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「どこから入れるかだなんて、よく知ってますねえ」
ヒロ先輩は会館を出ると裏口を目指して迷うことなく俺の先を歩く。一九時を過ぎているため、辺りはけっこう暗い。
「中学校の時かな? 昔このステージに立ったことあるんだよ」
あの時俺が見た、マリンバをたたいていた少女が出ていたイベントだろうか?
「その時はまだマリンバをたたいていた時ですよね?」
「そうそう。中学校の時から今年の三月まで吹奏で市内のいろんなところで演奏していたからね。だから吹奏やってる人とかバンドマンとかって、地元のホールやライブハウスの構造や裏口の場所はみんな知ってると思うよ。今日は著名なアーティストの公演でもないから警備も超甘いし……と思ったら見張りがいるか」
裏口には、搬入用の自動車の駐車スペースがあり、トラックが一台止まっている。そしてトラックの横の入り口の扉の前。一人の女子生徒が立っている。
「よし。ゲストで演奏会に呼ばれていたのに遅刻して走ってきた城坂高校の吹奏の生徒を演じるぞ」
そう言うなり、ヒロ先輩はいきなり走りだす。いや、ちょっと待ってくださいよ! ヒロ先輩、足はやっ!
「すみません! 今日アンコールでゲストに呼ばれてた城坂高校の吹奏の者ですけど……遅れてすみません! もうアンコール始まっちゃいましたか?」
ヒロ先輩はわざとらしくぜーはー言いながら、扉の前に立っている門番の女子生徒……恐らくぺーぺーの新入生だろう。彼女の両肩をつかんで激しく揺する。
「え? え? ゲスト……ですか? 少々お待ち下さい、確認しま……」
「アンコール! 始まっちゃいましたか?」
ヒロ先輩はすごみを利かせて、再度女子生徒の両肩を揺する。
「いえ、ステージに楽器を全部出さなくちゃいけないので、今はあいさつで時間を延ばしてるところですが……」
「パーカスの梶さんには連絡入れていたんですけど、聞いてないですか?」
ああ、梶先輩の名前出しちゃったよ……すみません、梶先輩。
「いえ、今日はゲストのことは聴かされてませんが……」
「ああ、ごめん! シークレットゲスト扱いだったんだ! とにかく間に合わないんで、入れてください! あとで責任は取りますから!」
ヒロ先輩は唖然としている門番の女子生徒を押しのけ、扉を開ける。
「いや、勝手に……困りま……」
「すみません、あとこれ持っててください! 人質代わりに!」
ヒロ先輩は持っていたスポーツバッグを少女に押しつけ、扉の中に入る。ほんと、ごめんね。
中に入ると、そこは戦場だった。
さっきも門番の女子生徒が言っていたけど、アンコールのために今日の出演者が全員出るようで、楽器をステージに上げるために人が行き交い、ひっちゃかめっちゃか。抑えた声で怒号が飛び交っている。
「よし、侵入成功」
ああ、やっちゃったよ。
「……責任取るんですか?」
「うん? わたしが責任取るとは言ってないからね。だれかが取るよ」
さらっと言ってのけた。
ヒロ先輩はステージ下手の舞台袖のどんちょうの影へと少しだけ早足で。俺も周りを気にしつつ先輩の横へ。
「さて……アンコール一曲目から……飛び出すよ」
うん、もう怒られるのは覚悟してる。あとはやるだけだよ。
会場から拍手。楽器の準備も整ったようだ。舞台袖に司会者の学生がはけてくる。
途端、ヒロ先輩が俺の尻に手を触れる。思わず飛び上がってしまう。
「ああ、ごめん……よし、トランスミッターの電源オン。もう電波ジャックしてるから、不用意にパンデイロは鳴らさないように」
ヒロ先輩は自分のトランスミッターの電源もオン。ヒロ先輩はステージに出るタイミングをうかがう。
舞台からはスティックのカウントの音。
演奏曲目は……まさかのディープ・パープルの〈Burn〉。あの時と同じだ。心臓の鼓動が速くなるのを感じ、体温が上がったのがわかる。
いや、きっと吹奏楽で親しまれているディープパープルメドレーだろう。まさか、中学校の時の梶先輩のアレンジのあの〈Burn〉を演奏するのだろうか?
オープニング。この辺りは梶先輩のアレンジではなく、一般的に知られた吹奏楽用アレンジのディープパープルメドレーのままだ。しかし、あの時も最初は通常のアレンジだったけど、途中から梶先輩のパーカッション主体のアレンジに変えていた。
舞台上で軽やかにドラムをたたく梶先輩。Aメロからさっそくドラムをはじめとするパーカッションのフレーズが原曲のイアン・ペイスのドラムを彷彿とさせるほどにどんどん激しくなる……やっぱりこれはあの時のアレンジで行くんだ。
そして演奏は進み、あの時と同じようにテーマに戻る手前。合奏が止まり、始まるティンバレスのソロ。俺はティンバレスを探す……梶先輩の右横。女子生徒がたたいている。恐らく一年生だ。少しだけ不安げな表情を浮かべながら、しっかりとリズムをとっている。
がんばれ! 四小節を数え間違えるな! 俺が言えた義理じゃないけど、心の中でひたすら願う。俺がたたいているわけでもないのに、緊張で眼鏡のレンズが曇る。
1、2、3、4。
1、2、3、4。
1、2、3、4。
1、2、3、4。
よし、行った! 女子生徒はしっかりと四小節でソロをまとめあげた。俺は思わずガッツポーズ。
……が、一小節の空白は訪れない……ってとなりで、したり顔でパンデイロたたいてるよこの人! ここでか!
「行くよ」
ヒロ先輩は俺に目くばせすると、ゆっくりと舞台に歩む。会場に思っていた以上に大きな音で響くパンデイロの音色。だれにも演奏は邪魔させないぞという無言の威圧感を感じさせる……思わず背筋がぞくっとした。
客席を見ると手拍子なんかして、お客さんもノリノリだ。ただでさえアンコールでテンションが上がっているのに、事前に知らされていない他校の制服を来たメンバーが出てきたからさらに盛り上がる。
ただ、舞台上を見ると表現のしようのない視線が俺とヒロ先輩に注がれている。〈だれ?〉〈何これ?〉と言いたげな目。あの時と同じアレンジなら、このあと一小節の空白のあとにパーカッションのユニゾンが待っていたはずだけど、だれもたたこうとせずにもう何小節もパンデイロのソロは続く……完全に予定外の進行になった。
ヒロ先輩は、ここでもシンプルに8ビートで、時折細かくリズムを刻みながら、ドラムの梶先輩とティンバレスの女子生徒の間に進む。とりあえず、俺もヒロ先輩の左どなりにしっかりとついていく。ああ、梶先輩と目が合った。どうもすみません、唖然とさせてますね……ってか、口元が〈おーまーえーらー……〉って動いた。
ああ、ばれてる。すみませんすみません。
「マサ! 四小節でまわせ! 思いっきりやってやれ!」
ヒロ先輩が俺の右耳に向かって叫ぶ。俺は小さくうなずくと、ヒロ先輩からの流れを引き継ぎ、まずは細かい振りも入れた16ビートで派手に刻む。客席から〈おー!〉という歓声が。
あの時は逃げ出してしまったけど、これで自分自身に借りは返せただろうか? 俺は精いっぱい、今できる最高のフレーズをたたき切った!
けど、このあとどうするんだろう? と四小節をたたき終えてから気づく辺り、まだまだだめだめだな、俺。
しかし空白は訪れずにスネアのロール。顔を上げると、ドラムの梶先輩が苦笑いしながら俺を見る。あの時と同じだ。
「スネア! 俺と同じフレーズでいい! 俺に続いて四小節! 行け!」
梶先輩は左どなりでマーチングスネアドラムの男子生徒……こちらも恐らく新入生だろう、叫んで指示をする。ああ、突然のソロまわしが始まったので、マーチングスネアドラムの男子生徒は固まっていたようだ。同じフレーズをたたけって、梶先輩の気遣いか……よくこんな状況でそこまで気を配れるもんだ。
梶先輩に続いて四小節を任されたスネアの男子学生は不安げな顔でうなずくけど、寸分違わず梶先輩がたたいたフレーズを奏でる。ドラムセットのスネアと違いマーチングスネアドラムはハイピッチにチューニングされているので、同じフレーズでも印象が全く違う。そのあいだ、梶先輩は他の太鼓系のパーカッションのメンバーを〈次〉〈次〉〈次〉と口を動かしならがスティックで指し、その都度指を四本立てて四小節のソロまわしを指示する。
最後のアンコールのためか舞台上のスペースの問題か搬入の問題か、太鼓系の楽器は通常の設置型だけではなく、マーチング用の楽器を抱えた部員も多数いる。マーチングスネアドラム、マーチングマルチタム、マーチングバスドラム……もうひとつのバスドラ……あれはスルドかな?
最初にティンバレスをたたいていた女子生徒にも、もう一回四小節でまわせと指示。そしてヒロ先輩と俺にはぶっきらぼうに指を四本立てるだけで、視線も合わせてくれない。怒ってるよなー。だけどもう一度ソロまわしに参加させてくれるんだ。そして再度他の太鼓系のパーカッションのメンバーにももう一度四小節でまわすように指示。
「よし、許可が出たぞ」
ヒロ先輩は口元に笑みを浮かべながら俺に耳打ちする。
次のマーチングマルチタムは男子生徒。恐らく三年生だろうか。縦横無尽にすべてのタムをたたき分けてソロをまとめる。ああ、この人はこのアクシデントを楽しんでる。超笑顔だ。次にソロを受け継いだマーチングバスドラム。右腕だけで細かい一六分音符を入れたフレーズをたたく。右腕だけであれだけ細かくたたけるなんて……。次にソロを受け継いだスルド。マーチングバスドラムよりもさらに低音とはいえ、フレーズ的にどう変えてくるか。こっちも細かく一六分音符を入れてきて……あっ! これさっきのマーチングバスドラムがたたいたフレーズと真逆……休符だったところをたたいている。地味に凝った演奏をしているけど、客席で気づいている人はいるだろうか? ひょっとして舞台上でも気づいている人は少ないかもしれない。
そして最初に戻り、ティンバレスの女子生徒。遠慮ぎみに梶先輩の表情をうかがいながらたたく。梶先輩が優しい笑顔で応じたためか、最後の二小節はやたらとはじけていた。
そして招かれざる客である我々の番。ヒロ先輩は最初から8の字ロール。うわ、ずるい! 自分だけ目立って。やはり視覚的にも効果的な奏法だから、客席から歓声が飛ぶ。結局四小節全部をドヤ顔でロール。俺は8の字ロールなんてまだできないから、このあいだヒロ先輩から盗み取った三連をからめたフレーズをたたく。四小節目、最後の三、四拍目のみロール。どうだ! 続く梶先輩は曲のバッキングのドラムをたたくように、そして最後の一小節のみたたきまくる。引き継いだマーチングスネアドラムの男子生徒は好き勝手にやっていいんだと理解したようで、さっきより自信に満ちた表情でたたく。
そのあいだ、梶先輩はティンバレスの女子生徒に向かって叫ぶ。
「次で四小節のソロ! ブレイク! そのあとユニゾン! 行け!」
女子生徒は笑顔でうなずき、スティックを握り直す。そして梶先輩はヒロ先輩をにらみつけ〈これで終わらせる、邪魔するなよ〉と無言の主張をする。ヒロ先輩も了解した旨の意思表示で、黙ってうなずく。
マーティングマルチタムのソロ、マーチングバスドラムのソロ、スルドのソロ。
「行けっ!」
梶先輩が小さく叫び、ティンバレスの少女のソロ。四小節。最初にたたいたソロとはまた違うフレーズ。ユニゾンへ繋ぐソロでもあり、ソロまわしの最後の締めくくり。四小節目は一六分音符の嵐。
そして訪れる静寂。
1、2、3、4。
そしてユニゾン。俺にとっては一年半ぶりに再演する曲。忘れていたつもりだったけど、しっかりと体が覚えていた。
そしてテーマに戻り演奏終了。
終わった。
客席の拍手が体に突き刺さる。
ああ、この感じ、この快感。
やばい、すげー楽しい!
やっぱり、音楽っていいよな。
「いつまでも舞台に残ってるような野暮なことはしないよ」
感慨に浸っていると、ヒロ先輩が耳元でささやく。
「逃げるよ! やり逃げ! 堂々と行くよ」
ヒロ先輩は一度だけ客席に向かって大きく片腕を振り上げ、そしてパンデイロからクリップマイクを外すとパンデイロを指先に乗せて、俺と最初に出会った時のようにパンデイロをくるくるとまわしながら悠々と退場する。俺はただヒロ先輩のあとにこそこそと……いかんいかん、胸を張って堂々と。
はける寸前、舞台上を振り返ると梶先輩と目が合う。俺は深々と頭を下げ、そしてすぐにヒロ先輩のあとを追った。
舞台裏は出演者以外の部員がたくさんいたけど、俺たちが来ると自然に通り道ができる。リアル十戒。
外へ出る扉。先ほどは外にいた女子生徒。ヒロ先輩のスポーツバッグを両腕で胸に抱えている。
「バッグありがと」
ヒロ先輩はぼう然として何か言いたげな女子生徒にウインクすると、バッグをひったくる。
「ちょっと、きみたち……」
顧問の先生だろうか? 微妙な顔つきで後ろから声をかけてくる。
「走れ!」
ヒロ先輩は扉を開けて走り出す。逃げ足はやっ! 俺も全速力で、本気で飛び出した。
2
走った時間は恐らく一、二分。ヒロ先輩のあとを追いかけ、市民会館のとなりのブロックにある公園に飛び込んだ。ヒロ先輩はそのまま走り続け、奥にある噴水のところまで来ると急ブレーキ。うわ、ぶつかるって。
ぶつかる寸前、ヒロ先輩は体ごと振り返ると持っていたスポーツバッグを投げ出し、両手を広げて俺を抱き止める。そして思い切り、強く抱き締められた。うわ、なになに? ちょっと、胸が……。
「やったぞ! やってやったぞ! やっちゃったやっちゃった!」
ヒロ先輩は俺を開放すると、両手を広げて空を仰ぎ、そして例によって指先にパンデイロを乗せてくるくるとまわし、笑い出す。俺はあっけにとられてしばらくぼう然としていたけど、つられて笑いがこみ上げてきた。
一瞬だけど、吹奏楽の名門校のステージを乗っ取ってしまったんだ。
何もかもがおかしくて、暗い公園の噴水の前で笑い転げる俺とヒロ先輩。
ブランコで仲良く語らっていたカップルがドン引きしている。そりゃそうだよね。二人の男女がタンバリンみたいなものを手にして笑ってるんだから。ほんと、すみません……だけど笑いが止まらない。まわりにはマンションもあり、すぐ近くには先ほどの市民会館がある。お巡りさん呼ばれてしまうよ。
ひとしきり笑ったあと、ヒロ先輩はひざに手をあてて肩で息している。走ったあとに笑いすぎですもんね……って泣いてる?
「大丈夫ですか?」
俺は慌ててハンカチを探す……あ、着替えた時に私服のズボンのポケットに入れたままだ……うわ使えないな俺。
「……大丈夫、大丈夫」
手の甲で涙をぬぐって無理に笑顔を見せるけど、声も震えているし、両足も震えている。
「……情けないなあ……今になって緊張が来たよ。震えが止まらない……」
ヒロ先輩はそう口にすると両足が崩れそうになったので、俺はとっさに抱き止める。ヒロ先輩は体を完全に俺に預けてくる……けどこんな時、どんな言葉をかければいいんだろう?
「……今日は、ありがとうございました。楽しかったです。うれしかったです」
あんなことやらかしておいて、しかもこんな状況で言うべきせりふではないのかもしれない。けど口を開くと感謝の言葉がまっさきに出てきて、ヒロ先輩の耳元でつぶやく。
「ごめん……本当にごめん……」
ヒロ先輩は消え入りそうなくらい小さなこえでつぶやく。肩を震わせて泣くヒロ先輩の〈ごめん〉が、今俺にもたれかかっていることなのか、今日の殴り込みに巻き込んでしまったことなのか、それともパンデイロ部に無理やり入部させてしまったことなのか……何に対してなのかは、すぐにはわからなかった。正確には、あとになってもわからないままだった。
俺はヒロ先輩の肩を抱き締めながら、やっぱり肩幅小さいなーとか、シャンプーの香りだーとか、泣き止んでくれるかなーとか、眼鏡に涙がーとか、お巡りさんに見つかったらなんて言い訳しようかなーとか……月が青いですね、とか。
変に冷静にそんなことばかり考えていた。
ヒロ先輩はなかなか泣き止まない。遠くに小さく漏れて聴こえる演奏会のアンコールの音に耳を澄ませ、ヒロ先輩の肩越し、視線の向こうの夜空に浮かぶ欠けた月を見つめた。
3
ヒロ先輩が泣いていたのは、長くても五分くらいだろう。遠くから小さく漏れて聴こえるアンコール二曲目が終わる前にヒロ先輩は一人で立てるようになった。しかしその時間は本当に長かったような気がする。ヒロ先輩が俺から離れると、俺の腕からヒロ先輩の温もりが消えて、夏だというのに異様に寒く感じた。
その後、俺達は黙々とトランスミッターやマイクを片づけ、ヒロ先輩のスポーツバッグにしまい込んだ。二人のパンデイロもケースにしまい、一緒にスポーツバッグへ。
「帰ろうか」
ヒロ先輩はスポーツバッグを持ち上げ、肩に引っ掛ける。
「持ちますよ」
やや強引にヒロ先輩からスポーツバッグを奪い取る。
「ありがと」
ヒロ先輩は一瞬だけ驚いた表情を見せたけど、すなおにスポーツバッグを持たせてくれた。
最寄り駅に向かうにはまた市民会館のそばを通らなくてはいけないんだけど、あえて真正面を堂々と通って帰ることにした。裏口には関係者が待ち構えているかもしれないし、そもそも片付けのために裏口に関係者が多くいるかもしれない。
正面から市民会館を見上げる。まだ公演中なのか、出てくる人はほとんどいない。大きな会場だよなあ……電波ジャックしてステージまで乗っ取ったんだよな……まずいよな。しかし、なぜかあまり大ごとのような気がしない。違う意味で悟ってしまったのかもしれない。
そのままのんびりと歩き、駅前に着くとヒロ先輩が足を止める。
「どうしたんですか?」
「食べたくない?」
ヒロ先輩の指さす先。駅前のミスタードーナツ。ちょうど一〇〇円セール中だ。
「閉店間際で、さらに五〇パーセントオフとかやってないかな?」
「先輩、この店の営業時間深夜一時までです。あとそもそも閉店間際のセールなんて聞いたことないですよ」
「なんと……」
ヒロ先輩は大げさに驚く。
「まあいいか。たくさん買ってポイントたまれば一緒にグッズもらえるかな?」
「ポンデライオンとかの?」
「いや、アメリカおばけ」
ヒロ先輩、古いの知ってますね。
4
帰りの地下鉄。
二人並んでシートに座る。この時間の乗客はやや少ないので余裕で座れた。本当は今着ている衣装も着替えたかったんだけど、結局そのままの格好で地下鉄に乗り込んだ。
ヒロ先輩は涙を見せたあとは、やりきった感のためかややぼーっとしたような表情をしていたけど、今はにこにことしている。多分、さっきドーナツを選んでいる時に着信したスマホのメールを見てから、表情が変わったような気がする。
ちなみに、メール着信前までは〈ドーナツは一〇個くらいでいいかな?〉なんて言っていたのに、メールを読んだあとに三〇個も買い込んでいた。そしてポイント交換でグッズのハンドタオルもしっかりともらっていた。
「なんか、楽しいメールでも来たんですか?」
多分、もう少し待っていればヒロ先輩のほうから話し始めるとは思うんだけど、なんとなく我慢しきれずに確認してしまった。
「ああ、ごめん。明日母親が帰ってくるんだ」
「あれ? 本当に出張していたんですか?」
ヒロ先輩は俺の家に居候する際に〈親が長期出張中〉と俺の母親に説明していた。てっきりでまかせと思っていたんだけど。
「ううん。会社に泊まり込み。今担当しているプロジェクトが火を吹いていたらしくって」
ヒロ先輩はスマホを取り出すともう一度メールの本文を見つめる。ああ、ヒロ先輩の母親はSEをやっているって言っていたな。SEって何の略か知らないけど。
「……明日から自宅に帰ります?」
それはそれで寂しいような気もするけど、まあしょうがないよな。
「うん、そうする。だからドーナツは一箱持って帰るね」
いやいや、三〇個も置いて帰られてもそれはそれで困るから、どうぞお持ち帰りください。それでも二〇個もあるのか……まあ俺とサツキで全部食べてしまいそうな気もするけど。
「……しかし、なんで自宅に帰りたくなかったんです?」
改めて訊いてみる。こたえてくれないかもしれないけど。
「……広い家で一人で寝泊まりしていると気が滅入るよ。部室みたいな狭いところのほうがまだ落ちつく」
……広い家? 部室が狭いって? 元は教室だから四〇人くらいは入れるような広さの教室が狭い?
「ちなみに、先輩の家って、トイレはいくつあるんですか?」
「えーと……一階に二つ、二階にひとつだから合計三つだね」
金持ちだった。
お嬢様なんだ。
……とはいえ、母子家庭だし、母親もしょっちゅう仕事で家を空けているみたいだし……いろいろと悩みはあるんだろうな。
「マサ、今度はうちに泊まりにくるかい?」
ええっ! それって……?
「サツキちゃんに外泊許可出るかなあ……」
ああ、サツキも一緒ね。そうだよね。
あれ? ヒロ先輩、今、俺のことマサって下の名前で呼び捨てにした? 俺の名前が正利って知ってたんだ……って創部の時に俺のフルネームを書いているか。
そういえば、ステージに乗り込む辺りからそんなふうに呼ばれていたっけ……少しだけくすぐったいけど、悪い気分はしない。なんか認められたような気もするし。
「そーいえば先輩」
俺は話題を変える。
「なに?」
「パンデイロ部の今後はどうします? 何か今後の目的というか目標というか……」
今回の殴り込みがパンデイロ部の設立の目的だったのかどうかはわからない。ただ、もしそれが目的だったとして、今後の活動はどうするのか? できれば人様に怒られないようなもののほうがいいんだけど。
「アンコンに出場する」
ヒロ先輩は地下鉄の天井を見上げてつぶやく。
「アンコン? ってあのアンコンですか?」
全日本アンサンブルコンテスト。通称〈アンコン〉。全日本吹奏楽連盟と新聞社が主催するアマチュア奏者を対象にした音楽コンテスト。三人から八人の編成での出場となり、演奏時間は五分間与えられる。
「パンデイロだけで出場するんだ。おもしろそうじゃない?」
パーカッションだけの編成での出場も認められているコンテストだからもちろんそれは可能だ。
「団体登録とか、いろいろとめんどくさそうですけどね。あと出場は三人からだからもう一人部員も集めないと……」
でもちょっとだけおもしろそう、と思ってしまう。しかし……。
「先輩、目標はアンコンに出場することでいいんですか?」
「うん?」
ヒロ先輩は俺の言い方にけげんそうな顔をする。
「出場が目標? 金賞じゃなくて?」
ヒロ先輩は驚いた顔を一瞬して、声を上げて笑い出す。
「言うねえ。もちろんねらうは金賞さ。そして本戦への出場。予選ではうちの吹奏楽部とぶつかるだろうけど」
そもそも同じ学校から別々の部活で出場できるのだろうか? いろいろと調べないといけないな。
「……いつかさ、だれかの心に、ほんの少しだけでいいから印象に残るような、そんな演奏ができるようになれるといいんだけどね」
ヒロ先輩は腕を組んで遠い目をする。ヒロ先輩は少なくとも俺と大江と沢村の三人に、しかもヒロ先輩が中学生の時、すでに影響を与えているんですよ。自覚ないなあ……とはいえ、小学生の時に見たあのイベントでマリンバをたたいていたのが本当にヒロ先輩かどうかはわかんないけど。このこともいつか訊いてみないとね。
地下鉄の車内アナウンスが、次の停車駅名を伝える。俺の家の最寄り駅だ。
「さて……本日最後の大仕事が残ってる」
「え? なんかまだあるんですか?」
俺は少しだけ暗い気持ちになる。だからまだこの衣装のままで地下鉄に乗ったとか?
「ラスボス、サツキちゃん。彼女のご機嫌取りだ」
ヒロ先輩はニッと笑うと両足を上げて反動でシートから立ち上がり、俺に振り返る。ああ、だからドーナツを……。
「敵は手ごわいぞ」
ヒロ先輩はいつになく自信なさ気な笑顔を見せる。
そりゃ知ってますよ。俺の妹ですから。
Fine