再会の悪夢
現実味のない現実は、夢でしかない。
ぜんぶ、夢だったのだろう。
今は、そう思う。
◆◇◆ ◇◆ ◇◆ ◇◆ ◇◆ ◇◆ ◇◆◇
世界がおぼろであった。
視界の輪郭がはっきりとせず、細部がたらたらと溶けたように崩れていて、それでも全体の把握はできる。そんな世界である。
そこに私は『いる』ようだった。
いや、『いる』、というのはおかしいかもしれない。何しろ、身動きが取れない。感覚は先ほど述べた、世界を捉える視覚が機能しているのみで、その他は無反応である。
ふわふわとした意識が私を象っている。
そんな状況で、『いる』というのはやはりおかしいように感じた。
では何か。私はどうしているのか。
強いてこの状況を言うなら、『ある』、というのが当てはまるのかもしれない。
『いる』のではなく、『ある』。
この二つの言葉に、そこまでの違いはない。使いどきが少しばかり違うのみだ。あとは、語感の違いとでも言えるか。
とにかく、私はそちらの物言いの方がしっくりときていた。気に入ったと言い換えてもいいかもしれない。理由はわからないが。
依然として曖昧な世界を見つめながら、やけに益体のないことを考えていたところ、ふと、何かが動いた。
それも他と同じく、よく溶けた外観をしていた。ほろほろと崩れていくような、無数の線で覆われたそれは、何だろうか。
かつてよく見たことがあるように思える。だけれども、一度も見たことがないようにも思う。
不思議だが、不思議ゆえか、私の頭は納得の意で埋め尽くされていた。
──線が揺れた。
唐突なことだった。それを覆っていた線が、何か力を加えられたように揺れ始めたのだ。
ゆらゆらと線が揺れていき、その揺れは次第に全てを巻き込み始めた。
揺れている。
目の前のそれが、端に見えるあれが、枠が、世界が揺れていく。
何もかもが、揺れていく。
それは酷く悲しげな光景に思えた。頭の隅が、或いは全身を満たす何かが、崩れゆく世界に絶叫をあげている。
そんな気がする。
まるでほつれて絡まり続ける毛糸のようだ。
揺れる糸は、次第に収束していった。
仕組みはわからない。そもそもあの糸が何でできているのかもわからないのだから、しょうがない。
集まっていく糸を見るうちに、私はようやくそれらに色が付いているということに気づいた。
赤であったり、青であったり、緑であったり、黄色であったり。
白と黒なんてものもあった。
すべて大嫌いな色だった。
『──────』
音がした。聴覚が増えたのだろう。
産声をあげたばかりなのがいけないのか、どんな音なのかは理解できなかったが。それでも、たしかに音がしたということは把握できた。
『────ァ──』
強い刺激が走った。一瞬、何が起こったのかはわからなかった。しかしすぐにわかった。
腕が痛みを訴えてきたのだ。痛い痛いと、泣きそうな声で訴えてきたのだ。
引っ掻くような鋭い刺激と、脈打つような疼痛。ああ、腕という我が身の一部が泣き叫んでいる。
そんな状態ではあるが、腕が一体どういったものなのかはわからなかった。
それについて考えようとすると、頭の中が霞みがかったようになってしまったのだ。
だから、それが持つ重要性は全くわからなかった。しかしその声は、少しだけ胸に突き刺さる気がした。
『──ァ──ンは──』
それとは別に、音は再び鳴る。
いまだにそれが意味することはわからない。増えたばかりだから聞こえなかったというわけではなかったらしい。
おそらくは、私の気分のせいなのだろう。
よくわからないが、それを把握しようとすると嫌な感覚が沸くような気がして、避けてしまいたくなる。
そういう気分の、せいなのだ。
『──キ──、ァ────』
不快な感覚が浮き上がった。
なにかを貫くような、刺激的な感覚。
痛みではない。先のものはとうに去った。
では何か、と思うとこれもすぐに答えが出た。
嗅覚だ。
その感覚が増えたのだ。この不快なものは、匂いなのだろう。不快と感じるということは、よほど気持ちの悪いものの匂いなのか。
そうだ。これは何か、金属の混じった匂いだ。それが少しばかり焦げて、そのせいでこんなにも刺激の強い匂いを発するようになった。
そんな気がする。
突如。
目の前で、糸が束ねられた。
無数の細い糸が纏まって、一本の大きな太い糸を象っている。少しうねうねと揺れるように動いているのが、不気味だ。
『キミが────だね』
それも今まで同様、唐突に過ぎた事象であった。
意味不明の領域を超えることのなさそうだった音が、今、やっと意味を成した。
肝心なところがよく聞こえなくて、また理解できなかったがという感触が胸につかえるが、それどころではない。
変な予感がしてならなかった。
『なるほど、だから名前がアレンということになるのかな』
『────』
『ああ、気にしないで。僕の独り言だと思ってもらって構わないよ。それにしても、そうか。こうなったか……』
わけのわからないまま、わけのわからないものが胸の内から込み上げてくる。
わからない。
わからない。
ぐすぐすと燻るこれを、不可思議な感慨を、芯に籠る真っ黒な感情のようなものをどう捉えればいいのかわからない。
ただ、これは私が望むものとは気色の違うものだということだけが、うまく思考をせずともよくわかった。
『ふむふむ。まあ、そうなることは決まっていたようなことだ。────の存在は、そんなものだ』
段々と、音が大きくなっているような気がした。
それが当然のようにも思えたが、少しそれが気にかかった。
なぜかはわからない。ずっと曖昧だ。
『────』
『へぇ? それは興味深いね。ああ、言っていいのかわからないから言わないで、……いやまて。そうだな。そうだ。いやむしろ言わせてもらおう』
そこまで理解できてから、唐突に音が止んでしまった。暫し待てども再び鳴る気配はない。終わってしまったのだろうか。
ならば仕方がない、そう思おうとするがうまくいかなかった。
なぜだろう。とてもいきぐるしい。
何かがせり上がり、何かが出て行く感覚がした。
何かが頭を支配し、その何かに溶かされ、私というものがきえる感覚がした。
糸が震える。
糸が、震える。
何かに押さえつけられるように。何かから抜け出そうとするように。
自ら解けようとしているかのように。
案の定、それは解けた。
綺麗に束ねられていた細い線は、バラバラになって、それからまた集まり始めた。
収束する。
収縮する。
あるものが形作られた。
同時に、音が再生される。
『──────。とても面白いよ』
ぐるぐると回る線が生み出したそれは、確かにヒトと言えるカタチをしていた。
伴って、理解が私の頭の中で生まれた。
これはすべて夢であるのだと。
◆◇◆ ◇◆ ◇◆ ◇◆ ◇◆ ◇◆ ◇◆◇
夢を見たのは初めてだったか。……別段、良いものではないな。
段々と覚醒に近づきつつある意識が、ポロリとそんな呟きを心中に漏らす。今回の寝覚めの感覚は、あまり素晴らしいとは言えないものだった。夢のせいだということは確実だろう。
そにしても、初めて見た夢はあんなものだったか。
記念すべきそれがかなり変なものであったということに少しの不満を覚える。が、すぐにそれは無くなった。
夢なんて、そんなものだと教えられたことがあった。寧ろ、俗に悪夢と呼ばれる内容のものでなかったことを幸せに思うべきか。
はぁ、と溜息を一つ。
それから、気怠げに抵抗する瞼をゆり起こすように、ゆったりと視界を確保した。
────頭が真っ白になった。
ばっと、右に顔を向ける。
肩が見えた。それに繋がる腕が、ピンと真っ直ぐに張っているのも見えた。肘のあたりで少し陰影のできた服、そしてその先の袖口も見え、──その次だ。
白い何かだった。
本来なら私の手が見えるはずの場所は、白色のそれが見えるのみであった。
見たところの形は球体。私の手をすっぽりと包み込んで、その大きさを十倍ほど強調するように存在している。
そして何より特筆すべきなのは、それが宙に浮いているところだった。
私の頭は、一瞬にして驚愕で満ちた。
こんなに大きなものが、私の手を掴み、そしてなんと宙に浮かんでいるのである。驚かない方がおかしい。左側をちらと見やると、やはりこちらも同じかたちで捕まえられていた。
足元に視線を移すと、そちらはくるぶし辺りまでは見ることができるものの、そこから先はどうなっているのかわからない。
足は地面に埋まってしまっていた。
白一色の床に、埋まっていたのだ。
顔を真正面に向ける。
見えるのは白。そして、灰色。
全体を占める灰色の合間を縫って顔を出す白、という構成の視界。
白は壁。
灰色は、機械だった。
床同様の白い壁を大きく遮るように設置されたものは、灰色の無骨な機械であった。
「これは……」
小さく動いた口から、言葉がこぼれた。
「……知ってる」
知っている。
目の前のこれを、この視界を、この状況を。
どこか遠い記憶の中で──いや、もっと違うところの何かが、これを知っているのだと騒いでいた。
伴って膨れ上がるもどかしさが、強く胸を締め付ける。途中、ぼやけた音が聞こえたような気がして前方に目を凝らすが、何もない。幻聴であったかと結論づけようとしたが、湧いて止まらないもどかしさが違和感を抱かせた。
顔を下げる。嫌な感覚を起こす目の前の光景から目を逸らして、足元の白色を見つめる。
自分の足の肌色と床の白色の境目を食い入るように見つめていると、ふと、疑問が湧いた。
──ここはどこだろう、と。
素朴な疑問だ。そも、目を覚ました時点で考慮して然るべき疑問点である。
今更目を白黒させているという自分の体たらくに、深い呆れを覚える。が、それはすぐに頭の端の方に寝かせておいて、当の疑問の解消を始めた。
まずは、ここに居る理由。……パッとは思いつかなかったので、次に移る。
次は、ここに至るまでの経緯。
船に乗って、船で変な奴等と出会い、船を降りて、島に敷かれた道を歩いて。
思い出せるところを大雑把に把握していき、脳内に適当な記憶の描写をしていく。
そして。
「────あ」
思い出した。
詳しくは思い出せないが、それも仕方ない。そういう状況だったのだから。
あれは、食事をしている時──いいや、丁度食べ終わったところだった。
──ああ、そうだ。食べ終わらないはずがない。あの料理は良かった。見た目は悪く思えたが、しかし反して、その味は素晴らしかった。今も思い出しただけで唾液が湧き出してけるほどだ。
あの良い味に想いを馳せているところで、ふと、思った。
あれを食べている最中に見たのであれば、ああも冷静さを失うことはなかったのではないか。
そう思って、しかしかぶりを振ってその考えを追い払った。
どうであろうと、私はあれを見た瞬間にはもう、理性を飛ばしていただろう。
そう。
扉の前に佇むトーピの後ろ姿を目にしたのだから。
あれを見た瞬間、よくわからない激情が私の心を奪い尽くしていた。それが私の体の主導権を握るまで、つまり理性の存在していた時間は一瞬のことでしかなく、そのせいで私にその後の愚行を止める権利は消失していた。
今考えればわかる。あれが愚行と称すべきものであったのだと。
トーピの後ろ姿だと思ったものが、ただの見間違いであった可能性。まずこれを考慮すべきだった。
加えて、転んだ拍子にトーピの姿を見失ってしまったこと。
私が見たのは彼が扉の前にいたところであって、その後彼が扉を開け、その中に入っていったのかは把握していない。
もしかしたら別の場所に行ったのかもしれないのに、私は思い込みから扉を開けて中に入り込んでしまった。
この二つを並べただけでも、私が如何に馬鹿な行動を起こしたのかが、はっきりとわかってしまう。
信じられないことだ。あの時に、ここまでの思考放棄をしてしまっていたとは。
情けない愚行である。
──深い、深いため息が溢れ出た。
この愚行のすぐ後に起こった出来事についての、少しばかり曖昧な記憶。それを思い浮かべたところで、今のこの状況がどういったものかがよくわかったからだ。
つまり、私は拉致されたのである。
よくわからない、何者かによって。
◆◇◆ ◇◆ ◇◆ ◇◆ ◇◆ ◇◆ ◇◆◇
私がこの状況について理解をしてから、少しの時が経過した。
その間、何かあったかと問われれば、何もなかったと言うしかない。精々、ここから脱するのは不可能に近い、というのを思い知ることができた程度である。
それというのも、この両手を捕らえている球体と、足を飲み込んでいる床のせいであった。
球体の方は、私の意思に従って動くようにできているようではあった。それのおかげで大きな疲労を感じるような事態にはならないとわかったのだが、面白くないのはその他の特徴である。
まず、私の意思に従うとはいっても、自由に動いてくれるわけではない。例えば、両手の球体同士をぶつけさせ、破壊を試みたのだが失敗に終わった。全力で打ち合わせようとしたところ、ピクリとも動かなくなったのである。
どうやら、激しく動かそうとすると停止するように設定されているようだった。
また、腕をうまく使って球体から手を抜こうとするが失敗、スイッチかそれに類する何かがあることを期待して観察するも見当たらず、イラついて床に思い切りぶつけようとするも失敗。
どうしても取れないということが理解できた。
次に足の方を確かめて見たが、それもすぐに諦めることになった。
どんなに力を込めても、私の足はピクリとも反応してくれなかったのである。
球体の方で、かなりの体力と精神力を使っていた私は、すぐに諦めてしまった。
ため息をつく。
うなだれるように床を見つめ──ようとしたところで、
音がした。
ガチャガチャという、耳を削るような騒音の類である。
驚きから一瞬、びくりと体を強張らせる。次いで、音の発生源と思われる左側の壁に顔を向けた。
目を疑った。
壁が割れている。真ん中にピンと一本の綺麗な直線の亀裂が入り、それを起点にして、壁が開いていく。
──いや。壁が開いているのではなく、これは。
驚愕と怖気が背筋を走り抜き、瞬時に頂点を過ぎていった。
「あ、おはよう! 私のこと、覚えてる?」
割れた扉の間から顔を覗かせて、ニヤッとこちらに笑いかけてきた、──そいつは。
迷子になった私を助けた、男性であった。
◆◇◆ ◇◆ ◇◆ ◇◆ ◇◆ ◇◆ ◇◆◇
あ、忘れ物した。ちょっと待っててくれっ!
──突如そんなことを宣った男性は、壁の間から顔を消してしまった。同時に音が止まったので、彼は忘れ物とやらを取りにどこかに行ってしまったのだろう。
しかし、そんなことはどうでもよかった。
混乱。
私の頭は、混沌とした混乱にぐちゃぐちゃと掻き回されて、まともに思考できなくなってしまっていた。
私は、拉致されている。
そんな私に顔を見せた男性。
それは、私を助けてくれた者で、いや、少しおかしなことをしていたのが印象に残っている。つまりこれもその延長線上の行為なのか。
いや、壁が割れた。いや違う、壁じゃない、多分扉だ。ああいう扉なのだということは理解、──いや壁かもしれない。
いやいや、それよりも今のこの状況を──。
ぐるぐると、色々な考えがごちゃごちゃに織り交ぜられ、その挙句には脳内にて滅茶苦茶な展開を為していく。
考えているようで、その実全く何も考えていないという状態を持続していると、また音がし始めた。
「ああ、うるさいなっ! 君、この音はどうにかならないのか?」
「なんども言っているでしょう、そんなことに金をかける余裕は無いんですよ」
「いやいや、嘘だよね。金は有り余るほどあるはずだよ君ぃ、嘘は良くないよ」
「先生、耳元で囁かないでください。気持ち悪いしうるさいです。うるさいと嫌われますよ、先生」
騒音を掻い潜って私の耳まで届いてくる、緊張感のかけらもない会話。その締めに、何を言うかねっ、と男性の声が聞こえてきたところで、ようやく私の混乱も収まりを見せてきた。
「私をどうするつもりですか」
壁が左右に開き切り、丁度音が静まったところを見計らって、私は発言を為した。よく聞こえるように、なるべく大きな声を出したつもりである。
ぶつくさと下を向いて独り言を呟いていた男性は、私の声に驚いたように、ぱっと顔を上げた。
「ああ、すまないね。じゃあ説明に入るから、その前に自己紹介でも──」
「自己紹介? 何を言ってるんです、先生」
男性の発言を、隣に立っていた白衣の青年が遮った。
冷ややかな表情の青年である。
彼は男性を見上げながら、その顔に見合った冷ややかな声音で、こんなことを言った。
「彼──いや、彼女にそんなことをする必要は無いと思います。彼女は──」
「いや。君がなんと言おうと、私はするよ」
「なぜです? それをする意味が──」
「この子、全部なくしてるからね」
「──はい?」
冷えて固まったようだった青年の顔に、初めて戸惑いの色が見えた。
横顔を見るだけでもすぐにわかるほど眉を寄せる青年。そんな彼に、男性は頭を掻きつつ、困ったような口調で答えた。
「多分、だけどね。全部覚えてないようなんだよ。自らの意味も、意義も。全て忘れているようなんだ」
「……そんな、ばかな……」
戸惑いの次は、悲嘆の色。
あの斜に構いた顔つきは何だったのかと言いたくなるほどの激変ぶりである。
こんな時でなければ、それに対して笑ってやるくらいのことはしてしまっていたかもしれない。
私が場違いな思考を滑らせ、肝心な会話の趣旨についての理解を放り出す中、彼らの会話は続いていく。
「ああ、私もそう思ったさ、最初はね。だけどさ、考えてもご覧よ。彼は今、真っ白だ。それは想定外の事態ではあるが……しかし、それは好都合でもある」
「どうしてです……! コレは一大事でしょう! 早急に解決すべき……っ」
「まあまあ、少し落ち着いてくれ」
声を荒げて騒ぎ立てる青年の口を塞いだ男性は、静かに、と自らの口に人差し指を立てる。
「君は少し、思い違いをしている」
言い聞かせるような男性の言葉に、青年は怪訝な顔をする。
何を言うつもりだろうと不安そうな顔をする彼に、男性は小さく笑った。
「彼女は今、最高の状態である、というのが実際のところなんだよ。だって、真っ白ということは、それだけ実験の幅が広がるというわけなんだから」
ぴくり、と青年の眉が反応する。
「本来の反応と異なるものが出てきたとしよう。古くから積み立てられてきた理論より、想定されて然るべきであった結果が、大きく覆された瞬間だ。それだけを思うと、ああ、気持ちの良いものではない」
顔をしかめて、いやだいやだと首を振る。
それを数度繰り返して、青年の眉根をさらに寄せさせた──ところで、ピタリとやめた。
「だけど、こう考えてみるんだ。──我々は今、素晴らしき未知に触れたのだ、と」
青年の表情が緩んだ。
和らいだ空気を好機としたか、男性は青年の口から手を外す。
そして、こう告げた。
「未知を楽しんでこそ、《研究員》と言えるのではないのかな?」
得意気で自慢気な顔をつくった男性に、──私は最大限の警戒を始めた。
《研究員》、それは敵だ。完膚なきまでに私の敵である、そういうものの総称だ。
奴は、その名を口にした。まるで自分、そして目の前の青年をもその同種とするかのような口ぶりで、告げた。
ならば敵だ。奴ら二人は、敵だ。
盛り始めた激情を、それよりも冷徹な理性で制御することに成功した私は、気を張りつめらせながら二人を伺う。
意識を取り替えた私の目に最初に移ったのは、呆れた顔の青年が呆れた口調でぼやく姿だった。
「まったく……そんな風に言われたら、僕が何も言えなくなるのを知っているくせに……」
「はは、ごめんよ。だけど間違ったことは言ってないだろう? どちらにせよ今は理由がわからないのだし、それなら楽しんでなんぼってやつだよ」
「はぁ、まあいいでしょう。ところで、どうして知っていたんです? 彼女が不具合を抱えていると」
「ああ、僕が船の中を散歩しているときに──」
「……船の中?」
唐突な低音の声。さっきまでの明るさを一瞬でガラリと変化させるその声に、男性がしまったと顔色を変える。
「あ、えぇとね。違うんだよ、今のなし。……いいよね?」
「ダメです。船の中と言いましたね? それならいつでも僕に報告できたはずです。……忘れてたなんて言わせませんよ?」
「え、えぇー」
目を凄まじい速さで泳がせる男性。青年に詰め寄られながら、それでも必死にこの危機を打開できるものを探し求めているのだろう。その懸命さには少々失笑を禁じ得ないところであったが、なんとか耐えた。
地味に私が肩を震わせていると、ふと彼の泳いでいた目と、私の目が合った。
瞬間、彼の顔が輝く。そして、これ幸いとばかりな声音で青年に言った。
「ほら、それよりも彼女だよ! 君も言ってたろ、早急になんやらって! だからほら、我らで未知の究明に立ち会おうではないか! 早急にっ!」
「話を逸らさないでください……と言いたいところですが、確かに僕も、早く彼女について調べたいという心持ちではあります。ですので、はい。やりましょうか」
「おおっ!」
「ただし、あとで聞かせてもらいますからね。………色々と、ね」
「うぅむ、まあそれはしかたがないかなぁ。じゃ、始めようか。まずは自己紹介からね」
そう言ってふんすっと鼻息を荒くして、顔を期待の色で輝かせる男性。そんな彼に、青年が一つ、問いを投げかけた。
「始めるのはいいのですが、なぜ自己紹介を? 未知を楽しむといっても、あれにそれをする必要性はやはりないと思うのですが」
「ちっちっち。わかってないね、君。未知が発生したのなら、想定していた全ては一旦なかったことにしなければならないのだよ」
「はぁ、そうですか……」
「君も《研究員》なら、本来わかって然るべきなんだけど……まあ、私に任せてくれていればいいよ」
胸を張った男性が、私の方に歩み寄ってくる。自信ありげな男性とは対照的に、青年は一つため息をついたが、すぐにその後を追っていた。
「さて。遅れてしまってすまないね。気分はどうだい?」
「……私に聞いているのですか」
「おぉっとぉ、不機嫌っ! まあでもいいんだけどね。このまま紹介するよ」
強く睨み付けると、男性は大きく仰け反った。気色悪く感じるほどの、大げさな反応である。敵であることも相まって、イラついてきてしまった。
そんな私に構わず、彼は自らと隣の青年の紹介を始めた。
「えぇと、まずはこの私から。私は、オーテリス=アルターニァと申します。ま、オーテリスと呼んでね」
「…………」
「で、こっちの小さい彼がルーモン=リートレス。まあ、ルーたんとでも呼んであげればいいと思うよ」
「なんですかそれは! ふざけないでくださいよ、先生!」
「いやぁごめんごめん。で、どうかな?」
首を傾げて私に問うてくる男性、オーテリスと言ったか。そんな彼の無邪気な顔に、私は無言で返すことにした。
「うーん……」
「以前と反応は変わりませんね。やはり、これも根本に違いはないのでは……?」
「いいや、ちょいとそれは早計すぎるよ。ほら、よく見てごらん。手応えの感触が違う」
「……ああ、なるほど」
冷静な口調で会話がなされ、ルーモンが深く頷いた。
全てがよくわからない会話だったが、一つわかるのは、それが酷く面白味がないということだけである。
その感覚を信じ、私は彼らを睨み付けるという行為をやめることはしなかった。
「ですが、これだけでは弱いです。この状態はまさしく異常事態である、ということへの決め手にはなりません。であれば……」
「だから早計だって、君。もう一つあるんだ。私が用意したものだよ」
「それは、なんです?」
「まあ、見ててくれたまえっ」
元気よく叫んだオーテリスは、着衣している黒いスーツの胸のあたりに手を差し込んで、そこから薄い四角の箱を取り出した。
嬉々とした顔でそれを開けて、さっと中から何かを取り出す。その動作はとても速いもので、私の目では取り出されたそれが何か、全くわからなかった。
しかしルーモンには見えていたらしい。その淡々とした顔に驚愕を走らせていた。そして止めようとしたのか、彼はオーテリスに手を伸ばす。とは言え、それは遅きに失していた。
「はーい、ちくりとしますよー」
オーテリスの言葉が耳に届いた途端、確かにちくりと脳に刺激が走った。
そして、
『──────────』
耳鳴りが起きた。キーンと甲高い音が鼓膜を震わせる感覚が沸き、体のどこかがじくじくと疼き始める感触が迫り上がる。
刺激。刺激。
頭を刺すのは針か。いや、そもそも刺されているのは頭なのか。
否応無しに局部的な点滅と全体的な明滅を繰り返す視界に、救いを求めて理由を探す。
何かがある気がして、砂嵐が巻き起こる世界を手探りで探求する気分を味わいながらも求める。
そして、見つけた。
腕に、赤黒いものが刺さっていた。
「──────────」
叫んだ。
限界まで甲高く響いたその音を聞いて、理解する。
耳鳴りだと思っていたのは私の声だった。初めから今まで、私は言葉にならない音のみの叫び声をあげ続けていたのだ。
悲鳴をあげる頭の傍、そんなことを考える余裕があった。そしてそのやけに大きい余裕に対しどうしようもない恐怖感が湧いて、叫び声に磨きがかかる。
なぜか段々はっきりとした輪郭を描きつつある視界を拒絶しようとして叫ぶ。
なぜか赤黒いものがなんであるのかを強制的に理解しようとしている脳を拒否して叫びを続ける。
なぜか、刺激が走るばかりで『痛み』を感じない我が身の不自然さに、気づかないふりをしようとひたすらに叫んだ。
痛くない。
痛いはず。
痛くなければならない。
不自然にすぎる願いを擬いた胸の、その奥底から慟哭が迸って、散っていく。
視界が霞む。目が熱い。目頭が熱い。まるでそこから熱湯でも湧き出しているかのようだ。とてもあつくて、くるしい。
首が脱力して、勝手に傾いていく。
視界が転じて、別の世界が映った──
ああ、悪魔だ。
彼らは笑っていた。
笑っている。
笑っていたのだ。
悪魔だ。彼らは悪魔だ。そうに違いない、いやそうだ。悪魔に囲まれているなんて、ここはなんなのだろう。現実味が全くないではないか。
ああそうか。痛みもないのなら、これは夢か。夢なのだ。
ああ。それにしても、こう悪魔に囲まれて叫び続ける夢なんて、これは、何と言えばいいのか。
──そうだ。違いない。
これは確かな────
悪夢だ。