03 彼女との再会
このときの僕は、目の前の脅威から逃げることに精一杯で、時間にして数分前に遭遇したばかりであったもう一つ脅威の存在をすっかり忘れてしまっていた。
僕がそのことを思い出したのは、全速力で暗い廊下を駆け抜け、曲がり角を曲がった直後のことだった。
身体が何か硬いものに直撃し、ひっくり返る。
最初は暗闇のなかで距離感を間違え、壁にでもぶつかってしまったのかと思った。
しかし、雲に切れ間でも入ったのか、ちょうどよく差しこまれてきた月の明かりが、それは間違いなのだと教えてくれる。
「あ……、あ……」
あまりの衝撃と絶望で、意味のある言葉を紡ぐことができなかった。
そんな僕を見下ろしながら、銅で造られた校長像がその口元を嫌らしくつり上げる。
やばい。思考がそう理解するより前に、衝撃が僕の身体を襲っていた。
「あっ……?」
小学校低学年の頃、車に跳ねられて死にかけたことを思い出す。
あの時もそうだった。痛みよりも驚きや戸惑いの方が先に来るのだ。そして、現状に理解が追いつくや否や、痛みが全神経を駆け巡る。
「……があああっ!」
全長2メートル近い銅像に蹴り飛ばされた僕の身体はゴム鞠のように廊下を転がり、トイレ前に設置されているステンレス製の水飲み場に激突していた。
衝撃でパイプでも壊れたのか、スプリンクラーのように噴き出す水道水。全身がバラバラになりそうな痛みにもだえながらも、僕は震える手足を動かして何とか立ち上がろうとする。
しかし、度重なる異常事態に僕の身体はもう限界だった。
可及的速やかにこの場から逃げ出さないといけないのに、両足はガクガクと震えるばかりで僕のいうことを聞こうとしない。
そんな僕の様子を見た校長像が、満面の笑みを浮かべたままゆっくりと歩み寄ってくる。
一歩一歩、わざと大きな足音をたてて近づいてくる校長像。それはまるで、死刑執行へのカウンドダウンを告げているかのようであり……。
あ、これはもう駄目だ。
どうやら僕はここで死ぬ。
まぁ、でも、別に生きてていいことがあるかというと、そういうわけでもないし、
ここで終わっても困らないか。
頭の中で妙に冷静な自分がそう囁き、諦念が僕の心を捕らえた、そのときだった。
「こ、こっち! 手を伸ばして!」
僕のすぐ後ろから、聞き覚えのある声がそう叫んだ。
その声の主が何者なのか考えるよりも前に、僕は言われるがまま振り向いて手を伸ばしている。
その先には水飲み場に設置された大鏡があり、
なぜかその鏡面が水滴の落ちた水面のように波打っており、
さらにその鏡面の向こうには本来あるべき僕の姿はなく、
代わりに見覚えのある金髪の少女が写り込んでいて……。
次の瞬間、彼女は伸ばした僕の手を掴んで、鏡の中へと引きずり込んでいた。
四時四十四分か、その鏡写しである七時十六分に、屋上に続く階段の踊り場にある大鏡をのぞきこむと、鏡の中に現実にはいない少女の姿が写り込み、彼女によって鏡の中に引きずり込まれてしまう。
視界が暗転する寸前、昼間に聞いたその話を思い出す。
噂は本当だった。
この一年、どこを探しても見つからなかった春里未来は、ここにいたのだ。




