三
家族のことを書こう。「八戸」と銘打っておきながらここまでたいして土地や歴史について書かなかったにもかかわらず、このうえ個人的な家族のことを書くのは忍びないが、帰省のことを書くとあれば、家族は外せるものではない。今一度私自身の過去を振り返る意味でも、ここで家族、あるいは親戚のことも書こう。
三日目の午後、私は祖母の家に顔を見せに行った。祖母の家というのは実家のすぐ近くで、歩けば一分かかるかどうかといったところにある。土地だけはとにかく立派で、私はどこまでが敷地なのかいまだに知らないが、二十五メートルプールの水が優に入る池や、そこかしこに耕されたり、あるいは放置されて雑草が生えていたりする畑、徐々に頭を垂れはじめた稲穂が整然と並んだ田圃などがある。小屋と言うほど小さくもない小屋があちこちにあり、私はそのほとんどに入ったことすらない。
私は家の裏口から忍び込むように入って、
「こんちは」と呼びかけた。いつもながら、なんと声をかけていいのか判然としない。
反応がないので、私は黙って框をあがり、居間に踏み込んだ。祖母は座椅子に座ってテレビを見ていた。八戸三社大祭の映像だった。私は再び「こんちは」と言ったが、祖母は私の顔を見てさして反応も示さなかった。数年前ならば私の名前を呼びながら、帰ってきたど、とかなんとか言ったものだが、この様子だと私と弟の区別がついていないらしい。まあ歳か、と思った私に、祖母は、「誰だどう」と言った。どうやら弟どころではないらしい。「××だ。帰ってきた」と答えるしかなかった。
私は座卓を挟んで座ると、何をするでもなくぼうっとテレビを見ていた。祖母はときどき私に向かって何かを言うので、そのたびに私はあいまいな返事をする。正直なところ、私には祖母が何を言っているのかほとんどが分からないのだ。青森の方言には大別して津軽弁と南部弁があり、津軽地方で津軽弁、八戸などのあたりで南部弁が話されている(ほかにも下北弁というのもあって、青森県の北東、まさかりの形の部分にあたる地域で話されているそうだ)。津軽弁はもとより、南部弁すら私にはよくわからない。老いて滑舌に難が出てきた祖母の方言はなおさらである。聞き返しても仕方ないので、私はあいまいに返事をするばかりである。
それでも時折聞き取れる単語を拾っていくと、祖母はどうやら昔の話をしているらしい。きっと私が生まれる前の話であろう。歳をとるたびに、昔のことを口の中でもごもごと懐古するようになってきた。次第に増長するこの癖を、以前の私はなんとなく悲しく思ったりもしたものだったが、今ではもう慣れてしまった。
祖母が懐古するならばと、私も少し昔を思い出してみよう。祖母に関する記憶でもっとも古いのは、目頭が熱くなるような自分の泣き声である。小学校に入っていたかどうかという頃、私は共働きの両親が家に帰ってこないうちは、祖母の家で過ごしていることが多かった。そのころは祖母も健脚で、しきりに畑をいじったり、地域の老人仲間のところに散歩に出ることも多かった。いつかの午後、私と祖母の二人で家にいるとき、私は何かの理由で祖母に「馬鹿」と言ってしまった。祖母は、普段の祖母からは考えられない厳しい声で私を叱った。泣き虫だった私は、すぐに大声を上げて泣いて、今思い出してもなんとなく耳の先が熱くなるような感じがする。私が祖母の厳しい声を聞いたのはそれが最初で最後だった。
一台の車が庭に入ってきた。車から降りてきたのは、従姉とその子供であった。母方の従姉が、私には三人ある。いずれも昔から遊んでもらった記憶があるが、この人は一番私が厄介になった従姉である。弟と一緒に度々この人の部屋に入り込んでは、「風の谷のナウシカ」のビデオを何度も見たのを覚えている。中学校に入ったあたりから、あまり会わなくなったので、私の記憶の中ではもっと若かったはずなのだが、こうして見ると歳をとった。子供はまだ二、三歳で、母親のもとを離れようとしない。
「帰ってきたの」と訛りをつけて聞かれたので、
「うん、二日前に」と訛れない私は答えた。
久しぶりに会った親戚とはどのように話していいか分からない。下手に馴れ馴れしくしても、どうも失礼な気がするというか、そのような自分が客観的に恥ずかしいように感じてしまうので、少し距離を置いてしまう。だが、子供が持ってきた服を散らかしたり、お菓子を床に落としたりしているのを、「ああ、ああ」と笑ううちに次第に雰囲気は緩んできた。
この従姉との記憶で一番古いのは、これもまた小学校に入るかどうかの頃で、スーパーマーケットに連れて行ってもらったときのことである。私はおもちゃを買ってもらったのだが、いつのまにか私はそれを失くしてしまって、帰った後で従姉に呆れられたように「失くしたの」と言われたのを覚えている。私はそのとき、恥ずかしさよりも罪悪感のほうを強く感じた。たった数百円のおもちゃは従姉の懐にほとんどの影響は及ぼさなかったはずだが、それでも無駄に金を使わせてしまったことにひどく罪の意識を感じた。私の記憶は、全く罪と恥の記憶である。ベネディクト風に言えば、私は罪と恥の文化の子である。思い出せることには、かならず罪悪感や羞恥心が隠れている。私は思い出すたびに目頭や耳の先が熱くなる感じがする。
そのうちに叔父や叔母がやってきて、私は煮たとうもろこしを食わせてもらったりしたのだが、これは毎年のことなので書くには及ばないと判断して割愛しよう。日が暮れる前に私は家に帰った。
弟はもうアルバイトに出ていた。実際は数日振りのところを、ひさしぶりに一人になったような気がして、私はのびのびと映画を見ることができた。「ユージュアル・サスペクツ」のエンドロールのころ、両親が帰ってきた。居間のテーブルにはホットプレートとパックの肉が積まれた。当然私は嬉しいのだが、帰省してから食べてばかりのような気がして、なんとなく腹の辺りが気になった。最近は一日一食が当たり前になっていたし、急に三食になっても下手に太るだけのように思った。
それでも私は食べる。私が親と一緒に飯を食う機会など、もはやそう多いことではないのだ。地元を離れるまでは毎日家族で晩飯を食べていたのに、いつの間にかそれはなかなかありえないこととなってしまっていた。今日だって、私はいるのに、弟がいない。
肉と米を交互に頬張っていると、
「まだ書いているのか」と茶化すふうに父親が言った。
私はいたってまじめな顔をして「書いてるよ」と答えた。
前に書いたとおり、私の書いた小説は正月の新聞に載せられた。新人賞という扱いだった。私はその小説で、自分の自殺未遂と、今こうして生きながらえている理由のようなものを書いたのだ。
新人賞は三万円の賞金が出た。つまるところ、私の命が三万円程度の価値だとも言える。私はそのとき命という小切手を三万円に買えたのだ。最近になって私は、自殺未遂があったから小説を書いたのか、小説を書くために自殺をしようとしたのか、よくわからなくなってきた。もしも今私が生きてはいなかったとすれば、私が残しえたのは、せいぜい三万円の人生だったような気がする。もしも私というものを小切手ではなく、株券だと考えても、今後その価値が三万円以上になるとはあまり考えられないことだ。そういえば、昔家庭科の授業で、人間の体を構成する物質を買い集めるには約三千円あれば足りると聞いた。そう考えれば、私は自分の肉体に、魂として二万七千円の付加価値を与えられたのは十分なはたらきだったとも思える。三万円が人の命として安いか高いかは、いまだに分からない。
偶然にも拾った命で、せいぜい親に謝ることも考えていたが、その正月には結局言い出すことができなかった。あの小説が、全くの私小説であると伝えることができなかった。そして私は卑怯にも、手紙でそれを伝えることにしたのだ。帰省の数ヶ月前、私は両親に充てた手紙にこう書いた。
「あの小説の冒頭を覚えているでしょうか。あれは本当のことです。前の帰省で謝ろうと思っていたのですが、なかなか言い出せませんでした。本当にごめんなさい」
私はそれで終わったとは思っていなかった。きっと今回の帰省でまた掘り返されるだろうと覚悟していた。だが、結局その話に抵触しかけたのは、先の父親の「まだ書いているのか」だけだった。
父親はその日ビールを一本だけ飲んだ。私は続けざまに何本か空けた。
私は父親に叱られた思い出がひとつだけある。正確には、叱られたのは私ではなくて弟である。私が小学生のころは、家族がひとつの部屋に川の字に寝るようにしていて、その日も私と弟は、先に寝床に入って、それでもいまだ寝つけずに、転がったり、飛び跳ねたりと騒いでいたのだが、仕事で疲れたのであろう父親は怒鳴り声を上げて弟を片手で引き上げ、廊下へと放り投げた。私は、自分も怒られるべきであるのに弟だけが父親の怒りの矛先になったことに弟への罪悪感を抱き、また一方で、私だけ難を逃れたことに安心して、布団を引き被って少し泣いた。
あのころから比べて、父親はだいぶ弱くなったように感じる。それ以来、父親が語気を荒げたり、怒鳴り声を上げたという記憶もない。今目の前の父親は、目尻に小皺を作って、穏やかに笑っているばかりである。やさしくなったというよりも、弱くなったという印象のほうが大きい。気づけば皺も増えたし、背も縮んだかと思うくらいに小さく見える。還暦も近いが、それでもまだ体を壊さずに仕事はできているらしい。
それに比べて、母親はあまり変わった印象は受けない。むしろ強くなったような気もする。以前は年に何度かは体調を崩して一日中物憂げに寝床に引きこもることもあったが、私が高校生のころから、そうした姿を見ることは少なくなった。地元を離れてから届く手紙からも、母親のたくましさは垣間見えた。いつでも生活のどこかには不安や悩みはあるのだろうし、時折手紙にもその旨は記されているが、それを包み隠さないあたり、むしろそれが些細な問題でもあるかのように悠然としているように見える。私はここ数年、母は強しという言葉をようやく実感している。
九時をまわって、弟が帰ってきた。私は、私がいるときの家族の様子しか知りえないので、弟と両親だけの生活というものがどんなものなのか、あまり良く知らない。弟は一人暮らしをしたがっているらしいが、両親は、弟が家を出て行った後、どのような生活を送るのだろう。などと、こう書いてしまうと、妙に切ない気持ちにもなるのだが、私の両親は案外図太く穏やかに暮らせるのではないかとも思っている。母親はますます強くなりそうにも思う。
最後に、もう一度私の自殺未遂の話に立ち返って、この節の終わりにしよう。
私は自殺をしようとしたことについて、いまだに悔恨などを感じてはいない。私がもっとも敏感である罪悪感すら、全く刺激されなかった。私が両親に謝ろうと考えていたのは、それがただ、自殺未遂者の義務だと考えていたからだ。私は自殺をしたことについて、かえって良かったと思っている。俗なことを言えば優越感すら抱いている。私は自殺によって、そして偶然に失敗したことによって、ようやく私の命が私のものになったような気がしているのである。
私は思春期の敏感で揺れやすい人生観や感性をずっと引きずってきた。日々のうちに自分の生きている意味や、社会に果たす役割の有無などを考えない日はなく、私の命をどこまで保つべきか、どのあたりで見切りをつけるかを私は勘定していた。当初、その見切りは六十歳だった。六十歳になったら私は死ぬつもりでいた。そのころには親も死んでいようし、社会に果たすべき役割も多くはなくとも果たせているはずだと考えた。だが、結果としてその半分も生きることなく、私は命を絶とうとした。動機のひとつは、私の軟弱で神経質な性質が、両親や弟やそのほか周囲の人々からの重圧に耐えられなくなったことと、自分にはそうした期待に応えられるだけの能力がなかったという罪悪感や恥ずかしさ。もうひとつは、そもそも私には社会に対して果たすべき役割など、最初からなかったことが理由だった。
自殺というのはその行為に至るまでの過程自体が死を意味しているのではないかと私は考えている。たとえ未遂とはいえ、首を吊った時点で私は一度死んだようなものなのだ。つまり私は、先の動機の一つ目についてはもはや開放されたと言ってよかった。地元を離れ、ほとんどの地縁が途絶えた今、さらに首まで吊ったのだから、私はほとんど死んだも同然、昔の知人からすれば知らぬ間に私が死んでいるのと同じようなものであった。そして、偶然にも私は命を拾って生きながらえているのであるが、この命というものは、もはや誰のものでもない、私のものである。両親や弟のために使う命や、社会のために使う命でもない。私が生かすも殺すも自由な命である。家族や社会に蝕まれたこの手から、一度放してやったというのに、一人になった私の元に再び帰ってきたのだ。所有権は私にだけある。こうした点で、私は動機の二つ目からも解放された。もはや私のこの命は、社会のためでも家族のためでもなく、自分が好きに使っていい命なのだ。
と、まるで偉そうなことを言っているが、私は今も、いつ死のうとするか分からない。私は死ぬ理由を失くしたが、生きる理由も失くしたのである。いまはもう、日々の快楽のために生きているだけの、その日暮らしの愚者である。愚者。私は「吊るされた男」であることに耐えられず、「死神」からも見放され、ついに「愚者」になったのだ。旅が始まったのだ。そう考えると、悪くない。
私の帰省に残された日は、あと一日だった。
酒と肉で重くなった腹を叩きながら、私はこの帰省で一番に幸福を感じていた。