4
1
「先輩」
ゴールデンウィークが過ぎた五月。
来週は中間テスト開始一週間前のため、本日がテスト前の最後の練習日。うちの高校ではテストの一週間前は部活動が一切禁止される。パンデイロ部は土日に練習は基本は行なわないので、実質今日が最終日。そのため、今日は教則DVDを見ながら基礎練習を中心にやって終わろうということになっていた。
「うん?」
部室に先に来ていたヒロ先輩は例によってパンデイロ片手に教則DVDをテレビで見ている。まあ練習熱心な人だとは思う。
「前から気になっていたんで訊こう訊こうとは思っていたんですが……」
「なんだい、他人行儀な」
ヒロ先輩はテレビ画面に顔を向けたまま。パンデイロをたたく手も止めない。
「ヒロ先輩って、ここ(部室)に住んでません?」
あ、ヒロ先輩のパンデイロのリズムが派手によれた。
静かな部室に、テレビから流れる教則ビデオの音声と、ヒロ先輩のパンデイロの音のみが響く。
「なぜ、そう思う?」
一〇秒ほどの沈黙のあと、ヒロ先輩は口を開く。平静を装っているなあ。
「いや、もうなんていうか、ここ先輩の部屋になってるじゃないですか」
私物の数々。どんどん増えている。
「先月の布団の件とか……あれ、パンデイロまわしの練習じゃなくて、純粋に寝具として使っていたんじゃないですか?」
パンデイロまわしの練習なら、布団の上で練習していたとしても別に掛け布団と敷布団の二つもいらないもんな。っていうか、寝具とかけて〈Sing, Sing, Sing〉のフレーズを鼻歌で歌わない!
「着替えに遭遇したのも、あれってここを自分の部屋代わりにしているから、単に制服を部屋着に着替えていたとか……」
「Que bom!」
ヒロ先輩は親指を立てて笑う。〈キボン〉じゃねえってば。
「きみの推理力には感服する。エルキュール・ポワロの再来だな。よし、きみがわたしの着替えをのぞいたことは不問にしよう。だからこの件も不問にしてくれたまえ」
別に灰色の脳細胞の自慢はしてませんって。まあ、ぶっちゃけヒロ先輩がここに住もうが俺は困らないからいいとはいえ……っていうか、のぞいた、ってあれは不可抗力じゃん。
「なんか先日の幽霊騒動とかあったじゃないんですか。あれ以降は落ち着いているようですけど不審者とか来たら……あれ? 先輩ひょっとして、グラウンドの隅のシャワールームをあのあと使ってたとか?」
グラウンドの隅に、運動部用のシャワールームがある。普段使われない時間帯に、豪雨の中に人影を見たら、そりゃ幽霊って思うよな!
「……あの時〈わかった。気をつけるよ〉なんて返事してましたけど、あれって〈ばれないようにするよ〉って意味じゃ……?」
ヒロ先輩は満面の笑みで親指を立てる。
「そっちの幽霊は先輩でしたか……まさか、だれもいない音楽室から木琴だかマリンバの音が聞こえたってのも……?」
「ああ、それもわたしだ。あの大雨の中、まさか聞こえていたとはなあ……」
いたよ、幽霊。大江のやつ喜ぶな。
「フランク・ザッパの曲をたたいていたって本当ですか?」
「ああ、ザッパの〈Inca Roads〉だ。すごいね、曲までばれていたか」
「ほら、例の先輩が今度デートすると約束したあいつが、音を聞いた生徒に事情聴取して分析してましたよ」
「ああ、あの彼か。次のデートではその辺も突っ込んであげるとしよう……」
いや、〈次のデート〉ってあんたあいつと一回もデートしてあげていないでしょ。
「っていうか、夜の音楽室で何していたんですか?」
「うん? 譜面台があったほうがいいかなと思って……」
部室の隅に置かれた二台の譜面台。来る度に部室内に物が増えていたからいつ置かれたのかはわからないけど、これって盗品かよ……。
「なんで侵入してマリンバまでたたいてたんですか?」
「言わなかったっけ? わたし、昔マリンバをやっていたんだよ。ちょっと懐かしくなってね」
ヒロ先輩は最初からパンデイロをやっていたわけじゃないんだ。なんか意外な気がする。
「なんでザッパだったんですか?」
「趣味嗜好は人それぞ」
「わかりました干渉しません」
っていうか、これ以上干渉したら、俺まで共犯扱いにされそうだ。
「しかし……」
俺は改めてヒロ先輩の住みかでもある部室を見まわす。うん、そんなヒロ先輩の事情がわかると部室に来たというよりは友達の家に遊びに来たような感じがしていたのが気のせいではなかったんだと理解できた。まあ女の子の友達なんていないんだけど。
「この部屋って、内側から鍵かけられませんよね?」
他の教室もそうだけど、もともと教室だったこの部室の前と後ろの扉は外側から鍵はかけられるようになっていても、内側からはかけられないタイプだ。
「夜って防犯上やばくないですか?」
ヒロ先輩は女子生徒からももてそうな雰囲気を持っているとはいえ、それでも女の子だ。夜に鍵もかけられない部室でよく寝られるなあ。
「ああ、それね。廊下側の窓の錠を開けるだろ? これはネジ締まり錠だから鍵はいらない」
部室の廊下側の窓は、昔ながらのネジ式の錠タイプだ。ヒロ先輩は実際に錠を開ける。
「ふんふん?」
「そして、窓を開けておくだろ? で、扉から廊下に出るだろ?」
俺はヒロ先輩に続いて、部室の入り口から廊下に出る。
「扉を閉めるだろ? 扉の鍵をかけるだろ? さっき開けた窓から教室に入るだろ?」
ヒロ先輩は〈よっ〉なんて言いながらさっそうと窓から部室へ入る。
今、一瞬パンツ見えましたよ。俺もヒロ先輩に続いて窓から部室へ入る。
「窓を閉めるだろ? 窓の鍵をかけるだろ?」
ヒロ先輩は窓のネジ式の錠を閉める。
「ムッシュポワロ、密室の完成だ」
ヒロ先輩は両手を広げて天を仰ぐ。プラトーン。
「先輩、無駄に賢いですね」
俺はブラボー、とテンポ100くらいで拍手をする。本気で関心した。
「ありがとう、よく言われる……やっと二人っきりになれたね」
「先輩、昼ドラの見すぎです」
なに後ろ手にわざとらしくそこに存在しない小石を蹴ろうとしてるんですか。
「っていうか、来週から試験一週間前だから、本当に部活動していないかの見まわりが強化されるかもしれませんよ? 試験期間中は家に帰ったほうがいいんじゃないですか? それに……やっぱり女の子一人が学校で夜を過ごすのは……防犯上よろしくないと思うんですが」
「……今日は帰りたくない……」
「なに昭和末期のバブル時代のトレンディドラマみたいなこと言ってるんですか! そんな上目遣いしない!」
「ちぇっ、だめか」
ヒロ先輩ってば無駄にかわいいんだからそんな演技しないでくださいよ。心臓に悪い……。
「家に帰りたくない事情とかあるんですか?」
「趣味嗜好は人それぞ」
「部室に住むのは趣味じゃないですよね?」
俺は初めてヒロ先輩が言葉に詰まった姿を見た。うーん、あまり突っ込んだことは訊かないほうがよかったかな……。
「……いやまあぶっちゃけわが家は母子家庭なんだが」
ヒロ先輩はややあきらめモードで語りだす。母子家庭だったのか。
「母親とは、世間一般の女子高生のいる家庭よりも仲はいいほうだと思う」
母親とマツケンの舞台公演を見に行くくらいだもんなあ。
「というわけで、今は帰りたくないだけなのだ。母親のことは大好きだ。別にけんかしているとか仲が悪いわけではないので心配はしないでくれたまえ。今は帰りたくないだけなのだ」
〈今は帰りたくない〉を強調してヒロ先輩はもうこれでおしまい、と言わんばかりに肩をすくめて俺に背を向ける。
「あの家に一人でいたくないんだよ……」
聞こえるか聞こえないかの小さな声を聞いてしまった。あまり弱気なところを普段見せないだけに、驚くと同時に罪悪感に駆られ、胸が痛くなった。
「……んじゃあ……うち来ます?」
だからこそ、下心なんて一〇〇パーセントなく自然に口に出たと思う。ヒロ先輩を一人にしておけない気がしたから。
ただ、とんでもないことを口走ってしまったという自覚くらいはある。
「ああ! 別にわが家はもちろん両親と暮らしてますし、ね。小学生の妹もいるんで、おねーちゃんもほしいなんて昔言ってたこともあったんで。二段ベッドの空きもあるし……あ、ちょっと学校から遠いんで歩きますが」
とはいえ、両親になんて説明するんだ? OKするのか? 俺と年の近い赤の他人の女の子を泊める? というか、ヒロ先輩に俺って変なやつと思われていないか? まずいまずい……俺、なんてこと申し出てしまったのだろう?
「え? いいのか?」
ヒロ先輩は一瞬驚いた顔をして振り向いたけど、俺の焦りをよそに二秒後には満面の笑みを浮かべている。
「あー……うちの両親への説明が最大のネックですが、理由があればノーとは言わない家庭なので大丈夫だとは思うんですが……」
「それは任せてくれ。渉外は得意だ」
渉外……まあ交渉ごとは得意そうだけど……。
「ではわたしは準備があるから。適当に練習してそのあとは部室に鍵かけて適当な時間に帰宅してくれ」
ヒロ先輩はパンデイロをケースにしまうと学校のバッグに詰め込み、ポケットから部室の鍵を取り出すと俺に弧を描くようにして投げる。俺は慌てて空中でキャッチ。
ヒロ先輩はウインクをすると廊下側の窓のネジ式の錠をフルスピードで解錠、窓を開けるとさっそうとそれを乗り越え、勢いよく部室を出ていった。
今、一瞬パンツ見えましたよ。
足音があっという間に遠ざかる……テンポはいくつだろう? テレビからは教則DVDのパンデイロの音が静かに流れる。
やっぱり俺はとんでもないことを言ってしまったのかもしれない。
さて、家に帰ってなんと両親に説明しよう……しかしヒロ先輩は本当にうちに泊まる気なんかなあ?
2
とりあえず部室で三〇分ほどもやもやしながら個人練習。スザーノ先生の教えをありがたく拝聴。その後、鍵をかけてやや早足で帰宅。しかし家の玄関のインターホンを押しても返事はなし。母親が買い物に出かけていることはよくあるので珍しいことではない。この時間に妹のサツキもいないということは母親と一緒に出かけているのだろう。俺はバッグから鍵を取り出して、家の中に入る。
「ただいまー」
だれもいないとはいえ、これはくせになっている。玄関を確認するけど、母親とサツキの靴はやっぱりない。まだ帰っていないのはラッキーだったと前向きに考えるべきか。一応キッチンに行ってみるけど、やはりだれもいない。家の中は扉を閉め切っている感じの空気だし、留守なんだろう。
階段を上がり、部屋の扉を開けると風の流れが。あれ? 窓開けっぱなし? まあいいや、ここ二階だし。
バッグを勉強机の椅子に置くと、とりあえず二段ベッドの下に腰掛ける。さてどうするか。ヒロ先輩に完全に任せっきりでいいのだろうか? だめだろうなあ。携帯に電話……いかん、ヒロ先輩の携帯の番号知らないじゃん。ってことは、今の俺にはやれることはないのか……。
「おかえり」
びくっとして声のする方向……ベッドの枕元を見ると、布団から目元と素肌の露出した肩を出したヒロ先輩と目が合った。
3
「あんた人の家で……俺の部屋でなに……その……ベッドに横になっているんだよ!」
「ベッドにうぶな女の子が寝ているんだ。もうちょっとうれしそうな顔をしなよ。それと……女の子に恥をかかせるな」
「うぶな女の子は裸でベッドに横たわらない! 恥じらうな! さっさと何か着て!」
俺はベッドから立ち上がり、部屋を見まわしてヒロ先輩の服らしきものを探すけど見つからない。くそ、とりあえず俺の部屋着でも着ててもらうか……ほんと何考えてるんだよこの人!
「着替えをのぞいたくせに」
「あれは不可抗力!」
「つまんないな。襲ってきたらそれをネタにいろんな意味で上下関係の上になってやったのに」
ヒロ先輩はのっそりとベッドから起き上がる。思わず俺は振り向いてしまい慌てて目を手で覆うけど、布団の下にはしっかりとタンクトップを着ていた。ご丁寧にわざと肩だけが出るようにして。ずらしてあったタンクトップとブラの肩に引っ掛ける部分を定位置に戻しながら俺に笑顔を見せる。
「裸だと思った? すっぽんぽんだと思った? 裸じゃなかった気分はどんな感じ?」
ヒロ先輩は俺の後ろから飛びつくようにして両肩に手を置き、顔を近づけてくる。くそー、完全にからかわれてるよ……。
「どこから忍び込んだんですか?」
玄関にヒロ先輩の靴は見当たらなかった。
「うん? 玄関から」
「知らなかった。先輩にピッキングの前科があったとは」
「失礼な。ちゃんとインターホン押して母君にごあいさつしたよ」
ヒロ先輩は〈よっこいしょ〉と、部屋の中央に置かれたテーブルに手をつきながらクッションに座る。
「ええ? まじで?」
「わたしは、うそや冗談が好きではないのは知っているだろう?」
「その辺の議論は後日また改めてしたいところですが……」
もう母親に会っているということ? 変なふうに誤解されていなければいいけど……望み薄かな。ということは、靴は俺をからかうためにわざと隠していたわけね。
「ささやかだけどごちそう作るから家でゆっくりしていてね、と妹さんと笑顔で出ていかれたぞ」
まじで。っていうかサツキとも、もう会っているのか。
「……俺の母親に何て説明したんですか?」
「秘密」
そうですか。
「そーいえば俺の家の住所、どーやって調べたんです?」
「ん? ああ、創部メンバーに名前を連ねてもらう時にひととおり調べさせてもらった」
そうか、団体設立申請書に俺の名前も書かれていたけど、俺の漢字のフルネームは知ってるはずなかったもんな……どこで調べたんだろう?
「お。お帰りのようだ」
玄関の鍵を開ける音。え? 本当に大丈夫なのか?
「ただいまー。おにーちゃん、いるー?」
「おかえりー。さっき帰ってきたよ」
……って、俺より先に返事するなよ、ヒロ先輩!
ヒロ先輩は立ち上がるとちゅうちょなく部屋を出て行き、一階へと下りていく。さて、俺はどうすればいいんだろう?
4
俺が入部したパンデイロ部の先輩。
ヒロ先輩の家は今現在、親が長期出張中。
家では今現在ヒロ先輩の一人暮らし状態。
中間テストが迫っている。
部活の演奏会の本番も迫っている。
ヒロ先輩は学年トップクラスの成績。
ならば俺の家に泊まって、ヒロ先輩が俺に勉強とパンデイロを教えれば一石三鳥。
……というような説明で俺の母親を説き伏せたらしい。とはいえ、俺がその場にいないのに、よくもまあ納得させられたもんだ。っていうかそこはもっとあやしめよ母上。あやしい勧誘にいつかひっかかりそうで怖いなあ。
母親がOKを出したのなら父親もOKを出すだろう。たとえ父親が反対したとしても母親が丸め込んでしまうだろうから。
俺の家なのに、母親、サツキ、ヒロ先輩の三人による女性特有の異様な盛り上がりの中で夕食は進み、アウェイな雰囲気に包まれて俺は箸を進めた。俺、夕食中に何かしゃべったっけ? 今日は母親が張り切って作った手の込んだ煮込みハンバーグでおいしいんだけど……味わかんねぇっす。
俺は早々に食事を済ませると、一人二階の自分の部屋へ。まだまだ盛り上がってるんだよ。女三人寄ればかしましい……本当なのね。
とりあえず、明日の学校の授業の教科書をバッグにほうり込む。しかし、ヒロ先輩はどこで寝るんだ? 二段ベッドは確かにあるんだけど、俺の部屋なんだよな……俺がサツキの部屋で寝ることにすればいいのか。二段ベッドの上、今はCD置き場になっているから片付けないとな。
聞きなれないテンポで階段を上がる足音……ああそうか、ヒロ先輩だな。
「入っていい?」
ヒロ先輩は、開いている部屋の扉の向こうから顔だけ出す。
「できればベッドに潜り込む前にも確認していただきたかった」
「事前にベッドで待ってますだなんて、そんなこと言えるわけないじゃん」
「誤解されるような言い方するな。顔を赤らめるな」
ヒロ先輩は伏し目がちに両頬に手のひらを添えながら入ってくる。そのまま部屋の中央にあるクッションの上に腰を下ろす。
「さて、一応許可を取っておこうかと」
「なんでしょ?」
「これから妹のサツキちゃんと一緒にお風呂に入ってくるが、構わないか?」
「ご自由にどうぞ。なんで許可が?」
「なんでも、きみは毎日妹さんとこの時間にお風呂に入っているそうなんで、仁義は通しておこうかと」
ヒロ先輩は座ったまま頭を下げる。
「いやいや待て待て。何を勘違いしているかは知りませんけど、妹のサツキはまだ小学校三年生です。高校生の俺が一緒に入っても問題ないでしょ! あと毎日じゃないですから」
何が言いたいのだこの人は。
「ほほう。やっぱり年の離れた妹と一緒にお風呂に入ることに対して、多少の罪悪感……背徳感を感じているわけだ。わたしは突然の来訪者であるのにもかかわらず、先にお風呂をいただくことに対して仁義を通そうと思っただけなのだが」
はめられた? いや、やましいことはないはずだ。っていうか、V2の〈背徳の瞳〉を歌うな。愛は始まってないから。
「年の離れた妹と暮らすだなんて、それは今時の男の子の夢だぞ。うらやましがられないか?」
「妹萌えなんて妄想だよ。実際に妹がいるとわかりますよ」
俺んちの家族計画に、なに口出してるんだよ。
「ま、半分冗談だ」
もう半分は?
「ではお風呂をお先にいただくが……予告をしておこう」
ヒロ先輩はゆっくりと立ち上がる。
「今度はなんですか?」
「男の子というものは、同性の友人の家に遊びに行くとエロ本を探すという一大イベントがあるそうなのだが……あれをやってみたくてね」
「……エロ本はないですよ」
「うむ。きみがもう少し学校から帰ってくるのが遅かったらその言葉の真偽を確認できたのだが……残念ながら、この部屋に入ったところできみが帰宅したのでね。本当に残念だ」
人の部屋をあさる気だったのか……ナイスタイミングだったな、俺。
「というわけで、わたしが風呂から上がったら、きみが風呂に入っているあいだに妹のサツキちゃんと一緒にエロ本を探すので、厳重に隠し直すなり、裏庭で焼いて隠滅するなりの時間を与えよう」
「だからエロ本はないですってば」
俺の熱弁をよそに、ヒロ先輩は俺の勉強机を指さす。
「そのノートパソコン。エロフォルダやブラウザの閲覧履歴、キャッシュなどは大丈夫?」
俺は言葉に詰まる。
「わたしの母親はSEをやっていてね。OSはWindowsやMac、果てはLinuxやBSDまでいろいろとさわらせてもらってるんで、女の子だからコンピュータはさわらせても大丈夫なんて思わないほうがいいぞ? パスワードをかけるのなら、厳重に。ね?」
〈じゃ〉とヒロ先輩は不敵な笑みを浮かべ、片手を上げて部屋を出るとさっそうと階段を下りて行った。
5
結局、そのあとは風呂上がりのヒロ先輩を捕まえて懇願し、コーヒー牛乳が飲みたいと言えば近所のコンビニまで買い出しに走り、腕が痛いと言われれば腕をマッサージし、昔の恋話をしろ、失恋話限定で、と言われれば妹のサツキの面前で語り……なんでバレンタインデーにふられた話とか……俺なにやってるんだろう?
そんなこんなでなんとかノートパソコンをあさるのは思いとどまらせた。エロ画像じゃなくて、ノートパソコンにはいろいろとあるし。いやほんと。
俺の恋話からヒロ先輩とサツキの女子トークが盛り上がり始めたので、俺は一抹の不安を抱えながらもいつもの倍の速さで風呂に入って部屋に戻ったけど、まだ女子トークで盛り上がっていた。
俺は二人をほうっておいて先に自分のベッドに入る。〈好きな人はいるの?〉なんてヒロ先輩はサツキに訊いている。うん、ちょっとその辺は兄としても気になるけど……まあ聞き耳は立てないでおこう。今日は週末の金曜日だから、サツキも明日の心配はいらないのでもう完全に夜更かしモードだ。そして今日はサツキの部屋でヒロ先輩とサツキは一緒のベッドで寝るらしい。なんか二人はかなり打ち解けたな。
そして翌朝。目が覚めるとなぜか両どなりにヒロ先輩とサツキが寝ているというね。
しかも二人に抱きつかれているというね。
その後、ヒロ先輩とサツキが目覚めるまでの二時間、二度寝も寝返りもできずに二人を起こさないようにしながら、ただただ上のベッドの床板の裏側を見つめていた。
6
「あれ? なんかやつれてない?」
月曜日、朝の通学途中。
サツキは近所の同級生と一緒に小学校へ登校するので自宅前で別れ、そこからはヒロ先輩と一緒に学校へ向かう。女の子と登校だなんてある意味夢みたいな状況だけど、金曜日から今まで二日以上ひとつ屋根の下で暮らしているからあまりありがたみがない。サツキと一緒に洗いざらい俺の恋愛歴を知られてしまったしな。まあしゃべったのは俺だけどさ。正確にはしゃべらされたんだけど。
「先輩は元気ですね」
朝からご飯をおかわりしていたしな。
「週末は妹の遊び相手と俺の勉強の監督で疲れませんでしたか?」
ヒロ先輩は楽しそうに笑顔を見せる。
「わたしは一人っ子だからね。なんか弟と妹ができたみたいで楽しいよ」
そうですか。弟と妹、か。まあサツキもお姉ちゃんができたって喜んでいたしな。
「勉強は去年やったやつを教えるだけだから、楽なもんだよ」
「あと、俺の家に居候……って表現は違うかもしれませんが、気苦労とか気疲れとかないですか?」
「気苦労……気疲れ……今までの人生で感じたことがないなあ」
そうですか。まあそうだろうなあ、ヒロ先輩の性格からいっても。
「何事も前向きに。今ある状況を楽しまないとね」
そうですか……あれ?
「そーいえば、先輩お弁当の入ったバッグしか持ってないですね。学校のバッグは?」
ヒロ先輩はサツキから借りた小さなランチバッグだけを手にしている。サツキは小学校で給食があるから、普段は弁当箱もランチバッグも使わない。
「ああ。部室に置いてある」
この人、本当に学校外では勉強する気ナッシングだな。
「そうそう。今日のお弁当はわたしが作ったんで。母君にはちょっとでも楽してもらいたいしね」
週末は俺より遅くまで寝ていたのに今日はやけに早起きだったな……と思ったら。そうか、それなりに気は遣ってくれてるんだ。お昼にはありがたく弁当をいただこう。
で、結局土日の夜もヒロ先輩とサツキと俺でひとつのベッドをともにしたのさ。
だから寝不足なんだよ、ほんと。
7
「おはよ。あれ? なんかやつれてない?」
教室で俺の顔を見た大江の第一声。
「おはよ。まあ、週末にいろいろありまして」
のんびりといつもの週末を過ごすつもりだった。
しかし、先輩が母親に説明した学年トップクラスの成績というのは本当のことらしく、午前中からテスト勉強を強制的にさせられた。先輩は俺の勉強をずっと見てくれるので、先輩自身のテスト勉強は大丈夫なのだろうかと思ったんだけど、〈勉強は学校でするものだ〉と返されてしまった。いや、テスト前くらいはせめて勉強をしたほうが……と思ったんだけど、先輩は本当に家で勉強をしたことがないらしい。まあ学校のバックや教科書は部室に置きっぱなしみたいなんで、どのみち先輩自身の勉強はできなかったんだけど。これが天才というやつか……。
そして一五時からはパンデイロの練習。学校のいつもの放課後の時間帯だ。サツキもパチカで一緒に練習に参加して延々と三人でソロまわし。パンデイロの練習はまあいつもどおりだからいいんだけど、夕食後はふたたび勉強。勉強のしすぎでほんと疲れた。まだ二日とちょっと過ぎただけ。今週はずーっとこんな調子か……あれ、待てよ? テスト一週間前の今週だけじゃなくて、来週のテスト期間だってテストの勉強をするから……あと二週間もこんな調子? ……まじで。
「あれ? なにうんざりした顔してんの?」
大江はなぜか弾んだ声で話しかける。
「まあ、いろいろと」
「あ、そうそう、例の音楽室のマリンバ幽霊のやつ。ポケットレコーダー持ってきたんだよ。これを音楽室に置いといてさ。何が録音されるか試してみようかと。ひょっとしたらザッパのギターも録音……どうしたの?」
「その幽霊だけどさ……正体はヒロ先輩だった」
俺は声をひそめて大江に耳打ちする。
「え? ヒロ先輩って冥府から蘇ってきたの?」
〈おまえも蝋人形にしてやろうかー〉とかなんとかつぶやいている。聖飢魔IIか。
「グランドの白い幽霊も先輩らしい」
大江のボケはスルー。
「ってわけで、幽霊の話はあまりせんさくしないであげてくれ」
「えー」
「ちなみに、ヒロ先輩は曲名をあてたおまえのこと、なんか関心してたぞ」
「おお! それは光栄な……さて、いつデートしてくれるのかなー」
大江は楽しそうに目を輝かす。うん、幽霊から先輩に興味が移ったな。しかしやっぱりまだデートしてもらっていないみたいだな。かわいそうに。
「っていうか、デートの前に来週からテストじゃんー! どうするよ? ドラムたたきてー!」
大江は絶望的な顔をしてため息。
うん、ごめん。俺はけっこういい点数が取れそうだよ。
でも死にそうだけど。
8
お昼の弁当の時間。大江と沢村と俺の三人で弁当を囲む。
俺はいつものように弁当箱を開けようとしたところで、一瞬嫌な予感がした。今日はヒロ先輩が作ってくれたとのことだけど……いや、もちろんそれはありがたいんだけど、ひょっとするとご飯の上に桜でんぶでハートマークをあしらったいたずらとかしていたり……俺はそっと弁当箱のふたを開け、すき間からのぞき込む。OK大丈夫。俺は安心してふたを開ける。まあ、仮にそんないたずらされていても、大江と沢村はネタとして笑ってくれるからいいんだけどさ。俺、生まれてこのかた彼女ができたことないしな、くそ。
母親が作ってくれる弁当より、彩りが鮮やかな気がする。家族以外が作ってくれた弁当……なんか不思議な気持ちだ。彼女に弁当を作ってもらうと、こんな気持ちになるんだろうか?
「あれ? シェフ変わった?」
沢村が俺の弁当を見て一言。けっこう見てるのね、こいつ。まあ見られて困るものでもないんだけど。
「……ああ、今日は……姉ちゃんが作ってくれた」
「へー。姉ちゃんいるんだ」
うん、先週末から姉ちゃんができたというか。まあうそではないよな。
「よくシェフが変わったってわかるね」
「うさぎさんりんごをはじめとする、おかずの装飾と彩りが違うからね」
……そんなに人の弁当ってチェックするものなのだろうか? 俺は手を合わせて弁当に箸をつける。いつもと違う味付け。ああ、でもうまい。あとで先輩にお礼言わないとな。
ふと大江に目を移すと、弁当を前に何か考え込んでいる。
「あれ? どうした? フライのおかずなのにソースが入っていないとか?」
「いや、俺はフライにはしょうゆ派だ」
大江は握っていた手のひらのポリエチレン製の魚の形をしたしょうゆ入れの赤いふたを開け、フライに一気にかける。
「部長のヒロ先輩……ヒロコ先輩?」
「うん。尋子先輩」
「フルネームって、アソウヒロコ?」
急にどうした?
「いや、えーと……たしかフルネームは工藤尋子。工藤静香に神隠しの尋子」
いつもは先輩、ヒロ先輩と呼んでいるから、名字を思い出すのに時間がかかった。
「いや、その説明、逆に漢字のイメージがしづらいから。そうか、工藤さんか……じゃあ違うか」
大江も手を合わせるとフライを箸で口に運ぶ。
「どしたの?」
「木琴……例のマリンバたたいてたのって、ヒロ先輩なんだよね?」
「うん、そうだね」
幽霊の話はせんさくしないでね、と言ったからか、大江は幽霊の話とは、からめて来ない。というか幽霊の話ではないようだ。
「昔さ、吹奏の友達のイベントか何かに誘われて見に行ったことあるんだけどさ。何年前だったかなあ……どこかの学校の演奏の時に木琴……じゃなくてマリンバのすげーうまい女の子がいてさ。その子がそのアソウヒロコって名前だったんだけど」
「それ、小六の時の市民会館じゃね?」
沢村が口を挟んでくる。
「そうそう、小六! 市民会館! もう四年も前かあ……あれ? 沢村も見に行ったの?」
大江のテンションが上がる。
「にーちゃんが当時は吹奏楽部でトランペット吹いてたから、家族で見に行った。あれ市内の中学校の大会じゃなかったかな。いたね、マリンバのうまい女の子。俺、マリンバであんなに速弾き……速だたき? できるって初めて知ったよ」
「曲がウェザー・リポートの〈バードランド〉でさ、あれかっこよかったよね! 俺、あの演奏を見てから、インストものとか洋楽とか聴くようになったもん」
大江は弾んだ声で話す。
「俺もその演奏がきっかけでウェザー・リポート聴くようになって、それがアナログシンセ買うきっかけにもなったなあ、そーいえば」
沢村もけっこうマニアックなんだよな。俺たちの会話は、ばか話の次に多いのが音楽の話だ。
「……それ俺も見に行ってるわ。〈バードランド〉覚えてる」
俺も思い出した。確かに俺もその演奏を聴いている。その演奏を聴いて、中学校で吹奏楽部に入ったくらいだ。
「え? まじで? あの時この三人が同じ空間にいたんだ。へー」
大江は心底驚いた顔をしている。もちろん、俺も沢村もそれは同じだ。
その演奏会の影響で、中学校の吹奏楽部ではもちろんマリンバをやりたかったんだけど、あいにくマリンバを教えてくれる先輩がいなかった。というかマリンバ自体がなかった。しかたがないので太鼓系の打楽器をやるようになった。
「でも、その女の子、ショートカットで眼鏡っ娘だったよね? ヒロ先輩ってロングだし雰囲気違うよね?」
沢村は当時を思い出して遠い目をする。まあ髪型は四年もたてば変わるかもしれないけど。
「おまえってまじめそうに見えて、意外にチェックしてるのね。ってか、その子の名前なんてよく覚えてたなあ」
俺は沢村の観察眼に関心するやらあきれるやら。弁当といい女の子といい。ああ、お琴の部活でもつまみ出されていたっけ。
「はっはっは」
大げさに笑いながら沢村は箸を動かす。
「そうか、ショートカットだったかも。眼鏡かけてたかなあ……でも確かにヒロ先輩とは雰囲気違うね。名前も違うしなー」
大江は残念そうな顔をする。
「んじゃ、例のマリンバをたたく幽霊は、そのショートカットの眼鏡っ娘の亡霊ということにしておこう」
微妙に蒸し返したよ、幽霊ネタ。っていうかその女の子を勝手に殺すなよ。
9
久々に部室に立ち寄らずに学校を出る。帰る家は一緒だからヒロ先輩にも声をかけようかと思ったけど、実は二年の何組か知らないんだよな。創部の申請書には書かれていたと思うけど、覚えていない。弁当のお礼も面と向かって早く言いたいんだけどね。というわけで、一人でさっさと帰宅。
「ただいまー」
玄関の靴を確認すると、サツキの靴はあるけどヒロ先輩の靴は見当たらない。まだ帰ってきていないか。
「おかえりー」
キッチンから顔を出した母親と目が合う。母親はここ最近いつも楽しそうだ。前から笑顔の絶えない母親ではあったけど、輪をかけて笑顔があふれているような気がする。突然の居候のヒロ先輩が家事やサツキの遊び相手、そして俺の勉強も見てくれるので、ヒロ先輩が来たことを心底喜んでいる。
とりあえず二階へ上がり、先に着替えるのがいつもの日常。サツキは見当たらないので、一階のトイレか自分の部屋にでもいるのだろう。部屋の扉を開ける。
先客。
俺はドアノブを握り締めたまま二秒ほど固まる。
「なにしてんだよ?」
扉を開けると、俺の部屋で今まさにセーラー服を脱ごうとしているヒロ先輩にため息まじりで声をかける。
なんだよ、そのしてやったりな顔は。また靴まで隠してドッキリか!




