02 悪霊たちの戦い
夜の学校に忍び込んだら「走る校長像」を目撃し、そいつから逃げようとしたら今度は「トイレの花子さん」に捕まった。
ただ起こった出来事だけを並べると至極単純のはずなのだが、未だに僕の理解は追いついていなかった。
まだ目の前の出来事が夢かトリックであることを期待する感情はあったものの、実際にふわふわと宙に浮く包帯のようなものに拘束され、逆さ吊りにされている現実からは目をそらせない。
というか、包帯だと思っていた帯状の物体をよく見ると、それはトイレットペーパーだった。それにしては強度が強すぎるし、支えるものがないのに空中に浮かんでいるのが謎すぎるが。
「赤紙白紙が珍しいの? まぁ花子さんに比べればいささかマイナーではあるけど……」
「いや、マイナーとかメジャーとか、そういう問題じゃ……」
ついそう反論しかけた僕の眼前に、花子さんが顔を近づける。
猫のようにぱっちりと開いたその両目は、(当たり前かもしれないが)生彩を失っており、吸い込まれそうなくらいどす黒い闇を携えていた。
彼女の目力とも言えるものに言葉をなくしていると、不意に足を拘束していたトイレットペーパーの力がゆるみ、僕はそのまま重力に引かれて廊下に叩きつけられる。
受け身をとれず、つぶれた蛙のような悲鳴をあげることしかできない僕。だが、花子さんは全く気にした様子もなく落ち着いた口調で聞いてくる。
「ふーん、どうやら誰かに憑かれているというわけでもなさそうだけど。それならなぜ、あなたみたいな人間がこんな場所に?」
「憑かれ……? 何の話なのか、さっぱりなんだけど」
「それにしては、うん。いい具合に濁っていて、なかなかに悪くない。いや、とても良い」
「いや、だから人の話をちゃんと……」
意味が分からず、つい声を荒げて聞き返そうとした僕は、言葉の途中で息を呑んだ。
彼女の背後……廊下の奥にある暗がりに誰かが立っている。
「っ!?」
先ほどの校長像かと思ったが、違った。
シルエットは人型だが校長像ほど大きくはなく、そして服を着ていない。
というか、皮膚すら纏っていなかった。
「汚れた魂の匂い。深い憎しみと、激しい嫉妬と、重い後悔と、暗い絶望の混ざり合った醜い心が放つ芳醇な香り。俺の嗅覚器が刺激される。唾液腺が活性化し、涎が分泌される」
地獄の底より漏れ出てくるような低い声。一歩一歩歩み寄ってくるたびに、ねちゃりねちゃりと湿った音が聞こえてくる。
そこにいたのは、理科室にしまわれているはずの人体模型だった。
だがその外見は、日中に見たプラスチック製のおもちゃ然としたそれではなく、限りなく生っぽかった。露出している筋肉や内蔵はなまめかしく脈動しており、まるで本物の人間であるかのようだ。まぁ、本物の人間は臓器むき出しのまま歩き回ったりはしないものだが。
踊る人体模型……、確かそういう怪談も七不思議に入っていたなと、僕は頭の片隅で思い出す。
「とても、とても、とても、とても……」
もはや、人体模型が動いて話すくらいでは驚かない。そう考えていた僕だったが、やはり次の瞬間には度肝を抜かされていた。奴が突然自らの肝を引き抜き始めたのだ。
「とても……、美味しそう」
そう言い終わるやいなや、突然、人体模型の小腸が激しく蠢き、触手のような動きで僕の方へと迫ってくる。
「うわああっ?!」
絡め取られる!
そう考え身を強ばらせた僕だったが、人体模型の腸が僕に触れることはなかった。
先ほどまで僕をとらえていたトイレットペーパーが鞭のようにしなり、迫りくる小腸をはたき落としたのだ。
「卑しい奴。まだ私が話している途中だっていうのに」花子さんが人体模型の前に立ちはだかるようにして吐き捨てる。「そういう奴は、嫌い」
そう続ける彼女の全身から放たれた異様な気配に、僕は全身の産毛が逆立つのを感じていた。恐らくこれが巷では邪気とか妖気とか言われているものなのだろうと、漠然と理解する。
「邪魔。どけ。大脳が判断した。これがいい。これが欲しいと」
「嫌。あんたにくれてやるくらいなら、ここで殺してしまった方が幾分かマシ」
互いに聞き捨てならない台詞を応酬し、対峙する人体模型と花子さん。両者から放たれるプレッシャーに、空気が揺れる。
先手をとったのは、人体模型だった。
先ほどたたき落とされてから廊下に転がったままになっていた小腸が再び脈動し、蛇のような動きで花子さんの喉元へと跳躍する。
しかし、その攻撃を読んでいたのか、花子さんは全く動じていなかった。
「馬鹿の一つ覚えね」
冷静にそう評価しながら、跳んできた腸を両手で掴む花子さん。びちびちと抵抗する小腸をその細い指で握りつぶした彼女は、そのまま綱引きでもするかのように人体模型ごと引きよせた。
「ぬぐぅ!?」
その小さい体躯にどれだけの膂力があるのか。体格的には倍以上あるはずの人体模型の体は、あっけなく花子さんの足下へと倒れこむ。
体勢を崩しながらも、接近した花子さんへ攻撃しようと右腕を振り上げる人体模型。
「まだ……」
「まだ、じゃないの。これでもう終わり」
いつの間にか人体模型の右腕にはトイレットペーパー……赤紙白紙が巻き付いており、彼の動きを拘束していた。その後、次々と現れた赤紙白紙が人体模型の残された手足にからみつき、その動きを完全に封殺してしまう。
むき出しの顔筋を痙攣させることで驚愕を表現する人体模型。花子さんはそんな彼の頬に白魚のような指を這わせ、妖しく微笑んだ。
「弱点丸出しなんて、なんて間抜けな奴なのかしら」
そして、そのまま人体模型の頭頂部……そこに鎮座していた彼の脳味噌を掴み、握りつぶす。
真夜中の校内に、人体模型の断末魔が木霊した。
「うるさい奴は嫌い」
ここにきて、僕は痛感する。
この場所はもう、僕の常識が通用する世界ではなくなっているということ。そして、この世界では僕程度の存在なんて、瞬きした次の瞬間にはくびり殺されていてもおかしくないほど弱く儚いのだということを。
「ばっちいのも嫌い」
花子さんがそう吐き捨てながら、手元にあった赤紙白紙で汚れた手を拭いている。
そのあまりに淡々とした様子に薄ら寒いものを感じながらも、僕の身体はいつの間にか後退っていた。
そうだ。無害そうな外見と、つい会話が成立してしまったことで気が緩んでいた。
彼女もまた僕の常識が通用しない世界の住人であり、僕の命を脅かす脅威の筆頭であることを忘れていたのだ。
この場所から逃げなければ。
そう判断した後の行動は早かった。花子さんがその手にこべりついた脳漿を拭っている隙に身を翻し、元きた道へととって返す。
正面玄関は駄目だ。このまま廊下を突っ切って、裏門から校外へ出なければ。




