15 チャンス
花子さんが消えた。
あまりにも唐突かつあっけなく起きたその出来事に、僕の理解が追い付くまで少しの時間が必要だった。
「い、いや……、いやあああっ!!」
「やった……、やったぞ! なんだ、簡単じゃないか!」
未来が泣き崩れ、久瀬が高らかに笑う。
校長像も小さくガッツポーズをとり、喜びを隠せないようだった。
「一番厄介だと言われていた花子さんをこんな序盤で倒せるなんて、いや、本当にラッキーだったよ! まさか鏡女のための餌でこんな大物まで釣れるなんてさ。やっぱり神様っているよな、日ごろの行いがものをいう!」
「何をっ!」
「元生徒のくせに口答えか? 鏡女」
歯を食いしばってにらみ付ける未来を、久瀬が嘲笑う。
「まぁ、いい。さっそくだが、次にいこうか」
久瀬がそう言うと、校長像が僕をつかんでいない方の拳を大鏡に叩きつけた。
「もう守ってくれる仲間もいない。……抵抗が無駄なのは分かるだろ。さぁ、さっさと鏡を開くんだ」
「だめだ、未来! こんな奴の言うことを」
「先生は今、大事な話をしてるんだよ!」
校長像がその手を大きく振りかぶり、僕を床へと叩きつける。
背骨が折れたかと思うほどの衝撃。
「お前に発言は許可していない!」
そのまま痛みで蹲る僕を、今度は久瀬が足蹴にしてくる。
「どうしてこうっ! この学校の連中はっ! 先生の言うことをっ! 聞けないっ! 奴らっ! ばっかりなんだ!」
繰り返し繰り返し、数え切れないほどの蹴りをたたき込んでくる久瀬。
もはや、痛覚が振り切れて痛いのかどうかすら分からなくなってくる。
「やめて! やめてください! わかったから!!」
そんな一方的な暴力を見せつけられて、大事な友人を失ったばかりの未来が耐えられるはずもなかった。
「鏡を開きます。だ、だからもう、あんちゃんに酷いことしないで……」
未来が写る大鏡の表面が、水面のように揺らぎ始める。
それは以前にも見た、鏡の世界への扉が開かれた合図だった。
「未来……、やめ……」
「ごめんね。本当に、ごめんなさい……」
「はいはい、そういうやり取りはもういいからさ」
そんな久瀬の言葉を合図に、彼そっくりのゲスい笑顔を浮かべながら校長像が前に出る。
一歩一歩、ゆっくりとすすむ校長像。昨夜、僕を追いつめていたときと同じだ。勝利を確信したおかげか、今度は獲物を恐怖でいたぶり楽しもうとする意図が透けて見える。
奴はそのまま鏡の中……、その向こうに佇む未来へと手を伸ばし、その顔面を掴もうとして……、
多分、これが最後のチャンスだった。
先ほどからずっと地べたに這い蹲っていた僕だからこそ、気付くことができたのだ。
ついさっき、久瀬が僕を親の仇のように蹴りまくっていたとき、どこからともなく現れたトイレットペーパーが、蛇のような動きでその右足に絡みついていたことに。
花子さんはまだ消えていないのか、それとも最後の力を振り絞ってこれを残したのか、はたまた、ただ単に風に巻かれた紙が偶然巻き付いただけかもしれない。
でも……!
僕は痛みに軋む身体に鞭打って、起き上がる。
そして、久瀬の足に巻かれたトイレットペーパー……その切れ端を掴み、力任せに引っ張った。
脆い紙ではなく、まるで頑丈なロープを引いたかのようなその手応え。
その感触に確信する。
まだ、何も終わっていない。
「これで、おわ?」
足をとられ、未来に対し勝利宣言をしようとしていた久瀬の体勢がかくんと崩れた。
「おわわ?」
反射的に体勢を立て直そうとする久瀬の足を、自動で動き、絶妙なタイミングで再び引っ張るトイレットペーパー。彼は足を踏み外し、階下に向けてぐらりと傾く。
「おわあああっ!?」
悲鳴を上げ、階段を転げ落ちていく久瀬。
そんな彼の行方を見届ける間もなく、僕は全力で前へと飛び出していた。
こちらに振り返ろうとしていていた校長像の脇をくぐり抜け、そのまま目の前の大鏡へと飛び込んで、立ち尽くしていた未来の手を掴む。
「あ、あんちゃ……?」
「走るぞ!」
突然の出来事に戸惑う未来をそのまま引っ張り、僕は鏡面世界の階段を駆け下りた。
「まだ終わってない!」
未来に、そして自分に言い聞かせるようにして叫ぶ。
「ここから逆転する! 僕と、お前で!」