四
夏季休暇四日目、私は父親の実家に行く予定だった。父の実家は南郷というところにある。十数年前は南郷は村であったが、やがて八戸に編入し、今ではその地域を表して言う。私は物心つかないころから、正月やお盆のたびに父の実家に連れて行かれたが、この実家以外に南郷で知っている場所は皆無である。交通の便が悪い、というよりも行き方すらほとんど知らない。だいたい父親の車に揺られて一時間もしないでつく程度のところにあるということしか私は知らないのである。
この日、父の実家へ行くのは私と父だけであった。母は仕事で、弟のアルバイトは休みだったが、家に居たがったらしい。私と父はそれぞれ煙草を吸いながら、車に揺られた。
人家が少なくなっていき、牧場や畑の看板をいくつか過ぎると、それまで木々に覆われていた視界は急に大きく開ける。相変わらず霧雨は降っているものの、雲の切れ目に時折青空が見え、高い丘が視界の奥までずっと続いて、空と丘の境界線を、深い緑の森が区切っていた。私はこの風景がずっと前から好きだった。あまりに田舎過ぎて、私にとっても日常からはかけ離れている。携帯電話の電波も十分には届かないので、私は予め電源を切っていた。この広大な谷の中に、まるで一人ぼっちのような気分になって、止まるか進むかしている厚い雲をいつまでも眺めていたくなる。
私はビールの段ボールを抱えながら、父の実家の玄関をくぐった。すでに親戚は集まりはじめていた。私はそのほとんどの人の名前を知らない。それは私が人の名前を覚えるのが苦手であるだけでなく、これまで親戚付き合いを極力避けてきたからでもある。
私は親戚というものが苦手だった。それは私の親戚に限ったことではなく、世に言う親戚というもの全般が苦手だったのである。簡単に言えば、距離感がつかみにくいからだ。馴れ馴れしくするほど会うわけでもないし、かと言って他人行儀なのも相手に悪い。それは私が親戚たちのことを知っているかどうかだけでなく、親戚たちのほうが私のことをどれだけ知っているか分からないからでもあった。去年まで私は、今後も親戚との付き合いはできるだけ避けていくつもりでいた。
だが、このとき私は親戚づきあいにできるだけ積極性を示そうとしていた。私にも理解できないような心境の変化が、私の中にあったことは否定できない。今になって思い返しても、それがなぜなのかは確信できない。ただ、未熟者とはいえ職を得たことが影響しているのは間違いない。知らず知らずのうちに、自分がすでに自立していることを自覚していて、それを誇示するかのように親戚とも対等に付き合っていこうという気概が生まれていたようにも思われる。同時に、今後私がどのような生活を送ろうとも、この親戚たちとの関係はもはや避けがたいものなのだという半ば諦めと自棄があったようにも思う。
とはいえ、それまで付き合いを絶ってきた私が、急に親戚たちのなかにもぐりこむようなこともあまりできない。私は居間のソファで、叔母の淹れてくれたコーヒーを飲みながら甲子園を見るともなしに見ていた。
わずか数時間のうちに、多くの人がこの家を訪れ、帰っていった。この日会った親戚だけで二、三十人はいるのではないか。そしてそれだけの人数がいて、私と同年代の親戚は誰一人としていない。ここで少し前の話を掘り返すが、私が親戚づきあいに積極的でなかったのは、私と近しい年代の人がいなかったことも原因としているのではないかと思う。昔から実家に来ても楽しいことなんてないので、私はいつもゲームをしたり本を読んでばかりいた。今は四、五歳になるいとこの子供たちが四人いて、私は彼らが無邪気に遊ぶ様子を見ながら、この子達は私のような思いはしないのだろうなと、かえってほほえましく思われた。彼らは庭でサッカーボールを蹴りあったり、まだ夕方だというのに花火に火をつけて遊んでいた。男の子が二人と女の子が二人である。どれがどう兄弟だったかは知らないが、いっそ四人ともがみな兄弟であるかのように似ている。私は少し離れたところで、煙草を吸ったり、あたりの風景を弟の一眼レフに収めて時間を過ごした。
日が落ちきる前に、親戚たちは墓参りの準備を始めた。墓地は歩いて数分の高台にあり、私はこの墓地から、山間に身を寄せ合うようにして立ち並んでいる家々や、夕焼けに照らされる山肌と木々を見るのが好きだった。今年は雨のせいで夕焼けを見ることはかなわなかったが。
墓参りから戻ると、すでに居間の座卓には所狭しと酒の肴と夕飯が並べられていた。もともと大人数で酒を飲むのが好きでなかったが、そのときばかりは進んで座布団に腰を降ろした。私の右隣には父親が、左隣には従姉の夫が座っていた。他にも祖母や叔母や叔父、はとこたちや、名前どころか続柄も分からない人々が同じように座卓を囲んだ。父親が帰りの運転のために酒を飲まない代わりに、私はひたすらにグラスと缶を開けた。
「なお、日本酒飲むか」と赤ら顔の叔父が胴間声で私に言う。この叔父は普段から赤ら顔だが、酒を飲むとさらに茹で上がらせたような顔になる。私の父親も同じであった。私をなおと呼ぶのも。
「日本酒よりワインのほうが好きかな」と応えると、すぐにボトルが出てきた。もはやこのときから私は、誰から酒を飲まされているのかも分からなくなっている。だがもう私には飲まざるを得なかった。それだけが今の私にできる精一杯の社交だと思った。ときどき酔い覚ましに外へ出て煙草を吸い、また家に入って酒を飲んだ。従姉の子供たちが隣の和室で相撲をとっているのが見えた。赤ら顔の叔父が行司を務めている。
いつのまにか私の向かいに座っているのは、今まで見たこともない親戚になっていて、よくわからない仕事の話をしている。私の親戚には同業者が多かった。大抵は車を修理したり、工場で鉄を溶かしていたり、建築材を扱っていたりする。その中で私の得た職は親戚の中でも他に同業者がいない。横文字が欠かせない私の職業を彼らに説明しても、いまいち分かってもらえないことに、私はひたすらにもどかしくなった。まるで私だけ、まだ遊んでいるように見られているのではないかとも思われた。違う、私は働いている! あんたたちと同じなんだ! そう叫びたいほど、私は私のことを話したかった。だがそうしたくても、重くなり始めた瞼に思考は沈着していった。人々の声や、酒のむせ返るような匂いや、私自身のことが頭の中で混濁し、滞積していった。鈍重になっていく思考のうちに、私はふいにひとつの考えに思い至った。
私は、私が語りうるほど自分の仕事を知らなかったのだ。
それに気づいたとたん、私はもう眠気に逆らうことをやめた。私自身のことをなんとか話す隙を探すことをやめた。ああなんて情けないことだろう。事実私は働いていない。まだ学ぶことばかりで、働いているなんて言えたものではなかった。足りない。知識と経験を、社会的な力を、私はまだほとんど手にしてさえいなかった。
だが悲しくはなかった。情けなくはあっても悲しくはなかった。
よろめく足で父親の車に乗りながら、ただ頑張ろうとだけ私は思った。
車が家を出る際に、従兄から声をかけられた。この人のことは昔からかまってもらっていたから知っている。
「また小説書きなよ」
「気が向いたらね」
私の小説など、こんなものなど、ただの遊びだ。