お兄さま、大事件5
お兄さまに事情を聞いても、あまり教えてもらえなかった。というかよくわからなかった。
危険がないらしいことは確定したのでひとまずは安心できたけれど、今朝も相変わらずぼんやりしたままご飯を食べ、出かけていった様子を見ているとやっぱり心配だ。よくわからない演説のような会話まではいかなくても、せめて普通に会話できて普通に生活するようなお兄さまに戻ってほしい。
手紙を受け取ったお兄さまがダメなら、手紙を送った方に訊いてみるしかない。
「ねえミュエル、今日よかったらどこかでお茶でもしない?」
振り返ったミュエルは私を見て真剣な表情になり、「そうね」と頷いた。
授業を終えてから、私とミュエルは同じ馬車に乗り、ミュエルのお屋敷であるロデリア家へと向かった。ロデリア伯爵夫人に挨拶をしてから、ミュエルの私室へと案内される。お茶の準備をしてもらうと、ミュエルは人払いをお願いして部屋の扉を閉じた。
香りのいい早摘みのお茶に、少し甘さの濃いケーキがよく合っている。しばらくお茶を楽しんでから、最初に口を開いたのはミュエルだった。
「リュエット、知っているのね。あのお手紙の事を」
「ええ。前に貰った手紙と同じ紙だったから」
ユーグリフタス商会は王都にいくつかお店を持っていて、そのうちのひとつがカフェの近くにある。私もミュエルと一緒に行って手紙を注文したことがあるのだ。私がヴィルレリクさまの影響で便箋に手書きで飾りを描くのに凝っているのでシンプルなものを買ったけれど、ミュエルは素材にこだわってあれこれと注文して作ってもらっていた。
ユーグリフタス商会では、様々な色合いや素材を組み合わせてオリジナルの手紙セットを作ってもらうことができる。その組み合わせがたくさんあり、自分だけのものが作れるというところも売りにしているのだ。そのため、出来上がった記念にともらった手紙とお兄さまが貰ったという封筒の素材が同じだったということは、お兄さまに対してもミュエルが手紙を出したという可能性が高い。おまけにミュエルが好んでいる香りがほんのりと移っていた。全く同じ組み合わせを使っている人が他にいると考える方が難しかった。
「……そうなの。あのお手紙は私が出したのよ」
ミュエルはそう重々しく言うと、深い溜息まで吐いた。
お兄さまの挙動が不審になり、本人曰く苦悩している原因となった手紙を送ったのはミュエルだった。
「あの、お兄さまに出したのはまだわかるのだけれど、どうして名前も書かず、手紙も入れずに出してしまったの?」
「そこよ!!」
急に顔を上げたミュエルに驚きながらも続きを促すと、ミュエルはもう一つ溜息を吐いてから事情を話し始めた。
「お父さまがお仕事の関係で隣国の珍しい鉱石を集めた展覧会のチケットをいただいたの。枚数が多いから誰か誘ってみたらって言われたんだけど、ちょうどそれが魔力画の展示会の日だったのよ。ほら、あの来月の」
「ああ、あの大きなやつね」
「そう、リュエットはそっちに行くって言ってたから誘えないし、誰か興味を示しそうな人はいないかと思って浮かんだのがティスランさまだったのよね」
「確かにお兄さまだったらそういうの好きそうだわ」
でしょ、と言ったミュエルが、残りのケーキをぱくりと食べた。
お兄さまとヴィルレリクさまが卒業されるまで、私とミュエルは2人と一緒に昼食を食べることが多かった。お兄さまが私とヴィルレリクさまの間にグイグイ入ってこようとするので、それを阻止するためにミュエルがお兄さまとの会話を引き受けてくれることも多かったものだ。
休日に遊びに行くときもお兄さまに保護者代わりとして付いてきてもらったことも多いので、ミュエルとお兄さまはよく話していた。私が興味がないような話題でも盛り上がったりしていたので、勉強好きなミュエルとお兄さまは話が合っていたようだ。だから余ったチケットを譲ることも、そのために直接手紙を出すことも不自然ではない。
「それで手紙を書いたのね」
「……でもあの日、ちょうどお茶のお誘いがたくさん来ていたの」
「ミュエル、最近また色んな方から声を掛けられているものね」
「返事の手紙もいっぱい出すことになっていて準備してたら、ちょっと用事ができてしまって慌ててたのよね」
「それで?」
「宛名だけ書いた封筒に、うっかり間違って手紙を入れないまま封蝋しちゃったことに気付いたのよ」
「……間違ったから捨てようと思って、紋章も押さず名前も書かずにそのままにしておいたのね」
「そしていつのまにかそれを出しちゃってたの!!」
何通も手紙を出すときは、机いっぱいに封筒を広げることになって混乱する、という気持ちはわかる。インクが乾くまで重ねられないし、封をしたらそれが完全に固まるまでもそっとしておかないといけない。手紙の集荷人は基本的に朝一度しかこないので、一度に出してしまおうと慌てる気持ちもわかる。
間違えてしまった封筒は端に置いておいたけれど、封までしてあったものだからうっかり他の手紙に紛れ込んで出してしまい、宛名が書かれていたからそのまま届けられてしまったのだろう。
「それは大変だったわね。でもミュエル、お兄さまはそれくらいで取り乱すような人じゃないと思うのだけれど」
私も昔一度春のご挨拶の手紙を友達に出したときにやったことがあるし、反対に白紙の手紙だけ入った手紙が届いたこともある。個人的な手紙であれば後で謝りの文言と一緒に送り直せばいい、くらいのミスだ。
送られた側はちょっとびっくりするけれど、間違えたんだろうな、とわかるから後の手紙を待てるし、来なければ問い合わせの手紙を出すこともある。
今回のように送り主がわからなかったとしても、待っていればそのうちまた送られてくるだろう、と思うのが普通だし、さすがにお兄さまもそれくらいは心得ているだろう。
そう頭を捻っていると、ミュエルが突然立ち上がり、本棚から一冊の本を取り出して戻ってきた。
「これよ」
私に差し出された本のタイトルは『わが海と日々』。少し古い装丁の本だった。閉じた本の上側に細い紙が何枚か出ていて、やや色褪せたページにいくつかしおりがされているのがわかる。
「これって?」
「とにかく読んで。この印がついているところだけでもいいから」
ミュエルがあまりにも真剣な顔でいるので、私は頷いて本を開く。
わが海と日々。
その作者は、アジデ・ラーンズデールと書かれていた。