3
1
一年と半年前の九月。
中学校二年生だった俺は吹奏楽部に所属していた。
吹奏楽部の毎年恒例の秋の定期演奏会オータムコンサート。数時間に渡って開催された演奏会は、最後の第四部まで完璧と言い切れるくらいの演奏だったと部員のだれもが思うほどのでき栄えだった。
最後のアンコール。出演者全員でイギリスのハードロックバンド〈ディープパープル〉のメドレーを演奏するのが定期演奏会の恒例だったんだけど、今回はそのメドレーの一曲目である〈Burn〉だけの演奏にして、できるだけ原曲に近いイメージでやろうと当時の部長の梶先輩が言い出してアレンジをした。
本家ディープ・パープルによるオリジナルの演奏はドラムが超絶にかっこいい。そこを生かして最終的にパーカッション主体にしたアレンジに仕上がった。梶先輩はドラムを担当しているため、気合の入れ方が半端ではなかった。
イントロ部分はいつもどおりのメドレーと同様のアレンジ。途中からアレンジを変えてOG/OBやいつも足を運んでくれる常連のお客さんの度肝を抜かしてやろうとみんなで盛り上がった。
Aメロが始まったところでパーカッション部隊は原曲同様にたたきまくる。今までの通常のアレンジでの演奏を予想していた客席がどよめいている反応がステージの上でも手に取るように伝わっていた。してやったりと俺たちは気をよくして演奏を進める。
ギターソロのパートはアルトサックスがリッチー・ブラックモアのフレーズを忠実に奏でる。一六分音符が並ぶフレーズだけど、アルトサックスの連中は逆に燃えたようで完璧にコピーし、再現した。
そのあとのオルガンソロのパートはトローンボーンが担当。こちらもジョン・ロードのフレーズを正確になぞる。
ふたたびテーマに戻る手前。ここにパーカッション全員でのユニゾンを盛り込んだ。そしてユニゾンに入る手前のソロを俺は任された。四小節の俺のティンバレスソロに続いて一小節の空白、その後パーカッション部隊のユニゾン演奏。
に、なるはずだった。
たった四小節のティンバレスのソロ。
しかしソロになった途端、自分が今何小節目をたたいているのか……いや、何拍目をたたいているのかすらわからなくなり、うまく四小節でまとめきれなかった。その瞬間、頭の中が真っ白になる。俺はどうしていいのかわからず、ただティンバレスをたたき続ける。中途半端に演奏を止めると失敗した、と観客にばれてしまう。とはいえ、たたき続けていればなんとかなるものでもない。
きっとそんなには長い時間ではなかったはずなのに、永遠に続くような長い時間に感じた。俺が予定外の行動に出てソロをたたき続けているので、他の部員の視線が突き刺さる。動揺しているのも手に取るようにわかる。俺は怖くて顔を上げることはできなかったけど、恐らく俺同様に真っ青な顔をしていたと思う。ありえないテンポの心臓の鼓動が聞こえる。そしてその鼓動が、ティンバレスソロのテンポを徐々に速めていく。
いや、落ち着け。
まずはこのソロをまとめて終わらせればいいんだ。そうすれば他のメンバーも当初の予定どおりユニゾンに持っていってくれるだろう……とはいえ、いっぱいいっぱいのこの状況で、どんなフレーズでソロをまとめ上げるか全然思いつかない……フレーズの引き出しはもう全部開けてしまって空っぽだ。ええい、でもやるしかないだろう!
次の瞬間、クラッシュシンバルに続いて大音量のドラムが聞こえた。
俺は驚いて自分の手を止めてしまった。そのあいだもドラムソロは止まらない。ドラムの梶先輩は半分あきれた顔をしているが、もう半分はこのアクシデントを楽しんでいる顔だ。俺と視線が合うとニヤッと笑う。
「ハチ! ハチ! ティンパニ!」
梶先輩は後ろを振り返り、ティンパニの部員に向かって叫ぶ。恐らく、八小節でソロをまわせ、と言っているのだろう。ティンパニは黙ってうなずき、了承の旨を伝える。そして予告どおりに梶先輩はドラムソロをきっちりと八小節でまとめ上げると、ティンパニはソロを引き継く。
「バスドラ!」
梶先輩は叫びながらバスドラムの部員と目を合わせ、両手の指で8を示す。おなじく八小節でソロをまわせという指示だ。バスドラムは満面の笑みを浮かべると親指を立てる。そしてティンパニからソロを引き継ぐと澄ました表情でシンプルに三三七拍子をたたく。客席からは笑いが起こる。観客ものってきて、一緒に手拍子をする。予定外の行動だが、照明のスポットライトは的確にソロをたたくメンバーを照らしだす。
「スネア!」
もうここまでくると八小節でまわすというのは全員理解している。スネアドラムの部員はうなずいてソロを引き継ぎ、ロールを中心にソロを取る。
「トムトム!」
梶先輩は笑顔で同じように両手の指で8を示してトムトムの部員と目くばせ。トムトムも笑顔でうなずいてソロを引き継ぎ、最初の一小節はスティックのみでリズムを刻むと次はオンリムのみでリズムを刻み、そして最後はたたきまくる。梶先輩の思惑は、どうやらドラム……太鼓系の楽器だけでソロまわしをしようとしているらしい。
しかし、今たたいているトムトムで太鼓系は最後だ。どうする気なんだろう? もう俺は完全に梶先輩に頼りきっている。
「次! 三上! もう一度まわせ! ヨン!」
俺はすぐに反応してソロを引き継ぎ、今度こそ間違えずに四小節をたたききる。そしてそのあとはさっきと同じように、ドラム、ティンパニ、バスドラム、スネアドラム、トムトムと四小節ずつまわす。このあとはどうする気なんだろうか? 二小節でまわすのか? でもそのあとは? 俺は梶先輩の顔をうかがう。
「次でやり直せ! 四小節のソロ! ブレイク! そのあとユニゾン! 行け!」
俺は大きくうなずく。ここで元に戻るのか……絶対に間違えるもんか。俺はソロを受け継ぐと、当初のアレンジどおり四小節のソロをたたく。右足で大げさなまでに大きくカウントを取りながら。
1、2、3、4。
1、2、3、4。
1、2、3、4。
1、2、3、4。
そして一小節のブレイク。
そのあとに続く、パーカッション部隊のユニゾン……成功!
テーマに戻り、演奏は無事最後まで持っていくことができた。
演奏が終わった瞬間に割れんばかりの拍手。客席にはスタンディングオベーションをする姿もたくさん見えた。
終わった……終われた……。
俺は腰が抜けて一瞬ふらついたけど、なんとか持ちこたえる。
「結果オーライ。超楽しかったよ」
拍手の中のステージ上で梶先輩は俺に近づくと笑顔を見せ、スティックで俺の尻を軽くたたく。
結果、なんとか演奏会は無事終了した。
楽屋に戻っても、俺を責める人はいなかった。しかし、逆にそれがとてもつらかった。
俺は梶先輩に頭を下げ、その場から逃げ出した。それ以降は部活動に顔を出すこともなく、そのまま中学校を卒業した。
これが、俺が吹奏楽を離れた理由だ。
そして、どうもこの時の演奏会をヒロ先輩は見に来ていたようで、やたらとソロまわしのことを話題にする。
気に入ってくれているようなんだけど、この時のソロまわしは俺の失敗が生んだ突発的なできごと。失敗を立て直すために無理やりソロまわしをやったのであって、梶先輩はほめられても俺自身がほめられる理由は何ひとつない。
2
「なんですか? これは」
翌日の放課後の部室。俺は部室に入るなりヒロ先輩に尋ねる。
「ああ。おつかれ。やっぱりここは音楽の部室なんでね。吸音材を壁に貼ってみようかと、ね。音が反響すると、うまくなったと錯覚してしまうからさ。リバーブがほしければ廊下でたたけばいいし」
そう言いながら、ヒロ先輩はどこから持ってきたのか脚立の上に立って食器洗い用のスポンジみたいに表面がでこぼこしたシート状のものを壁に貼りつけている。そして今日も割烹着姿で頭には三角巾。さすがに二日目でも割烹着姿にはまだ慣れない。
「いや、それじゃなくて、この机の上……」
俺は部室の中央の長机の上になぜか敷かれている布団を指さす。
「……ああ、そっちか。ごめん、片付け忘れていたよ。朝急いでいたんでね」
ヒロ先輩は慌てて脚立から下りると、珍しく少しはにかんだような笑顔を見せて布団を強引にたたむと袋状のケースに押し込み、部室の後方のロッカーの上にほうり投げる。朝急いでいたって? 朝もこの人は部室に来ているのか? 一人で朝練でもしているのかな?
ほんと熱心だなあ……パンデイロまわし。
まあ演奏のほうも俺より断然うまいから文句は言えないんだけど。俺は心の中で少しあきれながらスペースの開いた長机の上にバッグを置く。
「手伝いましょうか? スポンジ貼り」
「吸音材、ね。うん、頼むよ」
俺はヒロ先輩からスポンジ……じゃなくて吸音材を受け取る。三〇センチ四方よりやや小さいくらいかな? 裏返すと、すでに両面テープが貼られている。
「背の届く範囲は貼りつけたんで。あとは上のほうだけだね」
ヒロ先輩は女子生徒の中では背は高いほうだと思うけど、脚立に上って高所作業というのは難しいよな。俺が脚立に上がると、ヒロ先輩は脚立を押さえる。
「これ買ってきたんですか?」
俺は両面テープの剥離紙をはがしながら尋ねる。壁という壁に貼りつけているから、単なるスポンジでもけっこうな金額になると思うんだけど。創部したばかりの部活に予算ってもらえるんかな?
「ああ。知り合いが持ってたんで……譲ってもらった」
〈譲ってもらった〉というせりふが出てくるまでに若干の間があったのが気になるけど……気づかなかったことにしておこう。
「ヒロ先輩、几帳面ですね」
吸音材の裏に貼られた両面テープの位置、切り方、そして壁に貼りつけられた吸音材。まるで測ったようにきれいにそろっている。俺もここまでのヒロ先輩の苦労を無にしないように、慎重に吸音材を壁に貼りつける。
「ありがとう。よく言われる。何事も見た目から入るタイプなんでね。かっこいいほうがいいだろ?」
俺はちらっと足元で脚立を押さえているヒロ先輩の顔を見る。無邪気な笑顔だな。しかし、割烹着がかっこいいかどうかは議論の余地があるよな。ごく一部の業界では萌えの対象になるのかもしれないけど。
吸音材の貼りつけ作業は、ほとんどヒロ先輩が貼り終えたあとだったので部室の壁の上部にいくつか貼りつける程度で終了。
「よし。終わりましたね」
俺は脚立を下りると、壁という壁に貼りつけられた吸音材を見まわしながらパンパンと手を払う。うん、きれいにできたんじゃないかと。
「まだまだ」
……まだまだ? 俺は部室を再度見まわすが……貼り忘れた箇所は……ないよな?
「んじゃ、次は天井もやろうか」
ヒロ先輩はにこやかな顔をして上を指さす。まじで。確かに吸音材がまだやたらとあるなあとは思っていたけど……そこまでこだわるか。俺は心の中でため息をつき、脚立を部室の前方の扉付近へ設置。角から順番に貼りつけていくか……これ今日中に終わるかなあ。
脚立を上がってヒロ先輩から吸音材を受け取り、両面テープの剥離紙をはがす。壁に手をつきながら、すき間ができないように。順調に貼りつけていくけど、壁から離れた箇所になると途端に脚立の上はバランスが悪くなる。脚立の上に立ち上がって両腕を伸ばす格好だからなあ。
「気をつけてね」
「はーい」
ヒロ先輩は先ほどよりも脚立を押さえる手に力を入れたようだ。ま、こんな作業女の子にはさせられないよな。俺は足場を確認して、吸音材を手にして立ち上がる。
「あ」
気をつけようと思っていたそばから足が震えてバランスを崩す。まずい。落ちても大した怪我にはならないしネタになるから俺はいいんだけど、足元のヒロ先輩の上に落ちたら……。
「おっと」
ヒロ先輩は慌てて脚立を数段上ると俺の両足に抱きつくように両腕をまわす。
「大丈夫?」
しっかりとした先輩の腕の力が両足に伝わり、焦っている目つきのヒロ先輩と視線が合う。
「あ、すみません」
俺は平静を装ってバランスを立て直し、天井に腕を伸ばして作業を続ける。
うん、胸が足に当たってる、とは言えないよな。
3
「よし、終わり! 今度こそ終わりですよね? 天井裏とか床とか、まさか窓ガラスにまで貼りつけるとかはないですよね!」
俺は半分やけくそぎみに叫ぶ。
「うん、大丈夫。それに吸音材も残りはこれ二つしかないしね。おつかれさま」
ヒロ先輩は先に脚立を下りると、〈うーん〉と言いながら伸びをする。
両足がヒロ先輩の腕から開放されると、俺は勢いよく脚立から飛び降りる。やけくそぎみなのは、半分はヒロ先輩に抱きつかれながらの作業の照れ隠し。もう半分は思っていた以上に作業が続いたため、本当に腕の疲れが半端じゃないからだ。ずっと両腕を上げっぱなしだったからね。ぶどう狩りの後のような疲労。もう吸音材貼りはやりたくない。
「疲れた……まじ疲れた……」
俺は椅子に腰を下ろすと、両腕をだらんと垂らしてぶらぶらさせる。
「助かったよ。やっぱり男の子にお願いすると作業の効率がいいよねー」
いやいや。あのあとヒロ先輩は心配して脚立に俺が上がるたびに足に抱きつくから……足に押しつけられてるから早く終わらせたかったんですよ……純情な少年の心をもてあそんでいるのに気づかないだなんて。
ヒロ先輩は鼻歌を歌いながら三角巾と割烹着を外す。そして冷蔵庫からカルピスの瓶と何やら緑色の瓶を取り出す。何作る気だろう? というか、冷蔵庫の中身も地味に増えているような……まああまりせんさくせずにありがたく作ってくれるのを待つことに。もうのどもからから。
俺は改めて部室の壁、天井を見まわす。うん、きれいに貼りつけられたと思う。まあ、壁の大部分はヒロ先輩が貼りつけたんだけど……って、そういえば、いつの間にこんなにたくさんの吸音材を貼りつけたんだろう? 壁だけとはいえ、これ全部貼りつけようとするとけっこう時間がかかると思うんだけど……あ。朝練じゃなくて、朝早くに学校に来て貼りつけていたとか? そうだとすると、なんかちょっと申し訳なかったなあ……。
「はい、ほんとおつかれさま。今日は特製」
長机の上に、いかにもよく冷えた感じのグラスに満たされたカルピスが出される。
「いただきまーす」
グラスに口をつけて、勢いよく一口。ん? 炭酸だ。
「あれ? 今日はカルピスソーダですか?」
さっきの緑色の瓶は炭酸水か?
「カルピスのペリエ割り。豪華でしょ?」
ヒロ先輩もおいしそうにカルピスを口にする。ペリエがわからない。まあ炭酸水のブランドかなにかということにしておこう。
「今日は腕も疲れているみたいだし、練習は、なしだね。DVDでも見ながらおしゃべりターイム、にしようか」
ヒロ先輩はグラス片手にテレビとDVDプレーヤーの電源を入れる。っていうか、DVDプレーヤーもいつの間に部室に持ち込んだんだこの人は。そういえば、私物らしきものの数も昨日より増えているような。吸音材を貼りつけても、私物が多ければそれに反響してしまいそうな気もするけど、いいんだろうか?
ヒロ先輩はテレビが置かれているラックの下に並んだDVDから、少し悩んで一枚のDVDを取り出してプレーヤーにセット。流れ始めた映像は、外国のミュージシャンのライブだ。
「ギター抱えてるけど、この人スティングですか?」
「お、よく知ってるね」
「〈Englishman In New York〉しか知らないですが」
イギリスのアーティスト、スティングの代名詞的な曲。しかし、今流れている一曲目は違う曲だった。しっとりとしてスティングらしい、いい曲だと思う。
「これ、歌詞って何を歌ってるんですかね?」
「鋼の刃が刺さって血が流れる歌」
「うわ、サディスティックな……」
なんとなくヒロ先輩のイメージに合っているような。っていうか、スティングってそんなメタル調な歌詞か?
「では、我々は三上くんをリーダーとして〈サディスティック・ミカミ・バンド〉と名乗るとしようか」
「なんで俺がサディストになってるんですか!」
微妙にうまいこと言うな。いや、いろんな意味でだめだって。
「人間のはかなさと愚かさを歌った曲だよ」
ヒロ先輩は俺の反応を見て楽しそうにつぶやく。ああ、そうなんだ。またからかわれたのね。
「お洒落な音楽聴いてるんですね」
ヒロ先輩は俺をいちべつして、すぐにテレビに視線を戻す。
「お洒落……? 音楽にお洒落とかダサいとかなんてないよ。音楽にあるのは好みか好みでないかの二つだけ」
含蓄のあるような、でないような。俺も前のめりになってテレビを凝視する。
「なるほど……あれ?」
ドラムとは違ったリズムが聴こえ始める。
「この音ってひょっとしてパンデイロ……ですね」
俺がテレビ画面を指さしたところで、パンデイロを手にしたミュージシャンが映る。
「かっこいいだろう。この人はマルコス・スザーノ。パンデイロに革命を起こした人。このライブではシンプルにたたいているけどね。パンデイロをやるなら絶対にこの人の名前にぶつかるから覚えておくといいよ」
「へえ、革命ですか……どんな?」
ヒロ先輩の口ぶりから〈革命を起こした〉が大げさな比喩ではないように感じたので迷わず訊いてみる。
「パンデイロって、もともとは振ってたたいてまわして投げてと単純な使われ方しかされていなかったのを、それひとつでドラムセット並のバリエーションのある音色を奏でることのできる楽器へと進化させる演奏方法を見つけた人さ」
「へえ……」
このおじさんが? というのがすなおな印象だ。しかし、ヒロ先輩がこんなふうに説明するなら本当にすごい人なのだろう。俺ももっと勉強しないとな。
4
「おはよ。スティングの曲、入ってる?」
翌日。朝のあいさつも早々に、先に教室に来て片耳のイヤホンで音楽を聴いている大江のiPodを指さす。
「おはよ。スティング? ……ああ、マルコス・スザーノが参加してるライブあったもんね」
さすが音楽マニア。話が早い。そうか、マルコス・スザーノって有名なんだ。
「ポリスなら入ってるけど」
ないんかい。ちなみに、ポリスはスティングが参加していたバンドだ。
「こっちはドラムがスチュアート・コープランドだからね。コープランドのドラムってさ、」
「話、長くなる?」
「冷たいのね」
大江はわざとらしく大きくため息をつく。
「そーいえば、部活どうなの? やってんの?」
俺はバッグから一時間目の教科書もろもろを取り出しながら、どうこたえようか一瞬悩む。
「あー……昨日は吸音材を壁一面に貼りつけたり」
「まだそんな段階なんだ」
「いや、一応おとといは練習したんだけど……」
よくよく考えたらまだ一日しか練習してないな。パンデイロ、毎日持参しているのに。ま、これからだね。
「で、入部したってことでいいんだよね? まだ仮入部?」
「うーん……まあ、入部でいいのかなあ……」
なんだかんだで毎日行ってるしな。書類上は俺も創部メンバーだし。
「んで、そっちはどうなの? ジャズ研」
「思っていた以上に、どジャズだった。もっとバスドラをがしがし踏みたいよ」
一応ため息はついているものの、楽しそうな表情で机の上を指先で4ビートをたたく。ほんと、こいつは音楽ならなんでも好きなんだな。
5
扉に鍵がかかっていた。
放課後。教室の掃除を終えてからのんびりと校舎三階の部室に来たけど、まだヒロ先輩は来ていないようだ。扉のガラス越しに中をのぞいてみるけど、人影は見えない。そもそも内側から鍵はかけられないタイプの扉だよな、この教室の鍵って。あれ? 中にヒロ先輩の学校のバッグあるな。一回は顔出しているのか?
「知らなかったよ、きみにのぞきの趣味があっただなんて」
驚いて声の主に振り返ると、ヒロ先輩がスポーツバッグ片手に本当にあきれた顔をして立っていた。
「大丈夫、ここだけの秘密にしておくから。大丈夫! 皆まで言うな。ああ、本当に! わたしは大丈夫。ちょっと今も心臓がどきどきしているがすぐに慣れるだろう。突然だったからびっくりしただけだ。わたしの人生でのぞきを趣味にしている人に出会ったことはなかったんでね。こーゆー人もいるんだとわかっていれば心の準備もできるし。趣味嗜好は人それぞれだ。ああ、猫ストーカーしている友人はいたが、あれはのぞきとはまた違うものか。きみのすべてに干渉する気はない。もっともきみはわたしのあられもない姿を期待してこっそりと鑑賞しようとしていたようだが」
「わかったからしゃべらせろよ! なに干渉と鑑賞をかけてうまいこと言った感を出してドヤ顔してるんだよ!」
「うわ、居直った」
「部室の鍵がかかっていたんで、ちょっと中をのぞいただけですよ」
「なんだ、本当にのぞきだったんだ」
「口の前にこぶしを持ってきて驚いた顔しないでください。けっこうショックですよ、女の子にそんなポーズされてそんなこと言われると」
「冗談だよ冗談。人生に笑いは必要だぞ。笑われるより笑わそうぜ。はっはっは」
……この人に勝とうとは思わないようにしよう。っていうか、今日はいつもにも増してハイテンションだな。
「んで、どうしたんですか? 教室に忘れ物でもしてたんですか?」
扉の鍵を開けているヒロ先輩の背中に声をかける。
「ああ、家に着替えを……」
そこまで言いかけて〈あっ〉と口を押さえる。
「……いやらしいな。今〈着替え〉と聞いて何を想像した? あられもない乙女の姿を想像しただろう?」
……想像しねえよ。あられもない姿はもういいです。そしてなんでねらったようにバッグからあられを取り出すんだよ。あられはもういいっての。っていうか自分で自分を乙女って言うなよ。
部室に入るとヒロ先輩はそのままバッグを部室中央の長机に置き、中からさらにあられやせんべいのパックが数袋、そして急須と湯のみも出てくる。
「なんですか、この和なチョイスは?」
「趣味嗜好は人それぞれだ。きみのすべてに干渉する気はな」
「わかりました俺も干渉しません」
俺はヒロ先輩の言葉をさえぎって棒読みでこたえるとバッグを長机に置き、バッグからパンデイロケースを取り出し、さらにケースからパンデイロを取り出して軽くたたく。
「あれ、かなり緩んでるな」
俺はチューニングキーを取り出し、キーボルトを閉める。
「雨が来るのかもね」
ヒロ先輩は俺に背中を向けて、さっそく持ってきた急須で緑茶を淹れている。今日は緑茶か。しかし電気ポットまで持ち込んでいるんだ。
「あ、どうも」
長机の上になみなみと注がれた湯のみが二つ置かれる。あられの入った菓子器も添えて。まあ俺もあられや緑茶は実は好きだったりする。母親が好きだから、小さいころから当たり前のようにおやつの時間に出ていた。
俺はチューニングを終えたパンデイロを長机に置くと、さっそくありがたく緑茶を一口。うん、うまい。
「お茶おいしいんですけど、ペットボトルのお茶のほうが手軽でよくないですか? 放課後の部室で飲むだけな……わかりました俺も干渉しません」
いや、別にいいんだけどさ。
しばしヒロ先輩の用意してくれたあられをつまみ、お茶を飲みながら談笑。ヒロ先輩も自分のパンデイロを取り出し、軽くたたいてテンションを確認する。
「ほんとだ。けっこうテンション下がってるね」
ヒロ先輩の今日のテンションは高いですけどね。
「ちょっと貸してね」
ヒロ先輩は長机の上に置いてある俺のチューニングキーを手にとってキーボルトを締め始める。
「わたしのパンデイロお天気占いによれば、夕方すぎには降るね。傘持ってきた?」
「いえ、持って来てないです……」
今日は天気予報も占いも見ないで家を出てきたからなあ……というかパンデイロお天気占いを突っ込むべきだっただろうか?
「わたしのパンデイロお天気占いはけっこう当たるよ。信じてないね?」
「はあ」
スルーしたけど、突っ込んでもらいたかったんだ。
「お天気お姉さんは嫌い?」
「いや。そこかい、重要なところは」
「んじゃ、ばかなこと言ってないで、雨が降る前にさっさと練習しようか」
6
「先輩はまだ帰らないんですか?」
あれから二時間ほど。前回と同じように、ヒロ先輩とのパンデイロバトル……ソロまわし。一〇分やって五分休憩。そしてまた一〇分やって五分休憩。それの繰り返し。気持ちとしては、俺もヒロ先輩も一〇分ではなくもっと長くソロまわしをしたいんだけど、まだ俺の左腕がもたない。一〇分間パンデイロを振り続けるだけでも精いっぱい。もうちょっと体力……筋肉をつけないとだめだな。力の加減もまだわかっていないんだけど。
しかし音楽って、楽器で対話ができるようになると格段におもしろくなる。打楽器、今たたいているパンデイロにはもちろん音階はないけど、その分気持ちが伝わりやすい気がする。打楽器はたたけば音の出る単純で原始的な楽器だからこそ、気持ちが伝わりやすいのかもしれない。そうだよな。中学校の吹奏楽部の例のあのソロまわしも、実はちょっとだけ楽しいと感じていたんだよな。
さすがに二回目の練習ともなると、俺も少しは好き勝手にやれたかな。まあ今更遠慮していても、ね。その俺の開き直り具合が通じたのか、ヒロ先輩も前回より楽しそうにたたいていたように感じる。
俺は空模様を気にしながらパンデイロを軽くクロスでふいてソフトケースにさっさとしまうんだけど、まだ片付けようともしないヒロ先輩を見て何げなく尋ねた。部室を見ても、ヒロ先輩の傘も見当たらない。まあひょっとしたら折りたたみ傘をカバンの中にしまっているのかもしれないけど。
「……ああ、そうだね。先に帰っていいよ。鍵はかけておくから」
うん、そのつもりだ。なぜかヒロ先輩は自分の分のカルピスをもう一杯作り始めているし。っていうか、部室の鍵はヒロ先輩しか持っていないしね。
「今日の練習はエキサイトしたからね。ちょっとのどを潤してから帰るよ」
なんか、今日のヒロ先輩はテンションが変だったり歯切れが悪かったり。変なのはある意味いつものことだけど。
「んじゃ、お先です」
俺はパンデイロケースを学校のバッグに詰め込むとバッグを肩にひっかけ、ヒロ先輩に軽く頭を下げる。
「おつかれー」
ヒロ先輩はカルピスの入ったグラスを掲げて笑顔を見せる。
俺は部室を出て廊下を歩きだす。ヒロ先輩のパンデイロお天気占いを信じるわけではないけど、さっき部室の窓から見た空模様はあやしくなっていた。
しかし、やぎ皮を使った楽器は湿度の影響を本当に受けやすいね。今まではプラスチックヘッドの楽器ばかりさわっていたから、あまり湿度の影響を受けなかったもんな。家帰ったらまたパンデイロのテンションが変わっていたりして……あれ? そーいえばチューニングキーってしまったっけ? パンデイロをケースに入れた時、チューニングキーを入れた覚えはない。
俺は立ち止まってバッグからパンデイロケースを取り出し、ケースのポケットを探ってみるけどやはり見当たらない。そういえば部室でヒロ先輩にチューニングキー貸したっけ。部室の長机の上に置きっぱなしか。俺は踵を返し、部室に戻る。
「すみません、チューニングキーの忘れ物って……」
部室の扉を開けると、なぜか上半身下着姿のヒロ先輩が俺の声に振り向いていた。
7
「のぞきの趣味だけだと思っていたんだけど、けっこう大胆なんだね」
「いやいや、なに服脱いでるんですか! 学校ですよ!」
俺はあきれ顔で腰に手をあてているヒロ先輩を目の当たりにして、思わず両手で目を隠す。といっても指のすき間から……いやいや。っていうか下着姿とはいえヒロ先輩もとりあえず胸隠せよ。その両手を腰から胸元に移動させろよ。っていうか、照れろ。羞恥心は? いや、叫ばれたらそれはそれで困るけど。
「体育の時間は着替えるだろ?」
不思議そうな顔で俺を見るヒロ先輩。もう授業は終わっているだろう……いやそうじゃなくて。
「冗談はさておき。どうした? 忘れ物?」
っていうか、あんたがどうした、と突っ込みたい。
「いや、えーとチューニングキー落ちていなかったですか?」
ヒロ先輩を視界に入れないように長机の上を確認したけど、チューニングキーは見当たらなかった。
「……ああ、ごめん。借りたままついくせで……ポケットに入れてしまったかな?」
ヒロ先輩は俺に背を向け、脱いだセーラー服のポケットを探っている。いや、まずは何か着てくださいよ……俺はヒロ先輩を直視しないように、とりあえず体を横に向ける。なぜ背を向けなかったのかは突っ込まないで察していただきたい。
「どこだ……」
腕を組んで片方の手にあご乗せて考えだしたよこの人。しかもこっちを向いて。
「あ、あった」
どうやらスカートのポケットに入れていたようだ。ポケットから取り出し、俺に見せる。
「このチューニングキーは最初の時もそうだけど、どうもわたしのところにいたいようだね」
いや、あんたがいろいろとうっかりしているだけのような。
「はい」
「ありがとうございます」
俺がお礼を言うのも変な気はするけど、俺は顔と体をヒロ先輩に対して横に向けたまま、右手だけを伸ばし、チューニングキーを受け取る。
「んじゃ、失礼します!」
俺は大げさに頭を下げ、部室を飛び出す。もちろん入り口の扉もしっかり閉めて。
「おつかれー。気をつけてね」
扉を閉める一瞬だけ視線を上げると、にこやかに手を振るヒロ先輩の姿が目に入った。階段のところまでダッシュし、いったん止まって息を整える。気を落ち着ける、というのが正解かもしれないけど。
しかし、なんで着替えてたんだ? 雨にでも降られた? まだ降ってないよなあ……。階段を下りながら外を見るけど、運動場はまだ濡れていないようだ。陸上部らしき生徒もまだ練習している。雨が降りだす前に学校を出よう。
少しだけ早足で階段を降りる。遠くで聞こえる吹奏楽部の練習の音。あっちは今日もまだまだ練習するんだろうな。下駄箱でシューズに履き替えて外に出ると、ぱらぱらと雨が降りだしていた。ヒロ先輩、傘あるのかなあ。俺は三階の部室代わりの教室の窓を一瞬だけ見上げると、足早に校門へ向かった。
8
「昨日の夜、学校になんか出たらしいよ」
翌日。
学校の席に着くと、いつも以上の楽しげな表情で大江が耳打ちしてきた。
「なんか?」
「幽霊」
大江は両手を肩の位置まで持ってくると、手首をぶらんとさせる。いわゆる幽霊のポーズ。
「ふーん」
俺はバッグから一時間目の教科書とノートを取り出しながら気のない返事をする。
「あれ? もう幽霊は怖くないお年ごろ?」
小学生じゃないんだから。昔、小学校でもトイレになんか出たとか大騒ぎになったなあ。そうか、今日は教室に入った時から女子が〈うそー〉とか〈まじでー?〉とか、いつも以上に神妙な表情で話していたのはそれか。
「まあ、学校は墓場の跡地に作らなければならない、って戦後に改正された建築基準法で決められたらしいから、学校の怪談は別に珍しくないんだよなあ」
「え? そんな法律あるの?」
「ねーよ」
冗談だよ。
「んでなに? 男に飢えた口先女とかでも出たの?」
「なんだよ、その口だけは達者でツンデレな新人OLみたいな幽霊は。口裂け女だろ」
「まあそうとも言う」
うん、ボケを拾ってくれて感謝。
「昨日って夕方から大雨が降ってたじゃん? なんか暗くなってから女性の白い影がグラウンドを横切ったとか、だれもいないはずの音楽室から音が聞こえたとか」
昨日は俺が学校を出てすぐに土砂降りになったけど、今日は雲ひとつない快晴だ。もちろん昨日は傘を持っていなかった俺はずぶ濡れで帰宅した。
「雨が降りだした時はまだ学校にいたんだけどねえ」
まだあの時は明るかったし、幽霊が出るシチュエーションではないよなあ。しかしベタな幽霊だな。音楽室から音が、ってのもよくあるパターンだよな。
「んで、なんでそんなに楽しそうなの? 彼女できないから、人間以外に手を出そうって?」
「俺、まだ彼女いない歴二ヶ月だもん。焦ってないもん」
へーへー、そうですか。彼女いたことあるのね。うらやましいな。
「幽霊を見たってのが陸上の女子なんだけどさ。中学の時に同じクラスだったから話聴いてみたのさ」
「かわいい幽霊だったかどうか?」
「いや、その音楽室から聞こえた曲が何だったか」
そんな発想、どこから出てくるんだろう? こいつ、本当に音楽ばかだな。
「なんか木琴の音だったらしいんだけどね。木魚じゃなくて木琴ね。その弾いていた曲がどうもフランク・ザッパだったらしくてさー。その幽霊会ってみたくね?」
「フランク・ザッパとマザーズが偶然ライブをやっていた?」
「それディープ・パープルの〈Smoke on the Water〉」
ほんと、なんでこいつはこんなに楽しそうなんだろう?
「フランク・ザッパは名前しか知らないんだよなー」
「この曲らしいよ」
大江は机の上のiPodのイヤホンの片方を俺の耳に突っ込む。しばらくすると控えめの音量で曲が流れだす。
「木琴というかマリンバだね」
俺はバックでたたかれているマリンバの音色に耳を澄ます。
「ポップなフレーズだね……このバックのマリンバの音が雨の音楽室から流れていたの?」
ポップなフレーズだけに、ある意味逆に怖いな。
「らしいよ。〈Inca Roads〉って曲。実際にその陸上の子に聴かせたら〈これこれ!〉ってiPodたたき落とされそうになった」
「なんか不思議な曲だね。これ歌詞って何を歌ってるの?」
「アンデス山脈に降り立ったUFOをテーマに……って信じてないなその顔?」
信じろってか。
「後半の木琴……マリンバもこれがすごいんだよ。またゆっくり聴かせるよ」
「ふーん。んで今回はフランク・ザッパがこの高校の音楽室に天界から降臨された、と? 音楽室にフランク・ザッパの肖像画とかあったっけ?」
「いや、マリンバたたいているのはザッパじゃないんだけど」
あ、そうなのね。
「幽霊が演奏した曲がフランク・ザッパってのは、これ大発見だよ! すごくね? テンション上がらない?」
「うーん……」
すまん、大江。おまえと喜びは分かち合えないようだ。昨日はヒロ先輩のテンションも変だったし、今日は大江のテンションが変だし。
こたえに困っていると朝のホームルーム開始のベルが鳴り、と同時に担任が教室に入ってきたのでラッキーと思ったことは大江には黙っておこう。
9
「昨日の夜、学校になんか出たらしいですよ」
部室の長机にバッグを置くと、俺は何げなく口にする。
「なんか?」
「幽霊」
俺は両手を肩の位置まで持ってくると、手首をぶらんとさせる。いわゆる幽霊のポーズ。
「へえ……そんな非科学的なことをまだ信じてるんだ?」
ヒロ先輩はパンデイロ片手に部室のテレビ画面を見つめながら振り向きもせずにつぶやく。テレビ画面に映しだされているのは最近手に入れたパンデイロの教則DVDらしい。うーん、女の子らしく〈こーわーいー〉なんて反応を少しだけ期待したんだけど、やっぱりヒロ先輩はそんなタイプではないよな。
うん、昨日図らずもヒロ先輩の着替えを見てしまった。俺に非はないとは思うんだけど、とりあえず今日は場を和ませるような話題から入ってみたんだけど……いまいちヒロ先輩のノリが悪いな。
「まあ単なるうわさですけど、暗くなってから白い影がグラウンドを横切ったとか。ヒロ先輩ってば俺より帰りが遅いじゃないですか? 不審者だったりしたら危ないんで気をつけてくださいね。だれもいない音楽室からも木琴やらマリンバの音が聞こえたってうわさもあるみたいですし」
「わかった。気をつけるよ」
あれ? 何かすなお。まあ幽霊はともかく、不審者だったら何かあってからでは遅いしね。
「あ、この人ってこのあいだのマルコス・スザーノですか?」
俺はテレビ画面に映るミュージシャンを指さす。スティングのバックでパンデイロをたたいていたミュージシャン。
「そうそう。実はわたしのパンデイロはほとんど我流なんでね。せっかくパンデイロ部を作ったんであればきちんと先人の技術も学んでおこうと、ね」
「俺も見たいんで、最初から再生してもらえます?」
俺は慌ててバッグからパンデイロを取り出し準備する。チューニングを確認すると少し高めなので、チューニングキーで調整。
「慌てなくてもいいよ。飲み物用意しておくからゆっくり準備しなよ」
ヒロ先輩は椅子から立ち上がるとDVDリモコンの停止ボタンを押す。テレビ画面がメニューに切り替わる。冷蔵庫から例によってカルピスを取り出し、二杯分の準備を始める。しかしほんとこの人カルピス好きだね。しかし今開けられた冷蔵庫の中身、さらに充実していたような……俺が部室の冷蔵庫を開けることはないから気にしていないけど、ほんと部室を私物化しているような……まあいいけどね。
「はい、どうぞ」
ヒロ先輩はグラスのひとつを長机に置き、もうひとつはすでに口に運んでいる。
「慌てなくていいからね。ほんと慌てなくていいからね」
そう言いながら、ヒロ先輩は急かすようにパンデイロをロールさせる。カルピスを飲んだ時にいつもロールをやるのがヒロ先輩のくせだ。
「はい、お待たせ!」
俺もチューニングを終え、グラスに口をつけて一口。
なんかカルピスを飲む=パンデイロの練習というパブロフの犬状態になっている自分に気づく。最初は嫌々だったけど、なんだかんだで続いているんだよな、パンデイロ部。
やっぱり打楽器好きなんだよな、俺。
ちょっと変わったヒロ先輩と二人だけの部活だけど、正直楽しいと思い始めている。
いや、楽しい。たたけるだけでしあわせ。
「よしやろうか。今日の講師はスザーノ先生だ」
ヒロ先輩は弾んだ声でDVDリモコンの再生ボタンを押した。