6
1
「今週末、ひま?」
七月のとある放課後のパンデイロ部の部室。
一時間ぶっ通しのヒロ先輩と二人だけで延々ソロまわしをするという、毎週金曜日恒例のイベント。一週間の練習の集大成という意味も込めて金曜日に行なっている。俺もそこそこ自由にパンデイロがたたけるようになり、時にはヒロ先輩を挑発できるようになった。もちろんそのたびに返り討ちに遭うんだけどね。その好例のイベントが終了し、特別な日と金曜日の最後にだけヒロ先輩が作るペリエで割ったカルピス。これを飲みながら一息ついていると、ヒロ先輩がパンデイロをクロスでふきながら尋ねてきた。
「今週末、ってすでに末ですが。土曜日? 日曜日?」
まあ両日ともひまだけど。というか、あんた今までの土日だってこっちの予定も確認しないで勝手にサツキと三人で遊びに行くスケジュールを組みまくっていたくせに。今更訊くんかい。
「うん、日曜日……敵情視察に行こう」
敵って。
「どちらの敵でしょうか?」
「もちろん、うちの高校の吹奏楽部」
「休日の練習をスパイですか?」
「いやいや。日曜日にサマーコンサートがあるんだよ」
なるほど。そういえば、最近の吹奏楽部は夜遅くまで練習しているな。そうか、サマーコンサートがあるのね。定期演奏会かな。ここ数日は部室を閉め切っていると暑いので、部室の窓や扉はもちろん、廊下の窓も全開にして風通しをよくして練習している。パンデイロをたたいている時に時折吹き込む風のなんと気持ちのいいことか。そのため、吹奏楽部の練習の音が今もよく聞こえる。
しかし、吹奏楽部の演奏会か……いろいろと思い出してしまうし、やっぱり未練も出てきてしまうから自分から見に行くことはもうないだろうな、と思っていた。でも久々に吹奏楽の演奏会を見に行くのもいいかな。
「いいですよ」
「二人っきりでデートだ」
意味深長な笑みを浮かべながら、ヒロ先輩はパンデイロをソフトケースにしまう。デート……まあ確かにそうだよね。だけど毎日同じベッドで寝てるし、さすがにどきどき感はそれほどでもないかな、なんてね。
「そーいえば、大江……例の今度先輩がデートしてあげるって言ったやつなんですけど。デートしてあげたんですか?」
一応訊いてみる。基本、ヒロ先輩は俺んちに居候していて、いつも俺やサツキと一緒にいるから大江とデートしてるはずはないんだけど。
「……ああ、彼ね。夏休みにデートするつもりだ」
「先輩、今完全に記憶から吹っ飛んでいたでしょ?」
「最近デフラグしてないんで断片化が進んでるな」
意味わかりません。
「んじゃ、わたしはちょっと準備があるので今日は先に帰るよ。夕ご飯には間に合うように帰るんで、母君によろしく」
ヒロ先輩はグラスに残っていたカルピスを一気に飲み干し、ポケットから取り出した部室の鍵を俺に投げてよこす。空中でキャッチ。
ってか、準備? 確認する間もなく、ヒロ先輩は足取りも軽やかに部室を出ていく。これまた速いテンポで階段を一段飛ばしで下りていく音が廊下に響く……テンポ200超えてるな。なにを慌てているんだろう?
俺もパンデイロをクロスでふいてソフトケースにしまう。あ、グラスも洗ってしまわないといけないな。そういえば、グラスとかはヒロ先輩に洗わせてばかりだったな……まあ部室にグラスとかを持ち込んでいるほうがおかしいのかもしれないけど。俺は長机の上のグラス二つを手に取ると、廊下の隅にある手洗い場に向かった。
2
予告どおり、ヒロ先輩は夕食の前に帰宅した。
ほしかったおもちゃを誕生日にもらった子供のように、ににこにこしていたのが印象的だ。事実、紙袋になにかを入れて持って帰ってきた。何をしに行っていたのかは訊かない。まあいずれわかるだろうし。
そして翌日土曜日も昼食後に〈準備があるから〉と言い残してどこかに出かけた。いつも遊んでもらっているサツキは本当に寂しそうな顔をしていた。とはいえ、夕方にはほしかったおもちゃをクリスマスにもらった子供のように、にこにこしてふたたび紙袋を抱えて帰宅。わりと早く帰ってきたので〈まだ遊べる!〉とサツキは喜んでいた。紙袋の中をちらっとのぞくと、服が入っているようだった。まさか明日の演奏会に着るドレス? 高校の吹奏楽部の演奏会にそれはないよなあ。まあいずれわかるだろうからいいや。
3
本日の吹奏楽部の演奏会は一七時〇〇分開場、一七時三〇分開演。
終演後はけっこう遅くなるので、晩ご飯は外で食べることにした。
〈サツキも行きたい!〉と妹はだだをこねたけど、〈チケットが二枚しかないから連れていけなくてごめんね〉とヒロ先輩はサツキをなだめた。しかしアマチュアの演奏会なので当日券は十分に買えると思うけど、せっかくのデートだから俺はあえて何も言わなかった。
「パンデイロを持っていくのを忘れないように。敵情視察だからね」
ヒロ先輩はニヤリと笑う。まあパンデイロは軽いからそれほど苦にはならないからいいけど。
ちなみに、吹奏楽の演奏会の会場にはなぜか楽器を持ったお客がいることが多いので、パンデイロのケースを肩から下げていてもそれほど目立たない。そして、ヒロ先輩はなぜかスポーツバッグを手にしている。例の服? ドレス? まあ家から着ていくのは恥ずかしいのかもしれないけど。そんなに気取る演奏会じゃないと思うんだけどなあ。
「先にご飯を食べよう。だからちょっと早めに出るぞ」
そんなヒロ先輩のせりふにしたがって家を出たのが一五時半。
「今日って、演奏会はどこでやるんですか?」
最寄りの地下鉄の駅のきっぷの自動販売機。上に掲げられた路線図を眺めながらヒロ先輩に尋ねる。
「市民会館」
ああ。小六の時に見た、例の吹奏楽のイベントの会場だったところか。あれ以来一度も行ってないんだよな。
俺とヒロ先輩はきっぷを購入して改札を通る。階段を下りてホームへと進むと電車が到着する旨を伝えるアナウンスが流れている。ナイスタイミング。この時間帯は、すいているようで、電車内のシートにも余裕で座ることができた。ああ、クーラーが気持ちいい。
地下鉄は乗り換えなしで一五分ほど。なんだかんだで、近づくに連れてわくわくしている自分に気づく。やっぱり好きなんだろうな、音楽。生演奏は格別の楽しさがある。
そういえば、私服姿でヒロ先輩と二人で外を歩くのは初めてかもしれない。俺は横目でヒロ先輩の私服を改めて見る。花がらが大きくプリントされたゆったり目のブラウスにベージュのコットンパンツ。それだけならかなり可愛いんだけど、今日はかわいさとは真逆のスポーツバッグも持参しているのが若干残念な感じだ。ヒロ先輩自身は全然気にしていないようだけど。
会場最寄駅に到着。乗客のほとんどがこの駅で降りる。この駅は地下鉄だけでなく、JR、私鉄も乗り入れている市内で二番目に大きなターミナル駅なので乗降客の数も多い。
改札を出て、エスカレーターを上がるとコンコースに出る。相変わらず行き交う人が多いにぎやかな場所だ。
「さて。ご飯どうしましょ?」
「学生の味方、マクドナルド」
ヒロ先輩は迷うことなく、コンコースの外に向かって歩きだす。日ざしが暑そうだ。コンコースを出て、交差点を渡った先のビルの一階にマクドナルドがある。
「席取っておくから。フィレオフィッシュのセット。ホットコーヒーブラックで」
一〇〇〇円札を俺に渡すと、すたすたと店の奥に消えていく。さて俺は……まあ一〇〇円マックのハンバーガーって決めてるんだけど。そいつを二つ注文してさらにマックシェイクでも頼むか。
4
「お待たせしましたー」
俺は似ていない店員のまねをして、奥のテーブルでスマホをいじっていたヒロ先輩のところへ。
「ごくろうさま。あ、お釣りはいいよ」
「いやいや、そーゆーわけには……」
「今日はせっかくの日曜日なのにわたしから誘ったし。居候の身だし」
はあ、そうですか。俺一〇〇円マックだから、その分を使わせてもらってもお釣りでるな……まあいいか。ありがたくいただこう。
「あ、俺のマックシェイク……」
ヒロ先輩は意識することなく自然にマックシェイクを手に取り、ストローを挿して一口。
「あ、ごめん。素で間違えた」
ヒロ先輩は恥ずかしそうに笑う。こんな照れた笑顔は久々に見たかも。そうか、パンデイロを間違えて買った件といい、意外にドジっ娘属性なのかもね。
「では、いただきまーす」
俺は手を合わせてハンバーガーを一口。うん、久々のマックはうまいな。
「ポテト、よかったら食べてね」
ヒロ先輩も小さな声で〈いただきます〉と口にしてフィレオフィッシュを一口。これまた本当においしそうな笑顔だ。
しばし雑談をしながらのディナータイム。これって本当にデートって思っちゃっていいんですかね。ヒロ先輩はどう思っているかはわかんないけど。いつもからかわれてばかりだし。
マックシェイクを口にしていると、ヒロ先輩がじっと俺の目を見る。え? なに?
「間接キッスー♪ い・か・が?」
ヒロ先輩が飲んでいたこと忘れてた。いやいや、そんな反応しなくても……いかがと言われても……やっぱりからかわれてるよな、俺。
「まだ開場まで時間ありますよね? 場所もここから歩いて数分だし……早めに会場入りします?」
ハンバーガーを食べ終えるのにそんなに時間はかからない。俺は音を立ててマックシェイクの最後の一滴までがんばって飲み干しながら尋ねる。
「ああ。少し早く出てきたのには理由があるんだ。これに着替えて」
ヒロ先輩は、スポーツバッグの中から、ひものついたビニールバッグを取り出す。
「……着替え?」
受け取って中をのぞくと、服らしきものが入っている。
「敵情視察なんだ。わがパンデイロ部が来ているのがばれたらまずいだろう?」
そうなのか? 今の私服ならわかんない気もするけど……拒否できない流れだな。
「それに、きみがコスプレ好きだと妹のサツキちゃんから聞いているので、着替えに抵抗はないと思うんだが」
「うそをつけうそを。サツキはコスプレなんて言葉、恐らくまだ知りませんよ」
何を言いだすんだこの人は。っていうかあんたのほうがコスプレ好きなんじゃないかと。割烹着を着ていたり、メイドの衣装を持っていたりとか。
「……わかりました、着替えてきます……外歩ける衣装ですよね?」
「大丈夫。わたしとおそろいなんだからさっさと着替えた着替えた。トイレは店の外だ」
ヒロ先輩はコーヒーを口にしながら、トイレがあるであろう方向を指さす。
「え? その花がらのブラウスですか?」
「おもしろい。それでいこうか?」
ヒロ先輩はカラカラと笑う。まあボケは置いておいて、着替えるか。ビニールバッグを手にマクドナルドを出て店外のトイレに向かう。
トイレにちょうどだれもいないのはラッキーだな。個室に入るとビニールバッグの中身を取り出してみる……って、これ学生服? 洗ってあるようだけど、使用感があるな。まあ外を歩ける格好だったので、何も考えずに着替える。ブレザー系の学校の夏服のようだけど、夏服って詰襟だろうがブレザーだろうが、男子はあまり変わらないな。
あ、ネクタイがあるからこれがワンポイントかな。ネクタイは数回しか結んだことないけど……まあ、こんなもんか。俺は脱いだ服を適当にたたんでビニールバッグに詰め込み、トイレを出る。
「こんな感じでっしゃろか?」
店内のテーブルに戻ると、ヒロ先輩が〈おお〉と感嘆の声を上げる。
「うん、さらにかっこよくなったね。ブレザー系も似合うね」
ヒロ先輩は立ち上がって俺をまじまじと見る。上下する視線。そんなに見なくても……。
「ちょっとネクタイがゆがんでるね……はい、おっけー」
ヒロ先輩は素早く俺のネクタイの結び目と長さを調整する。手慣れてるのね。
「んじゃ、わたしも着替えてくるから。あ、これ変装用の眼鏡ね。色と形、わたしとおそろいだよ」
ヒロ先輩は俺に眼鏡を押しつけると、もうひとつのビニールバッグをスポーツバッグから取り出して店外のトイレに向かう。眼鏡ねえ……俺は眼鏡をかけると、ガラスに映る自分の姿を見る。普段の生活で眼鏡はかけたことがないので、なんか不自然に変装しました感が出ているような気がする。
「お待たせ」
数分後、ガラス越しに映る自分の姿で遊んでいると、ヒロ先輩がテーブルに戻って来た。声に振り向くと、女性用の夏服のブレザー。ベストも着ている。そして髪はポニーテール、そして眼鏡……。
「どお? うちの吹奏のライバル校、城坂高校の制服だ。知り合いから借りてきたんだ。きっと溶け込むと思うよ」
ヒロ先輩は眼鏡のフレームをつまんで、インテリぶったポーズを取る。
ポニーテールは後頭部に髪をまとめて結わえる。そのため、当たり前だけど正面から見ると長い髪が隠れてショートカットっぽくも見える。
ショートカットに眼鏡。
見覚えがある。
俺が小六の時に見た吹奏楽のイベント。
やたらとテクニカルなマリンバを楽しそうにたたいていた小さな少女。
俺は名前は覚えていなかったけど、大江は覚えていた。
あの時のマリンバの少女、アソウヒロコの面影を残すヒロ先輩の姿がそこにあった。
5
「おや? きみはブレザー萌えだったっけ?」
「どっちかというと眼鏡萌えです」
俺は何を言っているんだ。
頭が混乱している。
それにしても似ている。
俺が小六の時に見た吹奏楽のイベントでマリンバをたたいていた少女アソウヒロコ。それが実はヒロ先輩……工藤尋子? 年齢的にも可能性はあるけど、名字が……そうか、ヒロ先輩は母子家庭だと言っていた。離婚などの家庭の事情で名字がアソウから工藤に変わったというなら、がてんがいく。そういえば、先日の部室に梶先輩が来た時、〈あ……〉と言いかけてから〈工藤さん〉って呼び直していたような気がする。
そして、名字で呼ばれることを嫌うヒロ先輩……いや、しかし……それって、できすぎだ。
俺はそのマリンバを楽しそうにたたく少女を見て吹奏楽を始めた。あいにくマリンバをさわることはなかったけど、それでも吹奏楽の道に進んだ。
そんなヒロ先輩は、俺の大失敗した演奏会を見てマリンバからパンデイロにくら替えした。
そして俺は吹奏楽の道から外れたけど、今こうしてヒロ先輩とパンデイロ部に所属している。
……ありえないありえない。これなんて運命なんだよ。運命なんておこがましいか。なんて偶然。
「眼鏡萌えか……見とれてくれるのはうれしいけど、そろそろ会場に行こうか」
ヒロ先輩は相変わらずクールな笑顔でテーブルの上のトレーを手にすると、ダストボックスにゴミを捨ててトレイを置く。
俺はいまいちこの現実がなかなか受け入れられなくて混乱しているけど、真相はヒロ先輩本人に訊かないとわからないだろうなあ……まあそれは今日家に帰ってからでもいいか。あー、びっくりした。今日は純粋に演奏会を楽しもう。
会場の市民会館。俺にとっての思い出の場所。マリンバをたたく少女アソウヒロコに出会った場所。この会場は駅からも近くて立地条件はいい。ロックからクラシック、幅広い内容の公演を鑑賞することのできる場所だ。マクドナルドからも歩いて三分ほど。この市民会館、最近流行りのネーミングライツで大学の名前になったり企業の名前になったりとよく変わるけど、相変わらず〈市民会館〉として親しまれている。
正面の大きな階段のところは、すでに多くの人であふれている。アマチュアの高校生の演奏会とはいえ、吹奏楽の名門校だからけっこうお客は来るんだな。そして、本日演奏する側として出演するわけでもないのに、やっぱり楽器を持った他校の生徒もちらほら。この分なら俺たちも自然に溶け込んでいるだろう。
いや待て。おそろいの眼鏡っていうのは目立つかな……? まあいいや。これが赤色のフレームの眼鏡とかだったらバカップルアピールになるかもしれないけど、濃い青色のフレームだしな。大丈夫、きっと。
腕時計を確認すると一七時〇〇分を過ぎている。外は暑いからな。早く中に入りたい。
大ホール入り口。チケットの半券とパンフレットを受け取り会場へ。おお、いいなこの雰囲気。チケットを見ると〈19列 24〉と〈19列 25〉。席を探すと、前から二つ目の中央のブロックの一番後ろの端っこ。真後ろには座席がなく、通路になっている。けっこういい席なんじゃない?
席に腰を下ろし、さっそくパンフレットを広げる。四部構成のステージのようだ。第三部ではドリル演奏も。うん、なかなか楽しそうだ。
ふととなりのヒロ先輩を見ると、同じくパンフレットを広げて険しい顔をしている……どうしたんだろう?
「あ、そうか。アンコールの演目はパンフレットには書かれないか」
ほっとしたような表情を見せてヒロ先輩は笑う。
「なんかお決まりの曲があるんですか?」
「ま、そんなとこ」
ヒロ先輩はパンフレットを背中と座席のあいだに入れる。
「ここってポップコーンとか売ってないのかな? 口が寂しい」
ヒロ先輩はきょろきょろとまわりを見まわす。
「いや、映画館じゃないんですから。さすがにポップコーンは売ってないでしょう」
「あ、そんなもんなんだ。んじゃジュースもだめかな?」
「だめです。ロビーならいいかもしれませんが……」
っていうかさっき食べたばかりじゃん、この人は……。
6
第四部まですべて終了。
やっぱり名門校の演奏はすごい……中学校とはレベルが全然違う。そうか、うちの高校の吹奏楽部ってこんなにすごかったんだ……正直悔しい。吹奏楽を続けていたら、俺もあのステージに立っていたかもしれないんだよな。
ヒロ先輩なんか本格的な双眼鏡持参で、ステージ上の演奏者の手元を見ていたようだ。オペラグラスじゃ満足しないあたり、ヒロ先輩らしい。
俺は他の観客同様、スタンディングオベーションで出演者を見送り、そのままアンコールを求める拍手をしているところだ。演奏会の開始前にヒロ先輩も気にしていたけど、アンコールはきっとあるだろう。それが予定調和。
俺がノリノリで拍手をしていると、ヒロ先輩に太ももをつつかれる。
「出るよ」
ヒロ先輩は俺の耳元でささやいたかと思うと、俺の返事を待たずに腰をかがめて出口の扉に向かう。ええ? アンコール見ないの? ヒロ先輩も気にしていたのに。
慌ててヒロ先輩を追いかける。ロビーに出ると、ヒロ先輩は手近なシートにスポーツバッグを下ろし、となりに座り込む。
「アンコール見ないんですか? いい演奏だったのに……」
閉ざされた扉の向こうからは、アンコールを求める鳴り止まない拍手が小さく聞こえる。
「急がないとね……曲順が予定どおりだといいんだけど」
「……って、先輩? 何取り出してるんですか?」
ヒロ先輩はスポーツバッグから何やら小さなプラスチック製の箱型のものを二つ取り出す。アンテナのようなものが飛び出している……トランシーバー? 中央にはデジタル表示の窓もある。
「自分のパンデイロ出して。チューニングして」
「は? え?」
意味がわからない。このロビーで練習? 演奏会を見てたたきたくなった? 俺は言われるがままケースからパンデイロを取り出し、チューニングの確認。やや高い音。
「まだわからない?」
わかりません。俺はチューニングキーで少し緩める。
ヒロ先輩も自分のパンデイロをソフトケースから取り出し、チューニングをしながらニッと笑う。
「アンコールに殴り込みをかける」
「は? え? え? 殴り込み?」
意味がわからない。
「最後のアンコール。乱入する。パンデイロで」
「えええっ!」
本気ですか?
「殴り込みだなんてだめですよ! 音楽で平和は歌っても争うためのものじゃないですよ!」
「コンテストは順位を競わない? 金賞はほしいだろ?」
「えーと、それは……」
「バトルって和訳すると?」
「……戦い?」
「ソロバトルとかって、あれはナンセンス?」
いや、なんか丸め込まれつつあるような……。
「音楽で平和的に殴り込むだけさ。よし、チューニングOK」
「いやいや。仮に、ですよ? ステージに上がったとしても、他の楽器の音にかき消されますよ? 客席に音が聴こえないと、バトルにすらならないですよ?」
ステージ上では他の楽器に比べてパンデイロの音は相対的にかなり小さいだろう。演奏予定のないパート、招かれざる客だからだれも気遣ってくれない。マイクなしでは他の楽器の音に埋もれて客席まで音が届かないかもしれない。
「あるよ、マイク」
ヒロ先輩はクリップ型のマイクを二つ取り出す。
「いやいや、先輩。マイクをつけても……PAはどうするんですか? マイクで拾った音をどこで鳴らすんですか?」
ヒロ先輩はニッと笑う。
「これ、トランスミッター。送信機」
先ほどのプラスチック製の箱を指さす。マイクで拾った音を無線で飛ばす装置だ。
「いや、だーかーらー、送信するものがあっても、受信するものがないと……」
ヒロ先輩は楽しそうに鼻歌を歌いながら聞き流している。そしてそのトランスミッターとマイクをつないで電源オン。数字が並んだ紙を取り出すとトランスミッターの何か設定をしてマイクを指先でコンコンとたたき、また設定を変えてコンコンとマイクをたたく。いったいこの人は何をしてるんだろう? と思っていると、何度目かにコンコンとマイクをたたいた時、会場のスピーカーからもコンコンと音がした。
「Que bom! 逆からだったか」
ヒロ先輩は小さくガッツポーズをすると、もうひとつのマイクも同じようにトランスミッターに何か設定し、マイクをコンコンとたたく。今度は一発目で、会場のスピーカーからもコンコンと音がした。
「よしっ」
「え? なんで? なんで会場のスピーカーから音が出るんですか?」
「今日の演奏会、司会の人が二人いたよね?」
俺は黙ってうなずく。
「二人ともワイヤレスマイクだったよね? マイクにスイッチのある」
多分、そうだったような……。
「マイク側にスイッチがあるから、PA側ではフェーダーは上げっぱなしだ。オンオフのタイミングは司会者にゆだねられる。ということで、ワイヤレスマイクと同じ周波数で飛ばしてるのさ、こいつで」
ヒロ先輩はトランスミッターを指さして笑う。
「電波ジャックだ」
「え? どうやって……?」
そりゃ、理屈では可能かもしれないけど……本当に?
「司会の二人。ソニーのワイヤレスマイクを使っていた」
「……よくわかりましたね」
「双眼鏡で見ていたからね」
それで……!
「無線局の免許なしに使うことのできるB規格は三〇チャンネルしかない。マイクに貼りつけられていたチャンネルカラーシールが黄色と赤色だった。そこまでわかればあとは可能性のあるチャンネルは数個しかない」
もうなにを言っているのか意味がわからない。
「……B規格って? でも、ソニーのマイクとか周波数とか……なんでそんなこと知ってるんですか?」
ヒロ先輩はプリントされた紙を手渡してくる。市民会館の音響備品一覧だ。ソニーのマイクのところに○印がつけてある。しかし、こんなもんどこで手に入れたんですか。
「マイクとかの備品の情報は市民会館のWEBでも公開されている。この市民会館の備品で、スイッチ付きのマイクはソニーとゼンハイザーしかない。あとはメーカーのWEBサイトに行って情報を引っ張ってくるだけだ」
「周波数なんて、どうやって調べたんです?」
「電波法だから公開されているよ。WEB上にも情報はある。これ見てごらん」
先ほどまでトランスミッターの設定の際に見ていた紙を手渡される。〈A規格〉〈B規格〉〈C規格〉と項目に分かれ、それぞれに周波数が並んでいる……これって一般常識?
「しかし、本当にここまでうまくいくとは思わなかったよ。きちんと規格に沿ってルールを守っているなんてすばらしい!」
いや、あんたが一番ルールーを守ってないし!
「はい、マイク。演奏のじゃまにならないよう、パンデイロの持ち手の逆側につけてね。トランスミッターはベルトにつけるよ。演奏中、コードをひっかけないように」
ヒロ先輩は俺の腰、左後ろの箇所のベルトにトランスミッターをひっかける。
「いやしかし、ばれたらパンデイロ部、廃部じゃ済まないかも……」
「我々は城坂高校の生徒だ」
ヒロ先輩はパンデイロを構え、ニヤリと笑う……そのために着替えさせたのか!
「先輩、無駄に賢いですね」
俺はブラボー、とテンポ200超えで拍手をする。本気で関心した。
「ありがとう、よく言われる。あと、他に訊きたいことは?」
「……今回の殴り込みの理由は何なんですか?」
一応訊いてみる。ただ楽しいから、それだけの理由かもしれないけど。
ヒロ先輩は右手の人差し指を立てる。
「ひとつ。パンデイロ部をばかにされた」
ばかに……先日の梶先輩の一件だろうか。
次に右手の中指も立てる。
「ふたつ。大切な部員であるきみをばかにされた」
え?
それでわざわざ?
「売られたけんかは買わないとね」
ヒロ先輩は手鏡を取り出し、前髪を気にしている。本当にやる気だ、この人……。
「他に訊きたいこと、心配事は?」
「……ステージに上がったあとの手順は?」
もうここまで来たら行くしかないんだろうなあ。俺は覚悟を決めて腕時計を外す。
「きみも空気を読むのは得意だったよね?」
「当たって砕けろと……」
「いやいや、そこは臨機応変と言おう」
ヒロ先輩は胸を張ってカラカラと笑う。
「では、殴り込み前の儀式……決起の舞でもしようか。四小節で二回まわそう。はい!」
例によって、いつもの感じでパンデイロをたたきだす。殴り込み前なんて言うからもっと攻撃的なリズムで来るかと思ったらシンプルに8ビートをたたきだした。もっとも、最後の一小節はスネアの位置を細かく変えてきたけど。
俺もシンプルに同じように8ビート。最後の一小節だけ、やたらとたたきまくってヒロ先輩に返す。
それを受け、ヒロ先輩はシンプルではあるけど三連符を基本に……しかし、スネアの位置だけで聞くと普通の8ビートに聴こえるようにたたく。小ざかしいことするな……カウント取ってないと、さっきより早いリズムでたたいている錯覚に陥るよ。
俺もヒロ先輩と同じ三連符、同じタイミングでスネアを入れる。最後の一小節は8ビートに戻してやった。どうだ!
「迷いがないねえ」
ヒロ先輩は目を閉じてうんうんとうなずく。そしてゆっくりと目を開けると俺の顔をじっと見つめる。
「……好きだよ」
は? この状況でなにを? え?
「その追い詰められてるけどやってやろうじゃないか感のある顔」
ヒロ先輩は声を上げて笑う。またからかわれた?
「……見つかった時、一人だけで責任負わないでくださいよ?」
精いっぱいのかっこつけだ。
「Everybody's business is nobody's business.」
「は?」
「共同責任は無責任。外国のことわざ」
俺が口を開こうとすると、右手でさえぎる仕草。
「ありがとう。うれしいよ。じゃ、いざ向かおうか、同志マサ。完全アウェイな敵地へ」