01 既知との遭遇
夜の校舎に入り込むのなんて簡単だ。
なんのことはない。放課後、校内のどこかに身を潜めておき、夜になるのを待てばいいだけの話なのである。
昨今、多発する不審者や怪事件のせいで学校警備の強化がうたわれはじめ、この私立夢ヶ淵学園にも最新の防犯システムが導入されたと話題にはなったが所詮、田舎中学の付け焼き刃。
外から無理やり開けようとすると警報がなる扉や窓も、内部から普通に開錠して出ていくだけならば反応しない。
(……そろそろいいかな?)
宿直の警備員が見回る時間帯が過ぎていることを確認し、僕……安堂忠人は、掃除用具入れのロッカーから抜け出した。
周囲を見回し、人の気配が無いのを確認してから廊下へと足を進める。
薄闇の中、緑色に光る非常灯に照らされた夜の廊下はどこか非現実的で、想像以上に肝が冷えた。
耳が痛くなるほど静かだし、もうすぐ夏だというのに夜の空気はまだ肌寒い。
昼間のそれとはすっかり雰囲気の変わったこの光景を見たら、なるほど、幽霊が出るなんていう話が出てくるのも不思議ではないのかもしれないと思わせる。
そう。現在、この学校には幽霊が出るという噂が蔓延していた。
僕がわざわざこうして長時間狭いロッカーに忍び込んでいたのも、その噂の真偽を確かめるためなのである。
それは、どこの学校にもあるような、ありきたりな七不思議だった。
曰く、裏庭にある校長像が独りでに動き出して校内を徘徊するだとか、三階の女子トイレには花子さんがいるだとか、真夜中に踊り出す理科室の人体模型だとか。
そんな毒にも薬にもならない怪談話。本来の僕だったら気にも留めずに聞き流し、そのまま忘れ去っていただろう程度の話題だし、事実そうなりかけていた。
既に語られている七不思議に最近追加された、八つ目の噂を聞くまでは。
四時四十四分か、その鏡写しである七時十六分。
どちらかの時間に屋上に続く階段の踊り場にある大鏡をのぞきこむと、鏡の中に現実にはいない少女の姿が写り込み、彼女によって鏡の中に引きずり込まれてしまう。
さしずめ呪いの鏡だとか、鏡に映る女幽霊といったところだろうか。
ここまでなら、どこの学校でも聞くような、ありがちな怪談話だ。
問題は、その鏡に映るという女幽霊の容姿だった。
噂ではその少女は背が低く、金髪のロングヘアーで、終始どこかおどおどとした様子だったという。それは、一年前にこの学校で行方不明になった女子生徒……春里未来の特徴と酷似していた。
噂話はこう続けられる。
恐らく春里未来は呪いの鏡によって鏡の世界に取り込まれ、死んでしまったのだ。
霊となった彼女は道連れを求め、夜な夜な鏡の中に現れては……、
「……っ!」
その噂を耳にした時の怒りを思いだし、衝動的に壁を殴りつけていた。
思っていた以上に反響した物音に、僕は冷静さを取り戻す。
いけないいけない、不法侵入中だったことを忘れていた。もっと慎重に行動しなくては。
とにもかくにも、僕は確認しなければならない。
この噂が出鱈目であるということを。
そして、もし何者かが未来のフリをして悪戯でもしていたのならば、それを許すわけにはいかない。
これは彼女の幼なじみであり、数少ない友人の一人でもあった僕にかせられた義務なのだ。
それを果たすためにもここで見つかるわけにはいかない。
僕は物陰に隠れて耳を澄ませ、先ほどの物音に気づいた警備員が近づいてこないか警戒する。
「……………………」
静寂。
どうやら、気づかれなかったようだ。僕がそう判断し、ため息をこぼしたそのときだった。
ガチン!
何か硬いもの同士がぶつかるような騒音が、突如として夜の廊下に響きわたった。
思わず飛び上がりそうになるのを抑えながら、僕は周囲への警戒を強める。
ガチン、ガチン、と立て続けに鳴り響く衝撃音。
どうやらその音は、これから自分が向かおうとしていた場所……、屋上へと続く階段の上から聞こえてくるようだ。
風でドアか何かが壊れたか、それとも屋上から侵入した泥棒が鉄扉でも壊そうとしているとか? 混乱した頭のまま僕がそんなことを考えている間も、その音はやむことなく鳴り続ける。
ガチン、ガチン、ガチン、ガチン、ガチン、ガチン。
駄目だ。普通じゃない。逃げろ。危ない。
頭の中では冷静な自分がそう叫んでいるのに、どうしてか好奇心が僕の身体を支配する。この音の正体を確かめなければと、そう思ってしまう。
僕は三階廊下の陰から、屋上へと続く階段の上方をのぞき込み、そして……、
「……は?」
思わず、そう口に出してしまっていた。
ふいに、そういえば僕は今宵、学校の怪談を検証するために夜の校内に忍び込んでいたことを思い出す。そして同時に昼間、オカルト好きの知人に聞いた七不思議の中に、こんなエピソードがあったことも思い出していた。
――裏庭にある校長像が独りでに動きだし、夜のグラウンドを疾走する。
※
そこにいたのは、本来ならば学校の裏庭に置かれているはずである初代校長の姿を模した銅像だった。
教育者にしては妙にいいがたいと特徴的な禿頭に英国紳士のような口髭は、見間違えようがない。
それがどういうわけだが、生きているかのように動いており、そして、なぜかは知らないが壁に向かって両手をつき、その上で自分の禿頭を壁に叩きつけていた。
いや、壁ではない。校長像が今もその石頭を叩きつけているのは、屋上へと続く階段の踊り場に設置された大鏡だ。そして、その鏡は校長像の頭突きをしこたまくらっているにも関わらず、罅ひとつ入っていなかった。
妙に頑丈だな。強化ガラスでも使っているのか……って、そうじゃない。問題なのはそこじゃない。
なんだ、これは。なんなんだ。
夢? 妄想? 幻覚? 夜の学校に忍び込んだ緊張で、僕の頭はおかしくなってしまったのだろうか。いや、少なくとも自覚している限りこの感覚は現実のそれだ。頬をつねると痛い。だとしたら、ドッキリか何かだろうか。いや、僕程度の存在にここまで手の込んだことをするメリットなんて。
そこまで考えたところで、僕は先ほどまでの騒音がいつのまにか収まっていることに気が付いた。
どうしたのだろうか。そう思い、僕が再び焦点を校長像の方に合わせると……、ちょうど向こうも僕の方へと顔を向けているところだった。
ばっちり、視線がかち合ってしまう。
いや、実際には校長像の眼球に瞳は模されていなかったが、それでも奴が僕のことを確認したことは間違いなかった。
なぜなら、本来ならば戦後の教育事情を憂い、空を見上げて厳粛な表情のまま固まっていたはずの校長像が……、顔をほころばせ笑ったからである。
「~~~~っ!」
僕は、全身に駆けめぐるその衝撃が何なのかも判断できないうちに、いつの間にか身を翻して駆けだしていた。
半ば転がるように一階まで階段を駆け下り、そのままの勢いで廊下を疾走しながら、ようやく今、自分の身体を突き動かしている衝動に正体に思い当たる。
それは、死の恐怖だった。
夢や妄想や、ドッキリなんかじゃない。どうやら僕にも備わっていたらしい生存本能とも言えるものが、先ほどの化け物が本物であり、あのままあの場所に突っ立っていたら僕は、間違いなく殺されていたのだと教えてくれる。
今のは何だとか、追ってきているのかとか、次々とわき上がってくる思考を全力で振り切った。
今はただ、可及的速やかにこの校舎から逃げ出すことだけを考えなければ。
このまま廊下を突っ切って、正面玄関へ。あとはそのまま校門を駆け抜け、駅前のどこか、人のいる場所まで行くことができれば……!
「ちょっと待って」
正面玄関のスペースに出ようとした瞬間、僕の耳元で何者かがそう囁いた。
直後、右足が何かに引っかかり、僕は慣性を殺しきれずに盛大に前へとつんのめる。
「うわっ!?」
ぐるん、と回転する僕の視界。
本来ならば顔面から地面に叩きつけられるはずのところだったが、しかし、そうはならなかった。
僕の右足に巻き付いた白い包帯のような何かが、僕の全身を持ち上げていたのだ。
まるで罠にかかった動物のように逆さ吊りにされた僕は、突然の出来事に混乱しながらも、なんとか脱出できないかと空中で暴れ回る。
しかし、僕の足に巻き付いたそれは妙に頑丈で、びくともしなかった。
「落ち着きなさい、無駄だから」
先ほどと同じ、囁くような少女の声音。
「……っ、いったい、なにがどうなって」
逆転した視界を巡らせ、声のした方へと顔を向けた僕はそこに立つ彼女の姿を見て、目を見張った。
「なに、その表情? 驚いているの? 怖がっているの? それとも笑っているの?」
怪訝そうな表情でそう言ったのは、小学生といっても通じるくらい小柄な、見たことのない少女だった。
しかし、僕は彼女が何者なのかを知っている。
いや、僕だけじゃない。僕と同じ日本人の子供なら皆、一目見ただけで彼女の正体に思い当たることができるだろう。
それほどまでに、彼女は有名人だった。
綺麗にそろった黒いおかっぱ頭に、まぶしいくらい白いワイシャツに、鮮血のように赤い吊りスカート。
つり下げられた僕をさめた目で見上げる彼女の姿は、どこからどう見ても噂話で聞く『トイレの花子さん』の姿、そのものだった。




