運命的な、邪魔者との邂逅
それを聞いて最初に感じたのは、全身を埋め尽くすほど、という言葉を付加できるほどには強大な、──怒りであった。
静かな世界。
誰もいない、誰も関与できない世界。
誰にも邪魔されない、私の世界。
自分の、自分だけのものだった。自分のためだけに作られた世界で、ただ過ぎ去るだけの時間だったというのに、それを盛大とは言えなくともぶち壊されてしまったのだ。
当たり前のことだった。
「邪魔しないで下さい」
だから何も考えずに、自分の心情をそのまま告げてやった。飽くまでも簡潔に、簡素に、下手な装飾などは含めずに。相手の理解力のほどがどうであれ、こちらの意図を明確に察知できるような語調で伝えてやったのだ。
だというのに、
「おぉ、怖いねぇ。そんなに敵意込めなくてもいいじゃねえか。仲良く、仲良く。平和が一番。⋯⋯なぁ、そうは思わないかい?」
後ろの誰かは全く調子を崩さずに、そのようなことを宣ってきた。
──理解ができていないのだろうか。
一瞬だけそんな考えが過る。が、それはすぐに否と断じて捨て去った。
相手の言い方をよく思い出してみると、最初の一声とは語気がどこか違っている気がするのだ。
崩れている、というのとはやはり異なっている。然し、かと言って変化がないという訳ではない。
強いてこの違和感を表現するならば──
「随分と、楽しそうな口振りですね」
そう、楽しそうな、と言うのが最もしっくりくる表現だった。今、後ろを振り向けば、恐らくはニヤニヤと笑みを浮かべたヒトが目に入るだろう。後ろの誰かさんは、多大なる余裕を孕んだ表情で笑んでいるはずだ。
「いや、なぁ? そりゃそうだろ。今夜はただでさえ綺麗な月が、こんなにも一段と綺麗に輝いているんだ。さらにそれに加えて、嬢ちゃんという人とも出会うことができたんだからよ。気分も高まっちまうってもんさ」
「確かに、あの満月は綺麗ですね。⋯⋯ええ、とても綺麗です。私にとっても、それなりの気分転換になりましたので、そこは同意します。⋯⋯ですが、なぜ、貴方の興奮を喚起した事柄の中に、私と出会えたことが含まれるのですか? 全く以って理解に及ぶことができません」
「おいおい、興奮って言われると少し語弊がある気がするなぁ。気分が高まるって言ったのによぉ」
未だ冷めやらぬ怒りを、そのままぶつけるような口調で後ろのヒトに告げるも、肩をすかしたように受け流される。
未だに余裕のある調子で声を出している相手。その様子にイラついた感情を容赦なく心中で浮かべていると、相手は言葉を続けてきた。
「まあ、近いと言えば近いんだが。だけども、少しばかり違うんだよ。高揚感、或いは⋯⋯何だろうな? じゃあ、あれだな、ただ『興奮』って言うんじゃなくてだな⋯⋯。うーん、そうだなぁ⋯⋯」
「煮え切らないですね。思考を上手く纏められないなら、無理に言葉にする必要なんてないですよ。どうせどう表現しても無意味なだけですから」
ああ、本当に煮え切らなくて、煩いな。
もう十分だろう、いい加減口を噤んでさっさとどこかに行ってしまえ。
段々と、怒りで短絡的な行動に踏み入りそうになってきているのをギリギリで抑えながら、見えない相手を見ないままで睨みつける。
「中々に良い毒吐くね、嬢ちゃん。まあ、そうだな。確かにその言い分は的を得ているんで、──うん。こんな風に言うとしようか」
後ろから殺気によく似たものを飛ばしているのに、気づいていないのか、それとも敢えて無視しているのか。
なんて事のない調子で結論を告げようとするその様子にやはり苛立ってしまい、声を荒げようとしたところで、
「──とっても面白そうだから、滅茶苦茶興味深い」
そんなことを言われた。
「何を言うかと思えば、そんなことですか」
思わず、鼻で笑ってしまった。苛立ちが一瞬引っ込んでしまうほどには、滑稽さを感じてしまった。
だって──
「中身は全然変わっていないじゃないですか。そんなものは、ただ、言い方を少し変えただけ。それが孕む意味が変わらないのであれば、語弊なんて無かった、としか捉えられませんよ」
「おう、そうか。──ところで、嬢ちゃんはいくつなんだ?」
「ぇ、私は──っ、ぃえ、話を逸らそうとしないで下さいよ。それに、逸らしたかったのならもっとましな方法があったのでは? 今のは雑過ぎて気持ち悪いくらいでしたよ?」
「その割には答えかけてなかったか?」
「いえ、そんなことはありませんでした。──ええ、決して。もし聞いたなんて戯言が言えるのでしたら、あなたのお耳は手の施しようがない程に腐っているのでしょう、と。そう思いますが。何か問題でも?」
「あぁ。いやぁ、やっぱ面白ぇよ、嬢ちゃんは。こいつはこれからももっと楽しめそうだ!」
ケラケラと、乾いた笑声が潮風に乗って、私の耳に届いてくる。
それはあまり大きな音ではなく、大した特徴もないのに、何故か耳の奥に強く残った。
「──楽しめそう?」
ポツリと、特に耳朶に引っかかった言葉を呟く。あまり考えることなく、無意識に発したものだった。返事などの反応は期待していない、いや、期待する必要のないただの独り言である。
だから小さな声で発したはずなのに、後ろの誰かの聴覚はとても優れていたようで。
こんなことを、叫んできた。
「ああ、そうだ! もう、これから先を想像するだけでかつてない程に興が乗ってくるんだからな。実際にこの俺の妄想したこと全てが、或いはそれ以上のやばいもんが展開されたとしたら。──一観客として、すっげえ楽しめそうじゃねえか!」
返事が耳に届いた瞬間、少しだけ、嫌な予感が背筋を駆け抜けていった。
『これから先』
『やばいもんが展開』
『一観客として』
わからない。⋯⋯わかりたくない。でも。──この三つの言葉は、なに?
「──ぉ。黙り込んだってことは、もしかしてわかっちまったか? ⋯⋯わかっちまったんだな? そうとなればそうだな、若干早すぎる気がしないでもないが、よし! 答え合わせの時間といこうじゃあないか!」
背面の僅かばかり離れた位置にて、元気と明るさで溢れきった声が流れ、無理やり蓋をこじ開けるように耳の中に入り込んできた。
囁くように風が吹いている。
風に揺れた服が私の肌を柔く擦る感覚は、まるで夢の中のもののように現実味がない。
私の意識はここに在る筈なのに、ここには無いように感じる。
ふわふわとした感覚に包まれて、何もかもが現実ではないのだと錯覚してしまう、この感触は。
──緊張という呼称のものが発する特徴に、よく似ていた。
「さて、答えだ」
低い声だった。
先までの興奮が突如鳴りを潜めて、落ち着いた様子へと変調された声。
正に、全てにおける判決が下される一時。裁判の最終局面を思わせる、冷徹で厳粛な響きの声。
後方で、口を開き、空気を薄く吸い込む音がする。極限まで研ぎ澄まされた精神が、唾液が奏でる粘着質な音の発生を察知した。⋯⋯そんな気がした。
そして。
「俺は今夜、特別に警備を担当することになった、──しがない《研究員》の一人だ。⋯⋯どうだ? 嬢ちゃんの出した答えは、ちゃんと正解してたかなぁ?」
予想以上の最悪の状況を、完璧に理解させてくれた後ろのヒトに対して。
私は、ただ、全身を硬直させることで返すことしかできなかった。
◇◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇◆
汗が背中を伝い、地に向かって流れ落ちたのが、薄めの服の上を撫でていく潮風の冷たさでわかった。冷えていく感覚が全身に染み込んでいく中、胸の奥は少量の熱とともに大きな音を発している。ドクンドクンと体を打ち付けるこの音は、動悸だ。心臓が、徐々に、徐々にと、その動きを激しくしているのだ。
さらに肝心も肝心、今この場で最も働いてもらわなくてはならないはずの脳は、急な緊張で動かなくなってしまったらしい。
とっさの言い訳すらも、浮かんでくる気配がなかった。
体の全ては凝ってしまったかのように動かず、先程までの姿勢を維持したまま固まり続けることしか、私には出来なかった。
後ろの声は、確かに自身のことをこう言った。
《研究員》だ、と。
もし、声の主が明言した通りの《研究員》だったとしたら、終わりだ。弁明のしようがない。何故なら──
「おいおい、どうした? 急に黙り込んじまって。もしかして、正解してなかったのか?」
「⋯⋯いえ。何でも、ありません⋯⋯」
急に飛んできた軽口に体がこわばり、一瞬パニックに陥りかけるも、なんとか咄嗟に声を返す。限界まで喉を絞って出したため、かなり掠れた声であった。それがツボに入ったのか、相手はくつくつと嫌な笑いを漏らし始める。⋯⋯非常に不快だ。
「くくっ、急に威勢が悪くなったなぁ、お嬢ちゃんよぉ。もう毒々としたお言葉は吐かねえのかい? お得意のように見えたんだがなぁ。何というか、まるで後ろ姿が小さくなっちまったようだぜ。俺の気の所為かねぇ?」
わざと抑揚を強くして発された声は、凄まじいほどに心をかき乱していく。最早吐き気すら催すほどの不愉快さだ。
私は、こんなにも感情を制御することのできない未熟者だっただろうか。今更湧き出た疑問に、頭の中がやり切れなさで満ちる。
しかし、何にせよ今は反省している場合ではない。冷静にならなければ。
「⋯⋯ええ。あなたの気の所為です。それ以外に、何があり得ますか」
「なるほどなるほど。俺の気の所為で確定ってわけだ。まあ、いいんじゃないかな。それはそれで面白い!」
冷静に、冷静に。心を深く落ち着かせて。
息を大きく吸い、大きく吐いた。
豊かな潮の香りが、鼻腔の奥まで浸透していくのがわかる。一定のリズムで鳴る波の音もまた、心地よい響きを耳に届けてくれている。最初のしじまを想起させるそれらの感覚は、騒ついていた胸の奥を嘘のように静まり返らせるだけの効果をもたらしてくれた。
もう大丈夫。さぁ、覚悟を決めよう。しくじることは許されない。母さんを悲しませるようなことは避けると誓ったのだから。その決意だけは、絶対に無駄にはできない。
本気で頑張らなくてはならないのは、ここからだ。
「私の聞き間違いでなければですが⋯⋯先程、あなたは《研究者》と名乗りましたね。違いますか?」
「ぁ? 何だ、えらく声に張りが出てんなぁ。なになに、いいことでもあったのか?」
「茶化さないで、答えてくださいよ。合ってるのですか。それとも違うのですか?」
「⋯⋯ふむ。まあ、いいかな。そうだな、間違っちゃいねえなぁ。ま、そこにしがないって言葉を付け足すのは、忘れてくれるなよ」
どうやら、聞き間違いという線はないと見て良いようだ。もしかしたらと思ったが、そう美味い話は中々ない。嘘をつかれている可能性も無いわけではないが、そこは頭の隅に置いておく程度でいいだろう。
「そうですか。⋯⋯失礼ですが、その《研究員》というのは、一体どういったものなのでしょうか。ほら、《研究員》と言っても、色々あるでしょう? その辺りがどうしても推察しきれませんので⋯⋯」
「ふーん。ふむふむ。そういうことかぁ、なるほどねぇ。えぇと⋯⋯嬢ちゃんよぉ、本当に《研究員》って言うだけじゃわからねえの? そんなに臭そうな雰囲気出してんのにねぇ」
「はい、すみません。それでその、《研究員》というものについて、教えて欲しいのですが⋯⋯」
「ふーむぅ」
相手の如何にも思案中だと言わんばかりの声を耳に入れつつ、私は次の一手のために、高速で頭を回転させていた。
このまま誤魔化しの一辺倒だけでは何とかなると思えないが、しかし他に良い案があるわけでもない。ここまでを振り返ると、相手の反応の感触は、悪いようには思えなかった。少しおかしく感じる部分はあるが、それ以前の会話で見てとれた異常性から鑑みるに、そこらは別段考慮せずとも問題はないはずである。
ならばここは方向転換せず、力技で押していくほうがいいはず──
「ぷっ。くふ、くふふ、あはははは!」
唐突な笑い声。
異常者という印を体中に捺してやりたくなるほどの唐突さで満ち溢れた笑い声である。波音に揉まれながらも、何故かよく通るその声は先と同様すんなりと耳に届き、鼓膜をちょいちょいとくすぐった。
そして、私が苦労して作り上げた感情の檻をいとも容易くへし折って、まず手始めにと、大量の不快感を心に浮上させてくれた。
「な⋯⋯何がおかしいのですか。今すぐやめてください。とてつもなく不快です」
「いやいやいやぁ、だってさぁ。嬢ちゃん、嘘つくの下手すぎるだろ。笑わない方がおかしいほどだぜ?」
「⋯⋯え?」
一瞬だけ、頭が真っ白に染まった。虚に包まれた挙句空白に支配されて、そこからなんとか回帰した思考が、一つの言葉を導き出す。
──バレていた。
思わず、唾を飲んでしまった。ごくりと音が鳴って、飲み難い固唾が喉を通り過ぎていく。
まずい。これは非常にまずい。画策していた誤魔化し通すという作戦が、簡単に見透かされていた。ということはつまり、私は自ら喜び勇んで墓穴を掘ってしまったというわけか。
⋯⋯いや、まだだ。
「ぇと、あの。何を仰っているのですか⋯⋯?」
諦めてはいけない。諦めてしまえば、それこそ終わりとなってしまう。まだ誤魔化しが通じないと決まったわけではない。それに、まだ顔は見られていないのだ。もし言いくるめることが出来なかったとしても、何とか隙を見つけてうまく逃げることができれば大丈夫。
誓いは、無駄にはできない──
「いやいやいやいや。もう嘘ついても意味ないよ? 誤魔化しは効きませんってな。まぁ、嬢ちゃんの言い訳とかは聞いてみたい気もするんだけどよぉ。面白そうだからな。でもねぇ──」
「いえ、本当に何も知りません! 信じてください、私はほんとうに何も知らないんです!」
「⋯⋯まずね、その口調なんだよ」
私の出した大声に、相手は深くため息を吐き出した後、勿体ぶった口振りで話し始めた。
「最初の時と比べて、口調に粗さがある。俺が『ネタばらし』をしてから、声の調子に間の取り方に言葉の具合に……ぜーんぶに『不自然』が見え隠れしてる。俺のネタの『意味』を正しく理解してるからこその変調ぶりだと、そう思うんだかねぇ。どうかな?」
「そんな、『意味』なんて⋯⋯わかりませんよ。あなたが何を言っているのか、私には⋯⋯」
出した声は、我ながら情けなく思えるほど震えてしまっていた。ここまで違和感のある声音ならば、たとえ気づいていなくとも、容易に察することができてしまうだろう。
ふつふつと湧き出る寒気に、全身は硬直させられるがままになった。
「んで、次だ」
私の言葉など無かったかのように、相手は話を続けようとする。まるで問答無用で死刑宣告を投げつけるかのような非常さに、私の心は脆くもぼろぼろと崩れ始めていた。
「まあ、これが俺にとっては極め付けだと思えるんだがな。なぁ、嬢ちゃん。⋯⋯どうして、今になってもこっちを見ない?」
「⋯⋯⋯⋯」
「頑なに背を向け続けるのは何故だ?」
「⋯⋯⋯⋯」
「顔を見せたくないからだろう。顔を見られたらまずいもんなぁ。──こっからうまく逃げた後とか、ねぇ?」
黙秘を決め込む私に、相手は無慈悲にも答えを突き付ける。
「黙り込むってことは肯定だな。いやぁ、凄えなぁ。この状況で逃げられると思ってたのかぁ、嬢ちゃんは。俺がこの甲板からの出口をきちんと塞いであげていたというのになぁ。いや素晴らしい。拍手を送ろう!」
ぱち、ぱち、ぱち。
乾いた音が、甲板の上で鳴り続ける。いつもの調子であったのなら鬱陶しいと叫ぶのだが、そんな余裕はとうに失せていた。今の心中を満たすは、情けなさとやる瀬なさに、諦念という三種の負の感情のみ。
「他にも考慮すべき点は多数あるんだが⋯⋯まあ、こんなところでいいだろ。その様子じゃあ、この状況を正しく再確認できたようだからなぁ、あっはっは」
満足気な笑いを私の耳にねじり込んできた後、相手はこほんと咳払いをした。
「では、嬢ちゃんは《研究員》及びそれに関連する『事情』を知っている、ということを前提として、だ。嬢ちゃんのこれからの行く末を定めてやる。この俺が直々にやってやるんだからなぁ。光栄に思えよぉ?」
そしてまた、咳払いを一つ。
そこから先は、無言だった。
咳払いなんてものを発した癖に、何か言うかと思えば何も言わず、ただ重苦しい無言の時間が流れていく。私の緊張と、相手の突発的な意味不明さで、淀んだ空気が生産されているようだった。無言の時間がどれだけの長さかと言えば、停滞していた私の頭に、ある程度自由に思考するだけの余裕を作らせてしまうほどであった。
ここに至るまでに多く垂れた汗のせいか、潮風が寒風の如き冷気を私に運び込んでいる。そのせいか、体が小刻みに震えていた。眼球をのろのろと動かして手のあたりを見れば、一目瞭然と言わんばかりの震え具合が伺えた。
寒い。とても寒い。
なぜ無言のままなのか。私が覚悟を決めるのを待っているのだろうか。もしそうなら、思い切り叫びたい気分だった。余計なお世話だ、と。もういい加減に、楽にしてほしかった。
私は、これからどうなるのだろうか。《研究員》について多少の事は知っているものの、奴等が与える《罰》の内容までは知り得ていない。何をされるのだろうか。殺される? 拷問される? それとも、それ以上の何かを⋯⋯?
私の脳裏が嫌なもので一杯になっていく中。
ついに、裁決が下された。
「────俺と友達になってくれ!」
告げられるは、予想の遥か斜め上を通り過ぎた《罰》。
さらにそれを発した声の「驚天動地な変調ぶり」に心底驚き、後ろを振り返ってしまった私は、
「────ぇ?」
降り落ちる月光の下に晒される、にかりと悪戯な笑みを浮かべた「少年」に、間抜けな声を上げることしかできなかった。