一
東北新幹線のはやぶさを八戸駅で降りた私は、半袖のシャツで着たことを後悔した。八月も半ばというのに、大窓の外は霧に煙って、ホームには冷たい風が吹き込んでいる。スマートフォンで天気予報を見れば、最高気温でも二十度を下回るらしい。いくら東北の港町とはいえ、ここまで寒くなることはあまり無いはずだった。
新幹線を降りる客はやはり私と同じく帰省らしい。みなキャリーバッグを引いていたり、ボストンバッグを引っ提げている。これもやはり、寒い寒いと呟きながら、ホームの階段を上がっていく。ところどころに外国人の姿も見える。私の目の前にも、ひねって外側に立たせた口ひげの男が歩いている。八戸市の北に位置する三沢市には米軍基地があるので、八戸でも外国人を見ることは少なくない。だが、妙に紳士然とした口ひげの男は、どこなく東北の田舎町には似合っておらず可笑しかった。
私もほかの帰省客たちと同じように寒さに肩を縮めながらキャリーバッグを引きずった。こうして帰省に八戸に来るのは、これで八度目。私が就職してからは初めてのことだった。
かつて太宰治は「津軽」と題した小説で、彼の出身である青森県金木町や、津軽地方の各町、部落を見て歩いた記録を残している。一度は私も、太宰に習ってそんな小説を書いてみようかとも思ったが、あいにく観光して回るほどの時間は私にはない。東京の会社からもらえた盆の休みは五日間で、まだ入社して半年も立たない私は疲れていたし、加えて休みに入った直後に引いた風邪のために、もはや満身創痍のかたちで私は帰ってきたのである。
しかし、一応は私も物書きを趣味と自称する人間で、表現の機会を持っていることだし、この帰省で思うことがあれば記しておくことも悪くはないだろうと思うのである。
これから先、私は出身である青森県八戸市の、私の知る範囲の特徴や所感を述べることになるが、詳しいことを書くことは期待しないでほしい。あくまで地元を離れて、少しく客観的に青春を過ごした地を見られるようになった私の小旅行体験記だと思っていただきたい。
さて、そんな八戸市だが、先にあげた太宰の「津軽」とは全く地域を異にしている。津軽は青森の日本海側の地域で、県外の人でも知っている町としては弘前市が挙げられるだろう。桜の咲く季節は、弘前城とその城下の桜の景色がよく映えて、たびたびその様子を新聞やテレビで目にする。とはいえ私が弘前に行ったのは一度しかない。中学生のころに部活の大会で行ったきりだから、弘前の町並みなどはあまり覚えていない。また弘前には弘前大学というのがあって、青森県には青森大学や八戸大学(今は名前が変わった)があるのだが、国立はこの弘前大学だけである。
八戸市は津軽地方とは反対に太平洋側に位置し、東を太平洋、南を岩手県と接している。市町村の合併で広くなったはずだが、私は合併前の形しか覚えていない。そもそも私は八戸の地理に疎く、私の生活圏外の地域については全くと言っていいほど分からない。今回の規制では(いつものことだが)、基本は家に引きこもるつもりなので、あまり土地について触れることはないだろう。
新幹線を降りた私は、そのまま在来線に乗り換えた。ホームには霧雨が風に乗って舞い込んでいる。電車が二両編成なのは言うまでもない。帰省客が多いはずの時期ではあるが、座席にはところどころ空きがある。私は片方が空いているボックス席を見つけると、対面に座る高校生らしき少年に会釈をして座った。キャリーバッグを引きずる帰省客が珍しいのか、ほかの乗客の視線を時折感じた。私はそれに気づいていない振りをして、車窓を流れていく霧に白んだ田畑を眺めていた。
二駅目で電車は本八戸駅に着いた。「本」と言うのが何を意味してのことなのかわからないが、どうせなら全く別の名前にしたほうがよかっただろうと思う。八戸駅は新幹線が通っている割に辺りはなんとなく殺風景で、本八戸駅は在来線しかないものの、商店街が近く、八戸の中心街とされている。いつもなら私は商店街を少し歩いてから、実家の方面へ向かうバスに乗るのだが、今回は駅前のバス停に直行した。霧雨は真横から吹きつけるようで、アンクル丈のパンツや半袖のシャツの裾を濡らした。
バスに乗れば、帰省客らしいのはついに私だけとなった。ほかに乗車しているのは老人ばかりだった。最近では田舎にもれなく付属している高齢化というやつだ。少子化までは実感はわかないが、二十、三十代の若者はいやに少なく感じる。商店街を歩いていても、すれ違うのは老人か高校生ばかりだ。
私は地元を離れるまで、バスを老人の乗り物だと思っていた。冗談ではない。本当に老人しか乗らない。私は昔からバスを利用することが多かったが、それは私の実家がひどく交通に不便な場所にあって、歩きでも自転車でも街中に出てこれなかったからである。そんな私のような者や、遊びに出たがる中学生や高校生を除けば、ほかに乗るのは老人しかいない。バスに揺られる老人たちは、みな一様に窓の外を見やっている。停車場が更新されるたびに流れる協賛店のアナウンスだけが車内に時折響く。「自衛隊員を募集しています」「婚活を応援しています」などと、笑えない皮肉のようなアナウンスに、私はわざとらしく口角を上げた。
途中で一度バスを乗り換えて、私はようやく実家に帰った。上野駅を発って五時間が経っていた。バスは二時間に一本あるかないかで、今回はちょうどいいタイミングで乗り継げたと言える。平屋の実家は、周りに接する家もなく、舗装された道の突き当たりにポツンと建っている。十年ほど前は道は舗装すらされておらず、砂利道ばかりだった(私はこの砂利道がなぜだか好きで、舗装された当時はしばらく不機嫌が続いたほどだった)。西洋趣味の真っ白の外壁の実家では、玄関ポーチの主柱に巻きつけた薔薇が風に吹かれて花を落としている。ポーチに立って煙草に火をつけると、外飼いの犬に吠えられた。また私の匂いを忘れたらしい。キャリーバッグを置いて二匹の飼い犬の元に行くと、姿で思い出したのかおとなしくなった。そのまま下顎をなでてやると、二匹ともすぐに仰向けになって腹を見せた。腹を撫でてやっていると、玄関の戸の開く音がした。この玄関は開け閉めするときにキュルキュルとやたらに音を立てる。この時間に家にいるのは一人しか思い当たらない。弟だった。
弟は八戸の大学に通っている。今でたしか二年生だったはずだ。最近になってようやくアルバイトを始めたらしく、メッセンジャーでたびたび愚痴を聞いていた。半年振りに合うからとはいえ、旧友と久しぶりに会うときのようなどこか小恥ずかしい雰囲気は感じない。私は、おう、とだけ言って二本目の煙草に火をつけた。弟も自分のポケットから煙草を取り出した。幼いころはあれだけ煙草は吸わないと父親を反面教師にして言っていた私たち兄弟も、いつのまにか吸うようになっていた。弟はまだ未成年だったが、私はとやかく言うつもりはない。いずれにしろあと一週間もすれば、弟も成人だ。
家の中に入ると、いくつかまた変わっているのに気がついた。エアコンが新しくなっている。小さなマッサージ器のようなものがソファの上に置かれている。私はキャリーバッグを開けて、ゲームソフトのパッケージを取り出すと、土産だと言って弟に渡した。それからノートPCを開いたが、モバイルルータが繋がらない。家の固定回線に繋いでもいいが、面倒なので、代わりにテレビの電源を入れた。天気予報を見れば、この一週間ほど雨続きで、今後もしばらく晴れ間は見えないらしい。
それからしばらくは本を読んでいた。ロバート・A・ハインラインの「夏への扉」だった。帰省に出るときは必ずお供に小説を持ち歩く。夏らしくない夏に読むには、いい小説だ。夕方になると弟がアルバイトに行くというので、私もそれに合わせて散歩に出た。霧雨が降っていたので傘を持って出た。
帰省の際には必ず散歩に出る。少しずつ、町が変わっていくのがなんとなく寂しく、それがよりいっそう郷愁を感じさせるので、何かと感傷的になりたい私は好んで老いた町の景色を見て歩くのだ。
最初の行き先は出身の学校に決めた。私の家から歩いて十分の距離にある。小学校と中学校が隣り合って建っていて、私はそのどちらにも通ったが、今では中学校のほうは生徒がいなくなって廃校になっている。小学校のほうも今も全校生徒合わせて十数人というところのはずである。桜が沿道に立ち並ぶゆるい坂を登っていけば、平屋建ての小さな校舎が見えてくる。国旗掲揚塔の縄と金具が支柱にぶつかるカランカランという音が、ひどく懐かしく感じる。お盆休みの今に校舎に入れるはずも無いので、私は裏に回った。校舎の裏は小さな公園のように遊具が並んでいて、タイヤが半分地面に埋まっているのや、塗装の剥げたジャングルジム、雲悌などが、ミニチュアかと錯覚するほどにこじんまりとしている。この裏庭で遊んだ記憶はあまり残っていない。代わりに校舎の中であったことはいくつか憶えている。そのどれもが思い出せば赤面せずにはいられないような恥ずかしいものであることは言うまでもない。往々にして記憶に残る出来事というのは嬉しいことや楽しいことなどではなくて、恥ずかしさや悲しさを感じたときのことのほうが多いのだ。わざわざ幼い愚かさをひけらかす趣味は私には無いので、ここでの思い出話は割愛しよう。
私は校門を出て、道路を挟んで向かいの運動場に入った。葉の茂る桜並木で道路との境が区切られている。整地されて芝生は青々としているが、今は雨露に濡れてしっとりと草の匂いをあたりに漂わせている。学校よりもこの芝生と、桜の木の下のほうが私には良い思い出のほうが多い。休日には幼馴染と一緒にここへ来て、携帯ゲームで遊んだりしていた。弟もついてくることが多かった。幼馴染は私と同じように大学に進学するときに地元を離れ、最後に会ったのは2、3年前だ。先に述べた弘前にいるはずである。今年は帰ってきているのか、聞こうと思えば聞けるものの、なんとなくそれはしなかった。お互い、生き方とか言うものが違っていることにもう気づいていたのだ。
濡れた芝生に座るのはさすがに気が引けたので、私はその場を去った。学校を過ぎて、木々がアーチのように囲っている、舗装もされていない道を歩いていく。しばらくは人が住んでいるのか疑わしいあばら家や、とうに死んでいるような木々ばかりだが、にわかに視界が開けると左側に低くなっている斜面の畑と、右側に芝生が広がっている。いつか同じ場所を歩いたとき、左の斜面にはススキが一面に生えていた。夏の夕焼けのころで、ススキはまさに黄金色に輝くようで、大気までその暖かな光が染み出しているような幻想的な景色になっていた。さっきまで歩いていた獣道がわびしすぎた反動もあって、急に開けた視界にその光景を見た私は思わずため息を漏らしたほどだった。そのススキを見たくて私は来たのであった。天気は良くないから前ほど良いものでもないだろうと思っていたが、それどころでなかった。ススキはもはやどこにも見えなかった。確かここにあったはずという場所はすべて耕されたまま放置され、名も知らない雑草がところどころに生えているきりである。一度見たきりのあのススキの黄金が失われたことに、私は今日で一番悲しくなった。傘を揺らすと、たまった雨がしとどに靴を濡らした。
散歩を終えて家に帰れば母親が帰っていた。玄関の扉を開けようとすると、家の畑のほうからおかえりと声をかけられた。ただいまと言って家に入ると、私は一眼レフのカメラを取って庭に出た。弟が友達からもらったものらしいが、触ってみるとなかなか面白い。私は草花には疎いので名前がよくわからないが、とにかく庭先の花や、飼い犬を撮った。彼岸花のような形と色をしたものや、竜胆のような色合いの花を撮った。PCに画像を移して母親に見せると、こんなに綺麗に撮れるのかと言って驚いていた。
日が沈むころに父親が帰ってきた。痩せたなと言われた。確かに就職してからいくらか体重が減っていた。ちゃんと食ってんのかと聞く父親に、ちゃんと食って帰ると私は答えた。その日の晩は出前の寿司になった。