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お兄さま、大事件6

 その『わが海と日々』という本は随筆集だった。

 海洋学博士であるラーンズデールが、研究のかたわらで思ったことや日々の記録をまとめたものらしい。日付からして随分前の話だということがわかった。没後10年という博士の、若い頃の記録のようだ。

 前書きからすると、日常で浮かんだとりとめのない考えや船上でのちょっとした出来事などが書かれているらしい。


 ミュエルの視線に促されて、しおりが挟んである最初のページを開く。

 そこには短い日記で、博士がある女性と出会ったということが記されていた。ある駅で女性が船便日程表の見方がわからず困っていたので、たまたま通りがかって教えたということが簡潔に書いてあり、特に変わったところはない。

 次のページは全く違う話題が書いてあるので、他のしおりのところまでめくってみる。前のしおりのところで出会った女性と偶然再会したくだりが書かれていて、先程よりは詳細にその女性についての描写や思ったことが書いてあった。


「ミュエル、これ」

「いいから読んで。読んだらわかるから」


 ミュエルは難しい顔でお茶に口を付けたので、私はもう一度本に視線を戻した。

 その次のしおりのところを読んだあたりで、博士がその女性を意識していそうな描写があった。淡々とした描写に、博士の主観的な感想が入り込んでいる。相手の女性も博士を意識しているようで、そこから少しずつ2人が交流している様子が描かれている。


 微笑ましくていいお話だなと思いながら読み進めていると、博士が再び船に乗ることになった。

 博士は海洋学に情熱を捧げる若き研究者であり、そして女性に求婚するにはその地位は弱い。研究者として名を上げる必要があると、彼は長い船旅を決意する。命を落とす危険があるため、無事に帰ってきてから想いを告げると心に決めていたのだ。

 船着場に駆けつけた女性と博士は別れを惜しむあまり初めて触れ合う。それも手を握り合って見つめ合うだけで、博士は必ず帰ると残して船に乗り込んだのだった。


 なんだかドキドキする展開になってきた。小説のような世界だ。他のページもゆっくり読み進めたいけれど、ひとまずはしおりを追うことにする。ミュエルにはあとでこの本を貸してほしいとお願いしよう。


 大きな船は博士を乗せ、様々な国へと渡り歩く。その先々で博士は女性に手紙を書き、そしてその返事を受け取った。2年ほどはそうしてやりとりが続いていたものの、あるときから変化が起こる。

 女性の手紙に便箋が入っていないのだ。何も入っていない封筒に封蝋が垂らされ、紋章も押されておらず、差出人の名前も書かれていない。宛名だけが記された手紙が、船上の博士の元へと届けられた。


 なんだか聞いたことのある話だ。


 博士は最初送り間違いだと思っていたらしく訂正の手紙を待ったが来ない。さり気なく指摘を入れていつも通りの手紙を送ると返事が返ってきたけれど、それも同じく中身のない手紙だった。

 博士は悩む。何か気に障るようなことを書いただろうか、女性の身に何かが起こっているのか。はたまた何かのメッセージなのだろうか、悩みながらも手紙を書き、そして空っぽの手紙を貰う。


 何度かそのやりとりを繰り返し、博士は勇気を出して自分も同じ空の手紙を出した。船が祖国へと向かう航路の途中である。

 すると女性からまた空の手紙が送られる。数度のやりとりを経て、博士を乗せた船は祖国の港へと戻った。

 出迎えの人だかりの中に博士は女性の姿を見つける。人波をかき分けるようにしてお互いは歩み寄り、そのまま抱きしめ合った。その夜、博士は結婚の許しを得たという。


「え?!」


 展開が急すぎやしないだろうか。

 何かを見落としていたのではとページを戻ってみても、そのようなところは見当たらない。


 博士、いくら文通していたとはいえ、1回だけ、手を握っただけの女性に求婚するとは。そして許しも貰っているとは。女性のお父さまの決断力がすごい。うちのお父さまにも少し分けてあげてほしい。

 いやそもそも、空の手紙のくだりはなんだったのだろう。何の意味があるのか私だけでなく博士も悩んでいたはずなのに、気付けば私だけが理解から離れた場所で取り残されてしまっていた。


「困惑する気持ちはわかるわ」

「あ、ミュエルもそうだった? 私ちょっと色々わからなくて」

  

 私が本を読み終わったことに気が付いたミュエルが察して頷いてくれたので、私はちょっとホッとした。よくわからなかったのは私だけじゃないらしい。


「とりあえず博士と奥さまの気持ちは置いておいて、このエピソード、学術界隈では有名なんですって」

「そうなの。ちょっと謎があるけれどロマンチックな感じもするものね」

「でしょう。ラーンズデール博士はその後も奥さまと想い合って暮らしたこともあって、そのプロポーズで告白する方も多いらしいのよ」

「まあ、それは素敵……待って」


 学園にも先輩の素敵な恋物語が残っていて、それにあやかって告白を真似たりする人もいる。幸せな人の力を貸して貰うようでいいなと思うけれど、はたと気付いてしまった。


「あの……お兄さまもこの話を知っているのかしら?」

「ええ。というかこの本、まさにティスランさまから借りたものなの」


 空の手紙を送って結婚した博士と奥さま。

 そして、空の手紙を送ってしまったミュエルと受け取ったお兄さま。


 私にもようやく今回の件の事情がわかった。わかってしまった。






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― 新着の感想 ―
[一言] そりゃ、この本を貸して、その後に空の便箋なんて来たらなぁ・・・
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