16 第一歩
僕と未来の二人は、がむしゃらに鏡面世界の校舎を駆け抜けていた。
姿は見えないが背後からは聞き覚えのある大きい足音。どうやら校長像もこっちの世界への侵入を果たしてしまったらしい。
本当は僕が入り込んだ瞬間に、未来が鏡を閉じて行く手を遮ってくれるのが理想だったのだが、何の打ち合わせもしてない状況で彼女にそれを求めるのは酷だろう。
とにかく、奴に追いつかれる前になんとか対策を考えなければ。
「あ、あんちゃん。ストップ、ストップ!」
ふとした拍子に未来の足がもつれ、立ち止まってしまう。
「こ、こんなに走ったの、はじめて、かも……」
ぜはーぜはーと肩で息をしながら、震える膝を押さえて呟く彼女。
幽霊のくせに息切れするのか。そう軽口を叩こうとした僕だったが、こっちも全身痛めつけられた直後の全力疾走で正直身体が限界だった。ずっと掴みっぱなしだった彼女の手を離し、近くの壁に寄りかかる。
先程まで聞こえていた校長像の足音が聞こえてこない。向こうが立ち止まったのか、十分に距離を離せたのか、どちらにせよ数分程度の猶予は得られたと見ていいだろう。
僕がそんなことを考えていると、未来がふいに聞いてきた。
「これから、どうするの? 逆転するって言っていたけど……」
「あぁ、そうだ。これから奴らをぶっ飛ばす」
そう答える僕に、未来の表情が曇る。
「戦うってこと? ……どうやって?」
「それは……、今考えてる。まぁ、とりあえず少しの時間は稼げたから、まずお前は僕に取り憑いて……」
「駄目だよ」
彼女はそう言うと、いきなり僕を突き飛ばしてきた。
疲労のせいか足下が覚束ない僕はあっさりと体勢を崩し、背後……廊下に設置されていた大鏡に向かって倒れ込む。
しかもその鏡面は先ほどと同じように波打っており、僕の身体は鏡を抜けて現実世界へと帰還していた。
「なにをっ」
とっさに手を伸ばし、未来の腕を掴むことで背中から廊下に倒れこむのを回避する。
右手だけ鏡に突っ込んだままの姿勢。
その手を引いて鏡面世界に戻ろうとした僕だったが、険しい表情の未来がそれを制止した。
「……さっきも言ったけど、私、あんちゃんに取り憑くつもりなんてないから」
「お前、この期に及んで何言ってんだ」
「何言ってんだは、あんちゃんの方だよ! こんなボロボロにされて、殺されかけて! だから言ったじゃん、危ないって! こうなるのが嫌だったから私はっ!!」
「…………」
「ここで、鏡を閉じてあいつをこの世界に閉じ込める。そうすればあいつはあんちゃんに手出しできない。……多分、これが最善策だよ」
「そんなわけあるか! この場所にお前とあいつだけ取り残したら、お前は……」
「でも向こうだって閉じ込められたままじゃ困るわけだし、多分酷いことにならないって」
気楽な口調でそう言って笑おうとする未来。だが、それが強がりなのは明らかだった。
こっちが何年、お前の幼なじみをやっていると思ってるのか。
当然、同じ期間僕の幼なじみをやっていた未来にも、僕に虚勢が通じていないことは伝わっている。しかし、彼女に引くつもりはないようだった。
「……その手を放して」
彼女はすっと表情を消し、冷たい声で告げてくる。
「このまま私が鏡を閉じたら、空間が断絶されて、その腕……ちょん切れるからね」
「やれるものならやってみろ」
「…………っ」
「僕は引かない」
鏡を境に、睨み合う僕と未来。
僕の意思の硬さに気づいたのだろう。彼女の腕に力が籠もった。
彼女は眉をつり上げたり八の字にしたりしながら何事かを考え、そして、
「……さ、さっきも言ったでしょ。私、自殺の大義名分にされるのが嫌なの。そんなので協力されたって、迷惑なんだよ!」
泣きそうな顔でそんなことを言ってくる。
「……………………」
僕を巻き込みたくない未来と、巻き込まれたい僕。
これは先程の、花子さんとの会合でした話の続きだった。
あの時は逃げられたが、今度は逃がさない。
今度こそ、この頑なな幼なじみに僕の気持ちを……、
……僕の気持ち?
「お前が好きだ」
気がついたら、そんなことを口走っていた。
「……。…………。………………へ?」
険しい表情をしていた未来が、きょとんと瞬きをする。
「確かに僕はお前の言うとおり、死にたがりなのかもしれない。無意識のうちに自殺を正当化できる理由を探し続けていたのかもしれない。でも、違う。それとこれとは別問題で、僕がお前に協力したいのはそんな理由からじゃないんだ」
「え? あの、あんちゃん? 今、何を……」
「好きだから力になりたい。好きだから命をかけてもいい。ただ、それだけのことなんだ」
「へええええぇっ!?」
衝動に任せて口が動く。
しかし、言葉にしてみるとそれは思いのほかしっくりくる動機だった。
そうか。僕は、春里未来のことが好きだったのだ。
ちっちゃくて、可愛くて、ちょっと馬鹿で。どうしても放っておけない幼馴染。
「僕の死にたがりが不安なら、誓うよ。この戦いの中で僕は決して自分の命を諦めない。生き延びるために最善を尽くすと約束する」
心の靄が晴れたような、爽やかさすら感じる心境。
脳の片隅にいる冷静な自分が「お前、ちょっとおかしいぞ。状況考えろ」と警告してくれていたが、もうどうにも言葉が止まらなかった。
「未来はいつだって、たとえ僕が嫌がっても側にいてくれた。親にも見放された僕みたいな奴の側にずっと……。今、思えば、僕はお前に救われていたんだ。その恩を返したい、だから」
「あわあわわわ」
目を白黒させている彼女の肩を掴む。
身を乗り出し、鏡に顔を近づける。
すぐ目の前に、彼女の顔があった。
「僕に取り憑いてくれ」
彼女の瞳をしっかり見つめ、そう言った。
未来は目を見開いたまま硬直している。
数秒、沈黙が訪れた。
「あ、あの、えっと……、ですね……」
ようやく硬直が解けた未来が、慌てたように視線を揺らしながら口を開く。
「えっと……その……」
「……………………」
その様子を眺めるうちに、僕の中に冷静さが戻ってきた。
なんだこれ。
なんだこの状況。
僕は今、何を言ったんだ。
全身から汗が吹き出す。
僕は馬鹿か? いや、馬鹿なのは知っていたが、ここまでとは。
本当は何か別の、もっと整った台詞を言おうと思っていた気がする。
だが口から出てきたのは未成年の主張みたいな、頭の悪い告白だった。
この状況でそんなこと言われても困るだろうに。
っていうか、未来の反応は……?
「…………!」
僕の視線に気づいた彼女は、きゅっと表情を引き締めた。
「あの……ですね……」
なぜに敬語。
……と思ったら、その口元は緩み、鼻息もなんだか荒くなっていた。
「録音するんで、今の、もう一度最初から言ってもらっていいですか?」
「言えるか!」
いろいろ限界だった僕は、彼女の肩を掴む手に力を込め、勢いよくガクガクと揺らすことにした。
「あばあわわわ」
「ごたごた言ってないでまずは僕にとり憑け! 話はそれからだ!」
「え、えーと、あの」
「早くとり憑くと言えぇええっ!」
「は、はひぃいいっ!」
そんな感じで、
勢いで押し切るような形で、未来は僕にとり憑いた。
こうして僕たちは、卒業試験……その長い戦いの第一歩を踏み出すことになる。