2
1
「で、何の部活に入ったの?」
翌日。朝、いつものように教室に入り自分の机に来たところで大江に声をかけられる。
気のせいか、まわりのみんなも聞き耳を立てているような。
「入ったというか……あ、パンデイロって知ってる?」
「あー、タンバリンみたいなやつだよね? 一回だけさわったことあるけど」
お、さすがドラマー。
「それ」
「どれ?」
「だから、パンデイロ部」
大江はきょとんとした顔をしている。
「新歓の時にそんな部活の紹介あったっけ?」
近づいてきた沢村に大江は尋ねる。
「音楽系の部活は全部行ってみたけど、パンデイロ部は知らんなあ。俺、見逃した?」
沢村はさらっとこたえる。え? 全部行ってみた、って言った? チェックだけじゃなかったのか。まあ音楽好きならそれが普通……ではないよな。
「うん、昨日できたばかりという……」
説明がめんどくさい。
「昨日の俺とデートする予定の、あのきれいな先輩もパンデイロたたくの? かっくえー」
そういえばデートの約束とかしてたな。反故にされなければいいけどね。
「しかし、あの先輩どこかで見たことあるような気がするんだけど……」
大江は〈うーん〉とあごに手をあてて何かを思い出そうとしている。
まあいろいろと個性的な人だし。それにきれいな長い髪だから、学校ですれ違っただけでも印象に残るよな。
「で、おまえもパンデイロたたけるんだ」
「あー……昨日初めてさわった。パンデイロが使われてる曲も、実は意識して聴いたこともないかも」
「ええっ?」
まあ、そんな反応だろうなあ。大江はポケットからiPodを取り出すと、何か曲を探す。
「ほい」
イヤホンの片方を自分の耳に入れると、もう片方を俺に手渡す。言われるがままにイヤホンを耳に入れる。
「うわ、音でかいよ」
「ああ、ごめんごめん」
ガットギターの和音。ボリュームが下げられると、どこかで聴いたことのあるサンバ調の曲が流れる。日本語の曲だ。
「THE BOOMの〈風になりたい〉。この曲、打楽器だらけで楽しいんだよ。日本のサンバの最高傑作」
知ってる曲だけど、じっくりと聴いたことはない。そういえばサンバ系の曲自体をじっくりと聴いたことないなあ。パーカッションやっているくせに。
「ここ。次から打楽器だけの演奏になるんだけど、最初のキメのすぐあとがパンデイロ」
俺は耳を澄ます。シャンシャンというジングルの音と口径の小さめの太鼓の音がいくつか。これがあのひとつの楽器……パンデイロだけでの演奏なんだよな。おとといのヒロ先輩の入部の舞を思い出す。
「俺、この部分の音ってボンゴか何かと思ってた」
「〈マツケンサンバ〉にボンゴは出てきても、本来サンバにはボンゴは出てこないって。パラダイス山元に怒られるから気をつけろ」
「はあ」
こいつけっこうマニアックだな。すぐに返せないよ。突っ込みどころがわからない。
「中学の時って、ロックドラムたたいてたんだよね? サンバもたたいていたの?」
「んー、ロックなんだけど、ドラムのリズムはサンバ調だったりとかさ。そーゆー曲ってけっこうあるからね。元ネタをたどったりとかって……やらない?」
「やるやる」
沢村も当然と言わんばかりに大きくうなずく。
「俺は……あんまり」
俺だけかもしれないけど、吹奏楽をやってる連中って合奏すること自体が楽しかったりするからなあ。あまりそこまで深く追求はしないんじゃないかな。俺だけか。
イヤホンから流れる曲が止まる。今度は別の曲を再生するらしい。
「で、こっちは間違ったサンバね」
流れてきたのは〈お嫁サンバ〉。ってか、なんでこいつのiPodには郷ひろみまで入っているのだろう……と突っ込みたかったのだが、さっきよりもノリノリで右手でリズムを刻んでいる大江を見ていると突っ込むのが申し訳なくなって、そっとイヤホンを耳から取り外すとそのまま沢村の耳に突っ込んだ。
2
「おや、早いね」
部室の扉を開けると、片付けに精を出すヒロ先輩が出迎えてくれた。何かを両手で抱えている。
「あ、手伝いますよ」
俺が慌てて部室に入ろうとすると笑顔で制する。
「ああ、大丈夫大丈夫。配置をちょっと変えていたくらいだから。もう終わるから」
……ちょっと?
部室を見渡すとどこから持ってきたのか長机が二台増えて中央に陣取っている。最初に中央に配置した机は……ああ、各所で台になっているのか。あの隅に置かれているのは冷蔵庫だろうか?
そしてヒロ先輩が抱えていたのは古めかしい小さなブラウン管のテレビだった。冷蔵庫のとなりに設置されたラックの上にテレビを乗せると、裏に手を伸ばしてコンセントなどを差し込んでいる。テレビの電源を入れ、砂嵐が映し出されるのを確認すると、ヒロ先輩は黙ってうなずき電源を切る。このテレビはさすがに地デジには対応していないんだろうなあ。
「っていうか。どうしたんですか、その割烹着?」
俺はテレビより何より、まずヒロ先輩の衣装に対して質問をする。確かに掃除のユニフォームとしては間違ってはいないけど。頭は三角巾で髪をまとめる気合の入れようだ。
「何事も見た目から入るタイプなんでね。昨日もこいつを持ってきていたなら、もうちょっと掃除も片付けもはかどったかもしれないんだけど」
「はあ」
「それに、メイド服は掃除には向かないからね」
持ってるのかよ! もうどこから突っ込めばいいのか。スルーでいいのか。
「昨日はパンデイロたたいてみたかい?」
片付けは一段落したようで、ヒロ先輩は三角巾を外すと長い髪がこぼれ落ちる。ほんと、長くてきれいな髪だな。
俺は部室の中央に配置された長机にバッグを置くと、中からパンデイロケースを取り出す。
「ネットで調べて、見よう見まねで練習はしました」
ケースから取り出すと、左手で振って見せる。
「どお?」
「左腕が痛いです」
「Que bom!」
ヒロ先輩は楽しそうに親指を立てる。
「パンデイロが出てくる曲とか、聴いてみた?」
「えーと、THE BOOMの〈風になりたい〉を少々……といっても、今朝学校で友達に聴かせてもらったんですけど。ほら、昨日教室で先輩がデートしてあげるとか言ってたやつですよ」
さり気なく大江とのデートの件を話題に出しておく。俺って友達思いだな。
「〈風になりたい〉をすすめるとは、彼はいいセンスをしてるね。あの曲は日本のサンバの最高傑作だよ。〈マツケンサンバ〉を聴かせていたら耳もとでスルド連打の刑にしていたところだ」
最高傑作、か。大江と同じこと言うなあ。そしてここでも〈マツケンサンバ〉か。〈お嫁サンバ〉はセーフなのだろうか? ちなみにスルドはサンバで低音を担当する太鼓だ。もちろん、昨日覚えた付け焼刃な知識なんだけど。ちなみに、デートの件はスルーかな。
「あれ? ヒロ先輩はマツケン嫌いなんですか?」
「いや。劇場版仮面ライダーオーズで暴れん坊将軍を演じたケン・マツダイラに惚れて、今では母親と舞台公演を見に行くくらい大好きだ」
仮面ライダー……あんた何を見に行ってるんだよ。
「〈マツケンサンバ〉は腰元ダンサーズのパートまで完璧に踊れるぞ」
頼んでもいないのに、マツケンの腰振りを的確に再現するヒロ先輩。やっぱりこの人はわからない。
「ちなみに生で見る〈マツケンサンバ〉の衣装は、テレビで見る以上にまぶしかった」
「はあ」
テレビで見る分にも相当まぶしいよな、あれ。
「よし、じゃあ今日は……そうだな、まずは……」
ヒロ先輩は割烹着を脱ぎながら何事か思案し始める。今日の部活動の内容だろう。いよいよ練習か。変な人だけど俺よりパンデイロはうまいし、いろいろと教えてもらって早くたたけるようになりたい。俺はパンデイロを胸の前に構える。
「パンデイロの分解から始めようか」
「ぶ、分解?」
「まあ、パンデイロの場合は分解といってもヘッドを外すだけだけど。中学校の時は吹奏でティンバレスたたいてたよね? 分解しただろう?」
「ええっ? ……何度かヘッドの交換はしましたが」
「わたしも中学校時代、吹奏で初めてさわらせてもらったのはスネアだったんだけど、まずはスネアの分解から始めたものだよ」
「はあ」
分解から入る、ってあまり聞いたことないけどなあ。
「ネジの一本まで分解してみたもんだ。その過程をメモってなかったんで、すぐに組み立てられなくって先輩に怒られたなあ。ネジも何本かなくしたし」
この人、頭のネジもどこかでなくしたのかなあ。
「パンデイロって、基本ヘッドは交換しないからね。最初にヘッドの取り外しの経験するのもいいだろう」
「え? そうなんだ」
それは知らなかった。パンデイロはスネアドラムのように打面のヘッド部分の交換ができ、そしてチューニングもできる。だからヘッドは古くなれば交換するものだと思っていた。ただ、もらったパンデイロのケースの中にチューニングキーは入っていなかったので、昨日はチューニングをすることはできなかった。ティンバレスで使っていた一般的なチューニングキーでも代用できるだろうと思い試してみたけど、一般的なキーボルトは四角形、パンデイロのそれは六角形だからだ。
「はい。昨日渡しそびれたね」
ヒロ先輩はパンデイロ用のチューニングキー取り出すと、俺の手のひらにそっと落とす。渡しそびれたというか、渡し忘れただけのような。
パンデイロのチューニングキーは一般的なチューニングキーと違って、作りの粗い……まあはっきり言えば貧相なイメージのチューニングキーだ。というか、パンデイロ自体が手作り感満載なのだ。ニスの塗り具合とかムラが確認できる。他の楽器とくらべて日本国内では需要が高いわけじゃないから、サンバの生まれ故郷であるブラジル等の外国からの輸入品なんだろう。
俺は渡されたチューニングキーで手早く七か所のキーボルトを緩める。基本は対角線。この辺は普通のスネアドラムやティンバレスなどと大差はない。全部を緩め終えると、本体とヘッドとフープに分かれる。
「んじゃ、ヘッドをはめていこうか。やぎの皮だからね。優しく、そっと……」
ヒロ先輩は俺の後ろにまわると俺の両肩に手をのせ、耳もとでささやく。ええ、からかってるってわかってますよ、期待してませんよ、っと。俺は平静を装って、まずは全部のキーボルトを指で軽く締め、そのあとはチューニングキーを使って対角線でゆっくりと締めていく。
「どれくらいのテンションにしてます?」
俺は昨日覚えたばかりのたたき方、右手の親指でパンデイロの打面をたたいて低音を出し、そしてヒロ先輩にパンデイロを手渡す。
「こればかりは好みだからね……それも貸して」
俺はチューニングキーも手渡す。さすがに慣れた手つきでチューニングキーをまわす。少しだけテンションを上げたようだ。
「うん、わたしの好みはこんな感じかな」
そして軽くリズムを刻みだす。時間にして五秒程度。確認のためだけの音出し。
ほんの一瞬。だけど、また空気が……風が変わった気がした。いかん、やっぱりヒロ先輩のこの音色に惚れている。
「うん、いい音。進呈したのが惜しくなるよ。はい」
ヒロ先輩はパンデイロを俺に手渡す。俺は遠慮ぎみにパンデイロをたたいてみるけど、あんなに小気味いい音は出ない。パンデイロのこのテンションはしっかりと覚えておこう。
「お、基礎はできてるようだね」
「まだまだですよ」
ほんと、まだまだ。お世辞にもほどがある。
「パンデイロのヘッドは気温や湿度に超敏感だからね。明日にはチューニング変わってると思うから、チューニングキーの持参は忘れないように」
いやいや。あんた昨日渡しそびれてるじゃん。
「よし、んじゃ簡単に基本を説明しようか」
3
「わたしの説明が一般的とは思わないけど」
ヒロ先輩は自分のパンデイロをソフトケースから取り出しながら説明を始める。長机を挟んで立ったまま向かい合う。
「あ、そうそう。裏にテープを貼ってミュートさせてるけど、これも好みがあるから気に入らなかったら貼り直していいからね」
ヒロ先輩は自分の持っているパンデイロの裏側を見せる。ヒロ先輩のパンデイロと同じように、俺のパンデイロのヘッドの裏側にも四角にバツの形でテープが貼られている。打楽器、特に太鼓系は倍音成分の鳴りを減らすため、テープなどでヘッドをミュートさせることがある。さすがに昨日の今日だから気に入るかどうかもわからない。しばらくはこのまま使わせてもらう予定だ。
「例えとして適切かわからないが、パンデイロはこの両手におさまるサイズのドラムセットだと思うんだ」
ヒロ先輩は愛おしそうに手にしているパンデイロをそっとなでる。確かに単純な楽器だけど多彩な音色が表現できるこのパンデイロは手のひらサイズのドラムセットと言っても大げさではないだろう。
「昔、幼い少女はテリー・ボジオというドラマーにあこがれ、両親にドラムセットをねだったことがあった」
「はあ」
幼い少女とはヒロ先輩のことだろうか。よりにもよってテリー・ボジオか。テリー・ボジオは、非常にたくさんのタムやバスドラを組み込んだドラムセットをたたくことで有名なドラマーだ。とても一般人、ましてや高校生がまねして用意できるようなドラムセットではない。
「もちろん、彼のようなドラムセットを買ってもらえるわけもなく……最終的に出会ったのが、今手にしているこのパンデイロだ」
なるほど。まあ作り話だろうな。突っ込むべきだったんだろうか?
「ということで、パンデイロはこの小さな楽器ひとつでハイハット、バスドラ、スネア、さらにたたき分ければタムタムだって表現できる。最小のドラムセットだ」
二小節ほど8ビートでパンデイロをたたく。ヒロ先輩の表情はこの上なく楽しそうだ。最小のドラムセット……確かに言いえている。俺もヒロ先輩のパンデイロを初めて聴いた時、ドラムセットがそこにあるような錯覚を覚えた。
「そして、スティックまわしはできないが、パンデイロまわしはできる」
「いや、それはいいですから」
初めてヒロ先輩に出会った時のように、指先にパンデイロの打面を乗せてくるくるとまわしてみせる。
「ドラムセットまわしができない分、パンデイロの勝ちだな」
勝ち負けはそこじゃないですから。それにトミー・リーや真矢、トラヴィス・バーカー、果てはバディ・リッチもすでにドラムセットで回ってますから。
とはいえ、指先でパンデイロをまわせるだなんて器用なもんだな。俺はやらないけど。
「パンデイロをまわす時は落とさないようにね。落とした衝撃でジングルが痛んだり、場合によってはフレームが割れてしまう」
経験者は語る、か。俺は心の中で苦笑い……あれ? なんか手を伸ばしてきて俺のパンデイロのフレームをそっとなでてくるんだけど……え? 落としたのって俺のこのパンデイロ? ああ、確かによく見るとうっすらと補修したような跡があるけど……そうなのか。
「ということで、説明はドラムセットに例えて進めさせてもらう」
まあこのパンデイロはヒロ先輩からのもらいものだし、文句は言わないですけどね。俺は姿勢を正してパンデイロを左手に持って構える。
「左手でパンデイロのフレームを握って。親指はヘッドの上に軽く出して。そして中指を伸ばしてヘッドの裏側にあてることでミュートもできる。最初は中指のミュートは意識しなくていいよ」
俺は左手の中指を伸ばしてヘッドに触れてみる。確かにヘッドの振動を意図的に抑えられる。
「演奏しながら嫌いなあいつに中指を立てられる。しかも合法的に。なんと画期的な楽器か」
その不敵な笑みはなんですか。俺に中指立てて見せないでください。
「そして右手でたたく……さて。では基本のハイハットから……これはもうマスターしているね? 右手の付け根からスタートで」
俺はあいまいにうなずく。昨日の今日の付け焼刃な程度では知っているけど、マスターしているかといえば当然まだまだだろう。
俺は控えめに、ゆっくりと右手の付け根部分と指先とで交互にパンデイロのフレームをたたく。この動作はぱっと見、パンデイロの上をうさぎが跳ねているように右手を動かす。タンバリンには見られない奏法だ。さらに左手は腕を軸にパンデイロを振るのも忘れない。この左右の手のコンビネーションが意外に難しいんだよな。しかし、これがパンデイロの基本のたたき方でありかつ重要な部分だ。
上手くリズムにのれると、カチカチと金属質な音が連続して鳴る。ドラムでいうところのハイハットに相当し、リズムのバックで常に八分音符、一六分音符で続けて鳴らし、ビートを刻みだす。
ヒロ先輩はそんな俺を見ながら、自分でもパンデイロでリズムを刻む。うん、単純なフレーズなのにやっぱり俺より断然いい音をさせている。
「よし、次はバスドラを入れてみようか。親指でフレーム近くのヘッドをたたいて」
ヒロ先輩は演奏を止めずに、一拍目にバスドラを入れる。俺も合わせて一拍目にバスドラを入れる。しかし、ヒロ先輩のように毎回きれいな低音が鳴るところまではまだマスターしていない。ちなみにバスドラはその名のとおり、リズムの低音をつかさどる。
「ベースのスラップを思い浮かべるといいよ」
ヒロ先輩はにこやかにアドバイス。なるほど、スラップか。中学校の吹奏楽部時代に、ベースパートのやつからベースを借りてスラップのまねごとはしたことはある。イメージ的にはクイズのボタン早押しが近いかもしれない。たたくと同時に離す動作。スラップを意識してバスドラ……お、きれいに入った。次もきれいに入った。なるほど。
「さすが、のみ込みが早いね。じゃ、二拍目の裏にもバスドラを入れてみようか。裏拍は中指薬指の先でね」
すぐにヒロ先輩は一拍目と二拍目の裏にバスドラを入れる。裏拍にバスドラ……これがけっこう難しい。もちろんヒロ先輩はわかっていてこのフレーズをたたかせようとしている。
右手でハイハットのリズムを刻む場合、基本は腕の付け根部分からスタートし、付け根→指先→付け根……と繰り返す。付け根側、つまり表の拍でバスドラをたたく場合は親指でたたくことになり、音も大きくたたきやすい。裏の拍でバスドラをたたくのは指先側……中指、薬指でたたくことになり、親指より力が弱いためなかななか音量が一定にならない。そして両手の動きもこんがらかる。
「お、ついてくるねー。すごいすごい」
ヒロ先輩は楽しそうだ。いえ、必死ですよ。けっこうごまかしているし。
「それじゃ、次は四拍目の裏にスネアを入れてみようか。スネアは中心部分をたたく」
ヒロ先輩はさらにスネアを加える。説明しながらよくたたけるなあ。裏拍なので、この場合も指先側でたたくことになる。これは比較的たたきやすい。スネアはリズムのアクセントといったところか。リズムにメリハリがでる。
二人でパンデイロをたたくこと数分、四拍目の裏のスネアをひときわ大きくアクセントをつけてたたくと、ヒロ先輩は演奏を止める。そろそろ左腕が痛くなりかけていたころだったので、ちょうどよかった。俺も演奏を止めて、左腕をパタパタさせる。
「んじゃ、次は指先スタートで同じパターン、ね」
すぐにヒロ先輩はたたきだす。指先スタートとは、右手のハイハットの部分を指先からたたき始めることだ。そうすると、バスドラ、スネアをたたく付け根、指先のタイミングが逆になる。俺も慌ててたたきだすけど、パンデイロは基本付け根スタートで演奏するため、俺はまだこのパターンには慣れていない。
「よれてるよれてる」
ヒロ先輩は笑顔で俺のリズムのよれを指摘する。左腕は疲れているうえにこのパターンに慣れていないので正直ついていくことすらできていない。
がむしゃらにたたくこと数分。先ほどと同じように、四拍目の裏のスネアを大きくたたくと、ヒロ先輩は演奏を止める。疲れた……たかが数百グラムのパンデイロだけど、これを振り続けるのはかなりきつい。体力つけないとだめだな。いや、筋肉になるのか? 俺はパンデイロを長机の上に置いて、左腕をマッサージして疲労をほぐす。
「おつかれ。ちょっとだけ休憩」
ヒロ先輩もパンデイロをそっと長机の上に置き、部室の隅の冷蔵庫を開けると茶色の瓶を取り出す。
「カルピスですか?」
茶色の瓶だからって、まさかビールではないだろう。
「コーラスのほうがよかった? 音楽の部活らしく」
「……えーと……」
オヤジギャグを突っ込むべきか、それともまずは冷蔵庫がなぜ部室にあるのか、そっちから突っ込むべきか。
ヒロ先輩はこたえに戸惑っている俺を横目に、さらに冷蔵庫から冷水筒、そして冷凍庫から氷を取り出すとこれまた昨日はなかった小さな食器棚からグラスを二つ取り出し、カルピスを希釈し始める。氷が涼しげな音色をたてる。
「今でも瓶タイプのカルピスってあるんですね」
俺は椅子のひとつを引いて腰掛ける。
「お中元とかのギフト用。やっぱりカルピスは瓶のほうが趣きがあっていいだろう?」
妙なこだわりだな。まあヒロ先輩らしいけど。慣れた手つきでマドラーでくるくるとかき混ぜ終えると、グラスのひとつを俺の前に置く。さすがにこれは八〇円、とかは言われないかな? のど乾いてるから飲むけど。
「いただきます」
グラスに口をつけてまずは一口、二口。ああ、夏休みの味。生き返る。
「ヒロ先輩は左腕疲れないんですか?」
おいしそうにグラスに口をつけているヒロ先輩は特に疲れた様子を見せない。
「そりゃちょっとは疲れるけど、まあ慣れかな。毎日振るようにしているし。あと、きみは左腕の振りが大きすぎるね。手を抜くのはNGだけど、力は抜かないとね」
ヒロ先輩も椅子を引いて俺の向かいに腰掛けるとパンデイロを手に取る。グラスの水滴で濡れた指先をヘッドの上で器用に滑らせ、ダララララ、とロールさせてジングルを震わせる。うん、パンデイロとかタンバリンを持つとこれはやりたくなるね。指に水滴をつけると、ヘッドに対していい感じの摩擦になるのでロールがやりやすくなる。
俺もヒロ先輩をまねて水滴を指先につけてロールをしてみる。一瞬だけなら成功するが、これがなかなかうまく行かない。ヒロ先輩は8の字ロール……延々とロールを繰り返している。やっぱりこの人器用だな。
「それじゃ、もうちょっと基礎をやろうか。では今度も指先スタートでさっきのパターンの練習」
4
その後はひたすらヒロ先輩がたたくリズムを俺がまねして繰り返す練習が続いた。
だれも来ない部屋で二人きり。ヒロ先輩もこんな素人の俺によくつきあってくれるよな。まあ、創部したばかりだから張り切っているのかな。おかげでコツのようなものが少しだけつかめてきた。マンツーマンで教えてくれるのはありがたい。
「んじゃ、体が基本を覚えたところで……バトルしようか」
例によって、ヒロ先輩はパンデイロをたたく手は止めない。
「は?」
バトル?
「ソロまわし……ってことですか?」
「そう。音楽はコールアンドレスポンスがだいごみだからね」
「いや、さすがにまだ思いついたフレーズはすぐにたたけないかと……」
というか、フレーズがまだすぐには思いつかない。
「音楽の基本は祭りだ。きみは盆ダンスをあらかじめ練習してからお祭りに出るタイプかい?」
例えになっていないような……ってかなんだよ盆ダンスって。
「んじゃテンポはゆっくりめで……四小節でまわそう。んじゃ、わたしから行くよ。ワン、ツー、スリー、フォー」
さっきと比べてテンポは落ちたかと思った瞬間、倍速でたたきだした。ほんとこの人意地が悪い……と言いつつも俺は思わずバトルのことは忘れて見入ってしまう。微妙にアクセントをずらし、拍のアタマがわからなくなるが、ヒロ先輩は四分音符のタイミングでリズムを右足で刻んでいるので、かろうじて小節数は確認できる。
「ほい!」
最後にパンデイロを大きく平手打ちして俺にバトンを渡す。俺は最初にヒロ先輩から教わった、あのリズムをまずはたたく。三、四小節目はアドリブっぽくたたきたかったが、指がついていかない。
「恥ずかしがることないよ。打楽器は、たたけば何かしらの音が出るんだから。それが音楽」
ヒロ先輩はバトンを受け取ると今度はシンプルにリズムを刻む。そして最後の一小節だけ、複雑に細かくスネアを響かせる。そしてふたたび俺にバトンが回ってくる。先ほどのヒロ先輩のリズムをまねするけど、最後の一小節は複雑だったもんな。完璧な再現は難しい。
「遠慮しないで。あの時の演奏会のパーカスバトルみたいに、感じるままのフレーズを聴かせてくれれればいいのに」
ヒロ先輩は〈やれやれ〉と言いたげな顔でバトンを受け取り、今度はゆっくりとたたく。ただし一小節ごとにスネアのタイミングをずらして。ほんといやらしいな、この人。カウントを取りづらくさせている。
ヒロ先輩が俺に対してたびたび口にする、俺の中学校時代の吹奏楽部の定期演奏会のパーカッションバトルの話。微妙に誤解している。
確かに俺はあの演奏会でミスをした。けど、タイミングを間違えたなんてやさしいものじゃない。
そしてもともとは演奏中にパーカッションバトルを予定はしていなかったんだ。