遊びの始まり
「私はネアと言います。さっきは失礼なことをしてしまって……ごめんなさい」
眼鏡の少女は謝罪の言葉を口にすると共に、深々と頭を下げた。先の取り乱しようから一転、とても落ち着いていて、柔らかな物腰と言える仕草である。
低頭の拍子に、後ろで束ねられた彼女の黒髪がさらりと垂れるのを目に入れながら、私は乾いた声を吐き出した。
「……いえ、私は大丈夫です。なので謝らないでください、ネアさん」
「そうですか? はぁ、ならいいのですが……」
顔を上げ、困ったような目で私の顔を見るネア。そこにはこちらを案じる心配の情のみが込められているように見えるが……
とても、信じられるものではなかった。
理由は簡単である。
囁き声だ。
未だ、彼女の囁き声が頭の中で響いてやまないのだ。ぐるぐる、ぐるぐると、しつこく回り続けて離れる気配を全く見せてこない。
「……あの、さっき──」
「も、もしかしてやっぱりお怪我を!?」
先の落ち着いた態度はどこへやら、再びネアは慌て始める。私が言い終える前だというのに、ぱっと遮ってしまったほどである。よほどの慌てようだ。
その様子は、やはり心配しているだけなのだとしか思えなかった。だとするとあの声は空耳か何かで、私の勘違いでしかなかったのだろうか。
杞憂だったかと苦笑する。そして彼女の勘違いを正そうとして、
──彼女の瞳に宿る光に気づいてしまった。
異様だった。
心配そうに寄せられた眉の下、そこにある瞳も確かに私を心配していることを示唆しているというのに。
その中には、時折煌めいて主張をする、よくわからない光があるのだ。
「その──」
「や、やっぱりお怪我があったんですね!?」
私の言葉はネアによってもう一度遮られた。これも先程のものと同じ、心配するあまりの早とちりによる行為としか見えない。
不気味な光さえ、瞳の奥でちらつかなければ。
淡々と私を捉えては消え、捉えては消えるその光は、つまり──
「……いえ、怪我はありません。大丈夫です」
ネアから目を逸らした私は出かかっていた言葉をのみ込み、ただなんでもないのだとだけ告げた。
「そ、そうですか!? はぁ、よかったぁ」
目を閉じ、胸に手を当て、心底から安堵したようにため息を吐く、ネアの姿が視界の端に写る。直視しなくとも一瞬でわかるくらいに、その姿は穏やかな雰囲気を漂わせていた。
本当に穏やかで、和やかな態度である。
故に私は拳を握りしめて、震え出しそうな体を抑えなければならなくなっていた。
ぎゅうっと丸め込まれた手に、若干長めの爪が少しだけ食い込む。少しの痛みが走るが、体の震えは止まりそうにない。
怖い。ひたすらに、怖い。
あの光は警告だ。
何についてかはすぐにわかった。
囁き声だ。あの囁き声について尋ねようとした私を咎める、警告の信号であったのだ。
そして、警告を聞き入れずに追求をやめなければ、──殺される。
何故か、そう確信するだけの何かが私の中にあった。具体的にはわからないが、どうしてか私の精神はごりごりと擦り減り続けていくのだ。
ただの被害妄想だと言って、それこそ杞憂だとして笑い飛ばせる余裕なんてものは、消えた。
噛み締めた唇からは、鉄の香りがした。
「おいアレンよ、なんだその変顔は。なはは、おもしれぇ。気分でも優れねぇってんじゃあねえだろうなぁ?」
「いえ……」
「そうかぁ? これから遊ぶって時にそんな状態だってのも、面白くないわけではないがな。やるなら楽しめ! そうした方がより面白いと思うぜ。ま、俺はどちらでもいいんだけどな!」
バシバシと私の背中を叩きながら、ヘラヘラと笑うトーピ。それは、私の怒りの琴線を揺らすのには最適な行為であると言えた。
しかしながら、私の中でささくれのようなイラつきが芽生えることはなく、それどころか何の感情も湧いてこなかった。
トーピは少しの間だけ背中叩きを継続していたが、すぐにやめてしまった。代わりに腕を組んで、ふむと一つ鼻を鳴らす。
私が無表情かつ無反応なのが面白くなかったのだろう。或いは違和感のありすぎる私の態度に戸惑ったのか。どちらにせよ、常に面白そうにしている印象のあったトーピにしては、珍しいのではないだろうか。
背中を叩かれたせいか、いつのまにか力んでいた拳が解け、さらには震えが止まりつつあった私の思考に、そんな感想がぼんやりと浮かんだ。
じろじろと、私を観察するかのごとく眺めていたトーピはまた鼻を鳴らした後、仕切り直すように口を開いた。
「で、だ。全員の紹介がほぼ滞りなく終了したことだし、遊ぶ内容について話したいと思うのだが……その前に、一つ言いたいことがある。お前ら、いいか?」
「うん? なになに?」
赤帽子の少年──カラという名前だったか。
彼が先陣きって元気よくトーピの問いかけに反応すると、トーピは満足したように頷いた。
「まあそう変なことじゃあないぜ。単純な話だ。いいな?」
「うん!」
はきはきとしたカラの返事が響く中、私を除いた全員がトーピに頷きを返す。トーピはにかっと笑うと私の頭を掴み、無理矢理に首肯させてきた。
かなりの強引な手つきである。
これでは、私が頷いても頷かなくてもさして大差は無いではないか。結果として受諾することは決まっているのなら、何故わざわざ問いかけたのだろうか。意味がわからない。
「とまぁ、面白い感じに憤激した顔を見せてくれているアレンは置いといて。全員が頷いてくれようなので、聞くとしようか。……なぁ、そこのお嬢さんよ?」
トーピの人差し指が、ゆるりとした動きで一点を指し示す。
そこに在るのは、一人の少女。静かな目つきがとても印象的な少女である。
指を指してニヤニヤと笑うトーピに、冷ややかな目線を投げかける彼女は……そう、四人の自己紹介が始まる前に、私が見つめていた少女だった。
「……なに?」
「ん、率直に言うぜ。お前、誰?」
「ニーナ」
「あ?」
「名前」
「……ほう。なるほどねぇ、面白い」
ふむふむ、と何に納得しているのかは計り知れないが、頷き続けるトーピ。全員がその様子を見守る中、彼はいきなりパチリと指を鳴らした。
「じゃあ、気を取り直して、と。どういった遊びをするのか、説明をするぜ」
トーピの言葉を聞いて、程度の差はあれど、私を含めない全員が驚いたような顔をした。私にはわからなかったが、トーピが何か変なことを言ったのだろう。やはりこいつは気持ちの悪い奴なのだ。
そんな中で、誰かの手が上がった。少しだけ変になった空気を裂くかのような、大振りの挙動である。
動作の主は、カラだった。
「──おっと、カラ。そんなにも綺麗に手を挙げて、何か言いたいことでも?」
「うん! ニーナのことはどうするの?」
「どうするって、一緒に遊ぶんじゃないのか? そうだろう、ニーナよ?」
「うん」
さも当然のように宣ったトーピに、こちらも当然のように肯定するニーナ。その後、どちらも誇らしげで自慢げな表情を顔に浮かべ、カラを瞥見した。
それは向けられていなくとも、見ただけで思わずイラついてしまうような顔である。
しかしカラはそれを見ると、安堵したような顔で相好を崩した。
「へー。良かった! 僕、ニーナとは一緒に遊べないのかと思ったよ!」
「いやいやいや、そんなことしたらそう面白くはならねえってもんだぜ。俺は仲間外れはあまり好まねえからな。そんなことはありえねえよ」
カラが輝くように明るく笑ったのを見て、口の端をにぃっとつり上げたトーピは、次にこほんと咳払いをした。
「さて、もう一度気を取り直してだ。遊びの内容についてだが……俺はかくれんぼを提案する。異論はあるか?」
「はいはい! おいかけっこじゃダメなの?」
「ダメだろう。昨日愚痴を言われたのを覚えてねえのか? その案は却下だ」
「はーい」
苦い顔のトーピに否定されたカラは、明るさを崩さないまま返事をした。
何故否定されたのに笑っていられるのだろうか。憤慨とまではいかなくとも、多少の不満はあるだろうに。……なぜ?
私の中で疑問が浮上していると、クライアンがまたもや青帽子を弄りながらの挙手をした。
「ど、どうして……かくれんぼなの……?」
「ふむ。よくぞ聞いてくれた、クラよ」
満面の笑みを浮かべ、ゆっくりと聞き入らせるような声音で返すトーピ。その自信満々かつ何かを期待させるような雰囲気にのまれたのか、クライアンは神妙な顔で唾を飲み込んでいた。
「俺らが今乗っているこの船は、大きい。そして巨大な船なだけはあって、その内部はとても広いものとなっている。──なら、これを活用しない手はないだろう?」
「か、活用?」
「そう。この広さは遊びに活用すべき、いや、しなくてはならない。だからこそ俺は提案したわけだ、かくれんぼって遊びをな」
「な、なるほど……?」
自身に満ち溢れたトーピの言葉に、クライアンは微妙な反応を返していた。納得したような、納得していないような。そんな顔をしている。
それも当たり前だろう。トーピの言うことには足りない部分が多くあるように思える。おかしなことを言っているように感じるのだ。
そも、かくれんぼが何かを知らない私が言うのもおかしいのかもしれないが。
「かくれんぼかぁ。面白そうだけど、広いと探す人が大変になっちゃうと思うな」
やんわりと、少しだけ困ったように微笑みながらのソラの言葉である。
トーピはそれを聞くと、強い肯定を示すように深く頷いた。
「ああそうだ。だからいくつかのルールを追加しよう」
「ルールって、どんな?」
「まず、探す側は二人とする。そして探す際、その二人は何をしてもいい。人に聞くのもありだぜ。見つけるための行為であれば、どんなことでも許容される。ま、よほどぶっ飛んだことでなければだけどな」
「ふぅん……」
「で、次だ。いくら何をしてもいいとは言っても、この船全域を使うのであれば相当な手間がかかるだろう。しかし、俺はこの広さと言う長所は潰したくはない。そこで、時間制限をつくろうと思う」
「時間制限……」
「ああ。具体的な時間は、上手く楽しめることを考慮すると三十分から四十分程度がいいと思うんだが……どうだ?」
こちらの顔を伺いつつの、同意の請求。互いの顔を見合わせた四人は、それぞれ同時にトーピに向かって頷いてみせた。
無論というかなんというか、話に意識を向けていない様子のままぼけっとつっ立っていたニーナと、話についていけずにいた私は、その中には含まれていない。
「ソラ、カラ、クラ、ネアの四人は良いとして、そこの二人は何か意見があるってわけかね?」
「かくれんぼとはどういったものなのですか。前提としてそれについての詳しい説明がないと、話についていけません」
「アレンよ。中々に興味深く、かつ面白さに溢れた意見、どうもありがとう」
……やはりこいつは私をなめているに違いない。明らかに今は感謝をする場面ではなかったはずだ。やはり頭がおかしいのだろう、気持ち悪い。
そう思い、精一杯の辟易とした眼差しを作ってトーピに向けるも、ヘラヘラと笑われるだけであった。
……ああ、まったく、本当にイラつかせてくれる!
「で、ニーナはどうだ?」
「どうでもいいから、早く遊びたい」
「ん、じゃあ俺の案で遊ぶってことで問題ないか?」
「うん」
「よしよし、じゃあ始めるとするか!」
トーピが軽く手を叩き、拍手をした。つられた四人の拍手の音もまた、まばらに鳴りはじめる。
私にはなんの説明もないまま、正体不明の遊戯が開始されることとなったようだ。
まったくもって心外である。
「ああ、最初の一回は試運転なので、そのつもりで。それと、アレンに説明をしたいので、今回は俺とアレンが探す側になるぜ。改善点があったら言ってくれ。次回から反映する。じゃあ、六十秒数えたら探すから、そのうちに隠れとけ! 時間制限は四十分、あぁ走るなよ、そら行け!」
一気にそうまくし立てると、トーピは軽く手を叩いた。乾いた高音がぱぁんと鳴ると同時に、私とトーピを除いた五人が散っていく。
トーピの走るなという言いつけを守り、そわそわとした早歩きで移動していく彼らを見送りながら、私は口を開いた。
「……説明、してくれるんですね」
「当たり前だ。言ったろ、仲間外れは面白味に欠けるんだよ。ま、場合によるけどな」
「そうですか」
「ああ、それとお前、あえて言わないでおいたんだが……結構前から敬語になってるぜ」
「言われなくても知っています。余計なお世話です。それに、別にどうでもいいことならわざわざ言う必要はないでしょう。極めて不愉快です」
トーピは「はは、おもしれぇ受け答えだ」と呟くと軽快に笑い、すたすたと歩き始めた。
「ついてきな。アレンくんのお待ちしていた『裏』のお話の始まりといこうじゃあないか」
◇◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇◆
「そういえば、六十秒数える前に移動してしまいましたが、大丈夫なんですか? 嘘はつかないんでしょう?」
「あぁ? 大丈夫だ、嘘なんてついてねぇよ。六十秒数えたら探すっていっただけで、その間移動はしない、なんてことは言ってねえからなぁ」
「……そうですか」
不快な笑みを浮かべたトーピの不快な発言に、ため息を落とした私であった。
相変わらず地味にうるさい廊下を歩いて、少しの時間が経過した。その間、何気なく五人の姿を見える範囲で探してみたものの、影すら見当たらない。とても広いと言っていたので、既にどこか遠くに移動してしまったのだろう。
白に囲まれた赤色の道は、縦であったり横であったり、くねくねと方向が入り混じる。
迷路のようで案外に趣深く感じるが、喧騒が大なり小なり耳に入ってきてしまうため、私の評価を格段に落としていると言っていいだろう。今は比較的静かではあるが……凄いところはとことん凄い。
特に途中、壁の片側がガラス張りとなった場所を通った時は酷かった。
その廊下の少し先には下の大きなホールに行ける広めの階段があるのだが、そこから漏れ出してくる音の騒々しさといえば……凄まじい破壊力であった。確かに、そこには売店や休憩所、付近には映画館があるなど、寛いで騒ぐにはふさわしい場所と言えるだろう。
しかし、である。
それにしたって、一瞬にして最悪と言えるほどの頭痛が到来する喧騒など、度をこしているではないか。
ガラスを通して無理矢理目に入り込んでくる観光客の皆様の笑顔も、追い討ちのように頭痛を強めてくれた。ベンチ型の椅子に座った者達の落ち着いた笑顔、売店で品物を見定めながらの嬉しそうな笑顔、歩きながらのうきうきとした笑顔、テーブルを囲んで椅子に座った者達の暖かな笑顔。
一瞥のみで、吐きそうになった。
こうして静かな環境に身を浸しているのが嘘のように思えてしまう。
「──ところで、お前に聞きたい……というより、言いたいことが一つあったんだが、いいか?」
「え、ええ。なんでしょうか」
私が、記憶の中のある種惨憺と言える光景をありありと思い出してしまい、吐き気に襲われている途中であった。
トーピの問いかける声は、先程発したものよりも、何故だか硬くなっているようだった。戸惑いながらもそれに返すと、トーピは続けてこんなことを告げた。
「アレン。お前、揺れすぎじゃないか?」
何が、と聞こうとして、声が出なくなっていることに気づいた。訳もなく体が強張って上手く歩けなくなり、足がもつれて転びそうになる。それから意味もなく心臓が跳ね上がると、呼吸が荒くなった。
何故だかわからない。全てに理由がないと知っているのに、全ては当然のことだと体が理解しているという、ちぐはぐさが私を満たしていく。
圧迫された思考が、圧迫されたまま答えを導き出すことを拒み、負荷が進んで頭が軋んで痛みを訴え始めた。
わからない、わからない。
イタイけども、わからない──
「悪い。今のは忘れろ。それと、もう着いたぜ、ここだ」
「……こ、こ……?」
「あぁ。ここで話すことに決めた。というより、ここ以外に上手く伝えられるところはないと断言できる」
立ち止まった私とトーピが見詰めるものは、扉である。木製の板に、木製の取手。光沢を発しているその普通でしかない扉の前に、私達は立っていた。
「ここで誰かに見つかると、結構まずいんだ。いくつか手は打ってあるから大丈夫だとは思う。思うが、念には念を入れた方が良い。だから、落ち着くのは中に入ってからだ、いいな」
トーピの早口な小声をなんとか耳が拾ってれたため、頷いてみせる。かすかな動きでしかなかったが、きちんと受け取ってもらえたようで、トーピは私の背中を軽く叩くと、すぐに扉を開いた。
静かに、手早く開かれた扉の先は、闇であった。視界に入り込んだ暗い空間に、少なくない恐怖を覚え、尻込みした私は後ずさろうとする。
しかしトーピに背中を強く押されたため、転げるように前に進んでしまった。
なんとか転ばないように足を前に出し、暗闇の中に潜り込む。私の体が空間にのまれたのを見届けたからか、トーピはするりと音を立てずに入り込み、音を立てずに扉を閉めた。
静かな暗闇が、世界を満たす。私の好きなものであったはずの閑けさがそこら中に満ちているというのに、何故だか気分は憂いたままだ。
「話をする前に、これは見せなければならないと思った。そうでないと、始まらないからなぁ」
トーピの囁きが、耳朶を柔らかく揺らした後、暗闇に溶けていく。
はじめ理解できなかったその言葉も、次には嫌が応もなしに理解させられていた。
「──だれかいるのかい?」
暗闇の中、妖しく輝く二つの光。
それは、誰かの目だった。