を縁取っているのは、柔らかいオレンジ色のインクで描いた飾り。
ヴィルレリクさまからもらう手紙の縁取りが可愛いのでどこで手に入れたのか訊いたら、ヴィルレリクさま本人が描いたと言っていたので私も自分で描いてみることにしたのだ。
ちなみにそれを訊いてから私は何も書いていない便箋を何枚かもらった。たまに額縁に入れて飾っている。
左右対称に絡み合う美しい曲線をフリーハンドで描くヴィルレリクさまの域にはとても辿り着けていないけれど、小鳥やリスなどちょっとした生き物を入れたり、手紙を送る相手と以前話した内容をヒントに絵を描いていると、受け取った相手も楽しんでくれて嬉しい。
自分が手紙を書くと長くなってしまうタイプだからか、ラーンズデール博士の気持ちはよくわからない。誰かが手紙を送ってきてくれた、という気持ちだけでも嬉しいものだけれど、やっぱり便箋が入っていた方が嬉しいからだ。
博士の奥さまとなった女性は、何を思って便箋を入れずに送ったのだろう。ラーンズデール博士は封筒ばかりが届く間に何を思ったのだろう。
船の上での暮らしを思い浮かべながら、私はペンにインクを付けた。