04 春里未来という少女
春里未来は僕にとってどのような存在なのかと、ときどき考えることがある。
互いの母親が親友同士で家族ぐるみのつきあいが多く、兄妹同然に育てられた幼なじみ。
幼稚園、小学校と同じクラスになることが多く、話が合って気心もしれた間柄。
それだけのような気もするし、それだけじゃないような感じもする。
物心ついた時には既に、彼女は僕のそばにいた。
彼女はよく僕の後ろをついてきた。
僕がどこに行こうとしても彼女はその後を追いたがり、それはまるで親鳥の後についていくひよこのようだった。
その習性は幼稚園や小学校に通うようになっても続き、中学にあがるころ、さすがに気恥ずかしくなった僕が露骨に嫌がるようになることでようやく収まった。
だが、それでも、何かと僕の背中に隠れようとする癖は直らなかった。
彼女は臆病で人見知りな性格だった。
それなのにイギリス人である母親譲りの金髪碧眼や、人形のように整った相貌が目立ってしまい、そのことでよく悩んでいた。
実際、彼女は周囲からの注目を集め、奇異の視線に晒されて、そこから派生する様々な悪意に苦しめられていた。彼女にとって僕は、そんな脅威から身を守る防波堤のような存在なのかもしれなかった。
だが僕には、彼女に降りかかる悪意を防げるだけの力がなかった。
彼女は僕のことを、何でもできるスーパーマンであるかのように思い込んでいる節があったが、それは全くの誤解だった。
二人まとめてよくいじめられたし、ひどい目にもたくさんあった。
実のところ、彼女が僕の後ろに隠れるメリットは一つもなかった。むしろ、ひねくれ者で、どのコミュニティとも仲良くできない僕といるせいで、周囲からのけ者になっている面すらあった。
もっと頭が良かったり体格が良かったり、性格が良かったりする別の誰かを頼った方がいい。たとえば、そう、僕の弟とか。何度もそう言って彼女を説得したが、彼女はただ困ったように首を振るだけで、次の日からも変わらず僕の後ろに隠れ続けた。
そんな彼女のことを、僕はどう思っていたのだろうか。
正直に言って、彼女に頼られるのは迷惑だったし、彼女からの過大評価も疎ましかった。彼女が傷つけられるのを見るたびに、自分の無力さを思い知らされるのが苦痛だった。
でも、それでも僕のそばにいようとする彼女のことを、僕は果たして……、
※
どこか、遠いところから懐かしい声が聞こえてくる。
「どどどど、どうしよう花ちゃん。急に倒れてから、ぴくりとも動かないよ。もも、もしかして、し……死んじゃってなんて……」
「落ち着きなさい。呼吸もしてるし、魂だって抜けてない。大丈夫よ」
「でで、でもさっき思いっきり蹴っ飛ばされてたし! もし、骨とか折れちゃってたら!? あんちゃんに何かあったら私、どうすれば……」
目をつむっていても、慌てふためくその表情を容易に想像することができる。
いくらやめろと言っても頑なに変えようとしなかった「あんちゃん」呼ばわりも懐かしい。いつから言い始めたものだったかは忘れたが、確かよくある兄貴分への愛称と僕の苗字である安堂をかけた彼女考案の渾名だったはず。テキ屋のおじさんじゃあるまいし、僕をこんな渾名で呼ぶ人間はこの世界に一人しかいないはずだ。
「ああもう、泣かないの。見た感じ大きな怪我もしてないし、ただいろいろあって疲れたから眠ってるだけよ。ほら、見るからに貧弱そうじゃない、彼」
「ででで、でも、服の上から見ただけじゃ本当に怪我してないか分からないし。もも、もし、手当が必要な容態だったら……」
そんな彼女と会話するもう一人の少女の声も、最近どこかで聞いたことがあるような気がする。具体的にはついさっき、夜の廊下でさかさまに吊られた時とかに。
「そんなに気になるなら、服を脱がせて診てみれば?」
「えっ、えぇええええ!?」
「なに驚いてるの。服が邪魔なら脱がせればって言っただけでしょ。せいぜい痣ができてるとか、その程度だろうけど」
「そ、そんなことしていいのかな」
「知らない。いいんじゃないの? 治療行為だし」
「そそ、そうだよね。治療行為だもんね。仕方ないよね。仕方ない。仕方ないから……」
おい、ちょっと待て。
妙な危険を感じて瞼を開けると、そこには鼻息を荒くして僕のシャツを脱がせようとする幼なじみの姿があった。
「あっ……」
至近距離で僕と目が合い、ぴしりと凍り付く未来。
僕は身体を起こしながら、そんな彼女の全身を確認する。
ゆるくウェーブのかかった金色の長髪、宝石のように青く輝く双眸。人形のように整った美貌が放つ神秘性はしかし、彼女の性格を如実に表した八の字の困り眉が完全に打ち消している。どっちかっていうと、お腹を空かした子犬みたいなその風貌。
やはり彼女は一年前から行方不明になっていた僕の幼馴染、春里未来だった。
「未来……」
僕が思わずその名を呼ぶと、未来は滝のような汗を流しながらブブブンとその小さい顔を横に振る。
「ちちち、ちがうの! これはその、治療行為というか……、決してその、淫らな感情とかではなくっ!」
「…………いや、それは別にいいんだけど」
本来なら、お前この一年間いったいどうしていたんだとか、一体全体何が起きてるんだとか、混乱しながらもまくし立てているところなのだろうが。未来の奇行のせいで拍子抜けしてしまった。
一人パニックになる彼女を見て逆に冷静になった僕は、立ち上がって周囲を見回してみる。
そこは、不思議な空間だった。
見た感じは先ほどまで僕がいた本校舎一階にある廊下に似ていたが、直感的に違う場所であると断言できる。どこかが決定的に違っている。
では何が違うのか、その答えはすぐ近くにあった。
廊下の掲示板に張られた「廊下を走らない」の標語の文字が、左右反転した代物になっていることに気が付いたのだ。
そう、絶対的な違和感の原因はそこだった。
この場所は、自分のよく知る学校の廊下そのもののようでいて、構造から物の配置から全てが左右逆転している。まるで、鏡に映った世界のように。
「……っ、そういえば」
全身に走るみしりという痛みと共に、僕は気を失う前に何があったかを思い出す。
あれが夢でないのだとしたら、もしかしてここは……、
「鏡の中……とでもいうのか?」
「へぇ、間の抜けた顔をしているわりには理解が早いのね」
思わず呟いた僕の言葉を聞いて意外そうな声をあげたのは、先ほど会ったばかりのトイレットペーパーをお供につれたおかっぱ頭の少女だった。
「うわっ、あんたは……!」
冷酷な笑みを浮かべながら人体模型の脳味噌を握りつぶしていた彼女の姿を思いだし、僕は慌てて後退る。そんな僕を見て、トイレの花子さんは心外そうに頬を膨らませた。
「失礼な奴は嫌いよ。危ないところを助けてあげたのに」
「……それは感謝してる。でも」
それは、僕が彼女への警戒を解いていい理由にはならない。
そんな考えが表情に出ていたのか、僕の顔を見た花子さんが邪悪な笑みを浮かべた。
「まぁ、私を恐れるのは正解。私には、あなたの命を容易く手折ることができるだけの力があり……、今のところ、私にそれを躊躇う理由もないのだから」
そう言いながら彼女は空中に浮かんでいた赤紙白紙の一つを僕の首筋に巻き付けようとして……、横合いから急に飛び出した未来に抱き着かれた。
コアラのように花子さんに張り付いた未来が慌てて叫ぶ。
「ちちち、違うの! 花ちゃんは、悪いオバケじゃなくて! 口は悪いけど、優しいいい子っていうか、オバケになりたてで右も左も分からなかった私にいろいろ教えてくれた先輩っていうか、最近仲良くしてくれてるお友達っていうか、そんな感じなの! だ、だから、あんちゃんも花ちゃんも仲良くして欲しいっていうか!」
「は、花ちゃん?」
そういえば、先ほどもそんな愛称で呼んでいたけれど。
トイレの花子さんを花ちゃん呼ばわりする奴なんて初めて見た。まぁ、トイレの花子さんを本当に見たのも初めてだけど。
そんな花ちゃんこと花子さんは、へばりついたまま離れようとしない未来をなんとか引きはがそうと悪戦苦闘している。
「ちょっと、もう、離しなさい」
「だ、駄目! 離したらまた花ちゃん、あんちゃんに意地悪するし!」
「もう、軽い冗談だから。貴方の良い人だって聞いて、ちょっとからかってみただけ」
「よ!? よよ、良い人じゃないし! ただ、昔からいろいろお世話になってたっていうか、なんていうか……」
……何というか、本当に仲が良さそうだ。
どこか拍子抜けしながらも目の前の二人を眺めていた僕は、ふと先ほどの未来の言葉に聞き捨てならないワードが含まれていたことを思い出す。
「ちょっとまった」
遅れてやってきた理解に、自分の血の気がすっと引いていくのが分かった。
「お、おい未来。お前、今……」
そうだ。
トイレの花子さんや走る校長像、踊る人体模型なんかを目の当たりにしたときから、うっすらと予感がしていた。
そして今、鏡の中らしいこの不思議な空間で、こうして未来と再会したことが、その予感を最悪の確信へと変えていく。
「今、オバケになりたてって……」
「あ、うん……」
僕の問いかけを聞いた未来は思い出したように花子さんから離れ、こちらに向き直った。
「えっと……改めまして、あんちゃん久しぶり……。一年も何の連絡もしないで心配かけて、なんていうか、その……ごめんね?」
そして、いつもの困ったような笑顔を浮かべ、こんなことを言う。
「なんだか私、死んじゃったみたいなの」




