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「なにしてんだよ?」

 扉を開けると、俺の部屋で今まさにセーラー服を脱ごうとしているヒロ先輩にため息まじりで声をかける。

「おや、お帰り。相変わらず大胆だな。わたしだから許されるけど、レディの部屋に入る時はノックをするものだぞ?」

 相変わらずとか言うな!

 ヒロ先輩は不敵な笑みを浮かべつつも、着替えの手は止めない。

「やかましい! 俺が部屋に入るのを見計らって、わざとタイミング合わせてるだろ!」

 俺は学校のカバンを部屋にほうり投げると乱暴に扉を閉める。ここは俺の部屋だっての。

「あ、おにーちゃんお帰り。今日のおやつはシュークリームだって。ヒロちゃんの分も持ってこようか?」

 ドアノブを握り締めて、ため息をついていると、となりの部屋から小学生の妹のサツキがパチカ片手に出てくる。サツキは俺より年上のヒロ先輩のことをちゃんづけで呼んでいる。もうすっかり仲がいいんだよな、この二人。まあ俺もヒロ先輩に対してついついタメ口になることも多いんだけど。

「いいよ、下で食べるから」

 俺はサツキに向き直ると、平静を装って笑顔を浮かべる。自然な笑顔ができた自信はない。

「はーい」

 サツキはテンポ185で軽快に階下へと下りて行く。

 ヒロ先輩が俺の部屋に居着いて一週間。先輩の性格もわかってきたつもりなんだけど、いまだに慣れない。しかしどうしてこうなったのか……いや、うちに来るように誘ったのは俺なんだけど。

 部屋の扉がゆっくりと開く。いつもどおり、Tシャツとデニムのショートパンツ姿でヒロ先輩が現れる。俺と目が合うと右手で印象的な長いロングヘアーを後ろへと払う。

「今日のおやつはあの数量限定のシュークリームかい? 一〇〇円とは思えないうまさだよな」

「先輩、よだれよだれ」

「おっと」

 わざとらしく、ヒロ先輩は口もとを右手の親指でぬぐう。

「ではシュークリームのあとは特訓だ。夕食前までしか時間はないからな。リビング、先に行ってるぞ」

 ヒロ先輩は左腕の無骨な黒いベルトのデジタル時計を確認しながら意味深長な笑顔を見せ、そしてテンポ90で階下へと下りていく。俺はため息をつきながら部屋に入る。

 ほんと、なんでこうなっちゃったんだろ。嫌じゃないんだけどさ。

 俺は四度目のため息をつき、部屋へ入るとゆっくりと着替え始めた。


        2


 一ヶ月前の四月。

 本来なら希望に満ちた高校生活が始まる、はずの四月。

 吹奏楽部の名門校であるこの高校に、俺は吹奏楽部の部活動推薦で入学予定だった。

 ところがさらにさかのぼること中学校二年生の時。

 俺の所属していた吹奏楽部秋の定期演奏会でのできごと。パーカッションを担当していた俺は本番で致命的なミスをしてしまった。

 しかし先輩の機転でなんとかミスをカバーすることができたこともあり、演奏会後に俺を叱責する先輩や仲間はだれ一人としていなかった。むしろ〈よくあること〉なんて笑って肩をたたいてくれた。

 しかし、俺にとっては逆にその優しさがつらかった。

 賞をねらった大会でなかったことは不幸中の幸いだったとはいえ、その後俺は放課後の部室に顔を出さなくなり、そのままうやむやな状態で吹奏楽部を離れた。

 高校は吹奏楽とは関係のない他のところに行くつもりだったけど、通学時間などの関係で結局この学校を一般入試で受験。そして合格して今ここにいる。吹奏楽部を離れた俺にとっては少しだけ居心地が悪い。まあクラスに同じ中学校出身の吹奏楽部の連中がいなかったことが、せめてもの救いかな。

「そーいえば、部活どーすんの? 帰宅部?」

 入学式から二日後の掃除の時間。こいつは入学して最初に声をかけてきた悪友の大江。入学前からジャズ研究会へ入ると決めていたらしく、入学したその日に入部の手続きを終えていた。中学生のころからドラムをやっていて、日中にドカスカとドラムをたたける環境を求めていたらしい。ちなみにもともとはロックドラムばかりだったけど、この高校には軽音楽部がないのでドラムがたたければジャンルはなんでもいいや、という理由である。

 いわく〈音楽に垣根はない〉。

 かっこいいねー。惚れたね。ということでパーカッションをやっていた俺とはすぐに意気投合。ただ、パーカッションは高校のジャズ研究会ではあまり出番はなさそうなので俺は最初から入部の候補にすら入れていなかった。俺自身がジャズはあまり聴かないってのもあるんだけど。というか、入部候補の部活動ってひとつもピックアップしていないんだけどね。

「俺は様子見。ジャズ研以外にキーボード弾けそうな部活ないもんなあ。ひととおりの音楽系の部活はチェックしたんだけど」

 こいつはもう一人の悪友の沢村。昔はピアノを習っていて、最近はキーボードでインストものの曲ばかりを自宅で弾いているらしい。インストでもジャズはあまり好みではないらしく、ジャズ研究会は見学だけはしたけど入部は考えていないとのこと。

 入学式の日、俺と大江が音楽ネタで盛り上がっているところに乗っかってきたのが沢村だった。今日の音楽の授業の前にもピアノを弾いて遊んでいたりする音楽好きだ。沢村が知っている曲ならリクエストも受け付けてくれる。三者三様で好きなジャンルはそれぞれ微妙に違うけど、やっぱり音楽好きということで入学早々この三人でよくつるんでいる。

「ちなみに、お琴の部活に洒落で見学に行ってみたら見事に女子だらけだった」

「「まじで」」

 俺と大江はきれいにハモる。さすが音楽好き同士。ハモリもばっちり。まあ琴部は女性のイメージが強いからな。しかしよく見学に行ったな。

「ちなみに、あの楽器は正確には琴じゃなくてそうというらしいぞ」

「そーなんだー」

 ……あ、俺のボケ、スルーされた。

「見学者の中にかわいい子がいたから〈きみのこと、Kotoっちゃうぞ!〉なんてボケてみたら先輩がたにつまみ出されました」

「……そーなんだー」

 沢村は窓の外を遠い目で見つめる。ご愁傷さま。チャレンジャーだな、こいつ。

「ちなみに〈Kotoっちゃう〉とはどうしちゃうの?」

 沢村のボケにいちいちつきあわなくてもいいのに、大江は律儀に沢村に尋ねる。

「きみの琴線に触れちゃうぞ♪ って感じ?」

 ほお。うまくまとめたな。絶対今思いついただけなんだろうけど。

「んで三上みかみはどうすんの?」

 大江は俺の顔を見る。

「俺? ……帰宅部、かな。ジャズ研のライブでパーカッションが必要だったら呼んでよ」

 俺は精いっぱいの笑顔でこたえる。

 掃除を終えると大江はさっそくジャズ研の部室へ走って行った。楽しそうだよな。沢村も職員室に用事があるとかで教室を出ていく。俺もバッグを肩に引っ掛けると、ゆっくりと教室を出る。

 そして……入学式の日の吹奏楽部の勧誘からは避けるようにしていたくせに、なぜ今吹奏楽部の部室の前に俺は立っているんだろう? まあ、昨日も来てるんだけど。

 部室の中から小さく聴こえる、各楽器の個人練習の音、Aの音。懐かしい雰囲気だ。自分から吹奏楽とは距離を置いたくせに、未練がましいよな。

「そんなに緊張しなくていいからね。今日は見学。お客さんの気分で気楽に、ね」

 階段を上がってくる数人の足音と話し声。俺は慌てて廊下の柱の影に身を潜める。いかにも先輩といった感じの女子生徒二人に続いて、こちらはいかにも新入生という風ぼうの女子生徒二人。俺と同じく制服がまだなじんでいない。一人はアルトサックスのケースを手にし、もう一人は……あのサイズはエレクトリックベースだろうか? ソフトケースを背中に担いでいる。

「どうぞ」

 先輩の一人が部室の扉を開けて、新入生二人を招き入れる。中の音が大きく廊下に響く。懐かしい気持ちとともに心苦しい気持ちも同時にわき出る。すぐに扉は閉められ、ふたたび音は小さくなる。俺は柱から身を出すとふたたび部室の前へ。一年半も吹奏楽から離れていたくせに、心のどこかでまたあの世界に戻りたいと思っている自分がいる。

 大きくため息をついて自嘲ぎみに苦笑い。きっと、また明日もここに来てしまうような気がする。でも、もう吹奏楽はやれないよな。一度逃げてしまったんだし。

 もう、ここには来ちゃだめだな。

 俺は心の中で〈さよなら〉とつぶやき、部室の扉に背を向ける。もうここには二度と来ないように、自分に言い聞かせるように。

 階段を下りようとすると、だれかが階段を上ってくる気配。きっと吹奏楽部の部員だなと特に気にするわけでもなく、何げなく階段の先に視線を移すと、立てた右手の指先の上になぜかタンバリンを水平にしてくるくると器用にまわしながら鼻歌まじりで階段を上がってくる満面の笑み……自信にあふれた表情の女子生徒と目が合う。

 なんとなく、関わると危険な気がしたので、視線をそらしてそそくさと階段を下りる。

 そりゃそうだろう。いかにも突っ込み待ちな雰囲気の初対面の人への応対としては一〇〇点満点の対応だ。

「おや、きみは三上くんじゃないかい?」

 すれ違いざま、その女子生徒は立ち止まって声をかけてくる。声に振り向いて再度女子生徒の顔を見るけど、見覚えはない。大体、タンバリンを指先でまわしながら校内を歩く知り合いはいない。背中まで伸ばした長い髪が印象的。すなおにきれいな人だな、と思った。タンバリンさえまわしていなければ、町中でも一〇人中一〇人は振り返る美人だった。

 いや、タンバリンをまわしていれば、違う意味で一〇人中一〇人は振り返るかもしれないけど。


        3


 女子生徒はタンバリンをくるくるとまわしながら俺の前まで階段を下りてくる。襟元の校章の色を見ると二年生。俺のことを知っているようだけど、中学校時代の吹奏楽部の先輩でもない。

 俺の横で立ち止まると、まるで俺を値踏みするように顔を近づけてくる。うわ、なになに?

「……なんで俺のこと知ってるんですか?」

 俺は階段の壁に思わず後退り。

「きみは汐南しおなみ中学で吹奏をやっていた子だろう?」

 女子生徒は俺が不思議がっている様子を見て、楽しそうな表情を見せる。

「去年……おととしの演奏会、パーカスだったよね。ティンバレス」

 俺は途端に顔が赤くなり、胸の鼓動が耳にまで届く。知ってるんだ。ちなみに、パーカスとはパーカッションのことだ。

「汐南中学校吹奏楽部の定期演奏会……オータムコンサートだね。後半のパーカスバトル。ソロまわしのタイミングを間違えた子だろ?」

 あの演奏会、見ていたんだ。

 俺が吹奏楽部をやめた引き金。思い出したくない光景。それを知ってか知らでか女子生徒は〈ふふん〉といった表情を見せる。

「ま、失敗を経験しない人間は大きくなれないよ」

 女子生徒は〈よっ〉と言いながら回るタンバリンを軽く頭上にまでほうり投げて両手でキャッチ。そしてニヤリと笑う。

「この指先でまわすのも何度も失敗してようやくできるようになったんだよ。落としても大丈夫なように、布団の上で何度も練習してね」

 ああ、そうですか。布団の上ってなんかリアルだな。

「ま、失敗を経験してこそ、なんて負け犬の遠吠えだよな」

 ええっ? なんか意図的に視線を外してぼそっとつぶやかれた。

「失敗を経験したからといって、だれもが大物になれる保証があるわけでもないし。だったら本番で失敗しないほうが精神的にはいいよなあ。夜寝るときにその光景を思い出して無性に叫びたくなることもないし、足をばたばたさせて悶絶することもないし」

「俺をフォローしたいのか、ばかにしたいのか、どっちですか!」

 ああ、今でも確かに無性に叫びたくなるさ、足をばたばたさせて悶絶してるさ。っていうか、あんたには大物になれる保証があるのか? ……女子生徒は俺の態度を見て明らかに楽しんでいる。こんなタイプの人は正直苦手だ。

「……それ、パンデイロですよね? 吹奏のパーカスの人ですか?」

 とはいえ、俺は社交的な人見知り。なんとか会話の糸口を探してこちらからも話しかける。

 女子生徒が手にしていたのはサンバなどで使われるタンバリンによく似た楽器、パンデイロだった。まさか校内でパンデイロを手にした生徒に出会うとは思わなかったから、見た目の似ているタンバリンだと勝手に決めつけていた。まあ、タンバリンを手にした生徒に出会うとも思わなかったけど。ただ、パンデイロという楽器を知ってはいるけどさわったことはないし、目の前で見るのも初めてだ。

「お、さすがパーカス。この学校でこの楽器がパンデイロだと気づいたのはきみが初めてだよ。ほめて遣わす。パンデイロ部への入部の権利を授けよう」

「けっこうです」

 なんだ、この強引な勧誘は? パンデイロ部だって?

 女子生徒は楽しそうな笑顔を浮かべると一瞬だけ目を閉じ、パンデイロを胸の高さに構えるとゆっくりとした8ビートでたたき奏で始める。

 その瞬間、空気が変わった気がした。

 見た目はタンバリンと同じなのに、パンデイロはドラムのようにリズムを刻める不思議な楽器だ。時々小刻みに入る一六分音符で揺れるジングルの音色が心地よい。

 昔、だれかのライブで演奏するパンデイロをテレビで見たことはあったけど、生演奏は初めてだ。しかも目の前……パンデイロってこんなに多彩な音色が本当に出るんだ。階段と廊下に反響する音がいい感じのリバーブになって耳に届く。

 俺はすなおに感動し、女子生徒のたたくパンデイロのリズムに耳を傾ける。俺の体に染み込んでいる、パーカッション熱が反応しているのがわかる。

「どうした三上くん? 視線がいやらしいぞ。わたしに惚れたのか? 早いな、まだ出会って五分もたってないぞ」

「パンデイロの音色に惚れただけです」

 女子生徒は俺の視線に気づき、ニヤリと笑う。なんだろ、この人の超前向きな思考は。

 しかし、パンデイロの音色に惚れたのは本当だ。ついつい女子生徒の手元を凝視してしまう。

 パンデイロのリズムは鳴り止まない。テンポは90前後。若干リズムがよれているがそんなのすら気にならない。もともとサンバなどの明るい音楽で使われる楽器のためか、心が洗われる気がする。やっぱり音楽……打楽器っていいよな。

 時間にして三〇秒ほどだろうか? ものすごく長い時間のようにも感じたけど、最後に打面を力強く手のひらでたたいて女子生徒はリズムを止めた。パンデイロの残響がゆっくりと消え、吹奏楽部の部室からの練習の音がふたたび耳に届く。

「入部の舞はいかがだったかな? パンデイロ部への入部を歓迎する」

「だからけっこうです! ……あれ? 本当に吹奏の人じゃないんですか?」

「だから言っているだろう、パンデイロ部だと。音色に惚れたと言われてうれしかったよ。ありがとう。パンデイロ部部長……工藤尋子くどうひろこだ」

 女子生徒はほほ笑むと右手を差し出してくる。

「……三上正利みかみまさとしです」

 俺は無意識にその手を握り返す。小さな手。先ほどまでパンデイロをたたいていたせいか、少しだけ温かい。

「……契約成立」

 俺に聞こえるか聞こえないかの微妙な小声でつぶやく。

「勧誘を拒否するのに〈けっこうです〉と言うな、とおばーちゃんに教わらなかったかい?」

 俺は慌てて手を振りほどく。手のひらにわずかに残るぬくもりとは裏腹に、背筋に冷たいものが走る。

 それがヒロ先輩との出会いだった。


        4


「みっかーみくーん?」

 翌日。五時間目の授業が終了し、英語の教師と入れ替わりでヒロ先輩がにこやかに教室へ顔を出す。教室中の視線がヒロ先輩に注がれ、すぐに俺にも視線が集まる。いや、俺を見ないで。

「さ、今日は部室の掃除だ。二人っきりだから、早くしないと日が暮れてしまうぞ」

 なぜか〈二人っきり〉のところにアクセントがあったような気がしたけど、気のせいだろう。っていうか、あんた授業は? 終わってすぐに走ってきてもこんな時間には来れないだろう。校舎も違うのに。

 教室の女子生徒の何人かは胸の前に手を組んで〈かっこいい……〉と口が動いている。無論、俺に向けた言葉ではなく、ヒロ先輩に向けられた言葉なんだけど。

「いや、今週は掃除当番なんで……」

 突然背後から肩に手を置かれる。振り向くと、悪友の大江が〈うんうん〉とうなずいている。そのとなりで沢村もうなずいている。

「あとはまかせておけ」

「ええ?」

「なんの部活かは知らんが、そんなきれいな先輩を待たせるわけにはいかないだろう」

 きれい……確かにヒロ先輩はきれいなほうだけど、よくもまあ本人を前にしてそんなこと照れずに口にできるな。

「おお、きみは正直者だな。今度デートしてあげよう」

「ありがたきしあわせ……」

 何のまねか大江はひざを折り、胸に手をあてて頭を下げる。

「そーゆーわけだ。教室の掃除は俺たちにまかせておけ」

 そう言って沢村は俺のバッグを胸に押しつけると両肩に手をのせて俺の体を教室の外へ向ける。そして勢いよく俺の背中を強く押した。

「ええ?」

 俺はふらつき、体勢を整えて振り返ると、他の掃除のメンバー……だけでなく、教室中のクラスメイト全員が大江の行動が当然であるかのように、うんうんとうなずいている。

「美しき姫君を守るのは騎士の務めぞ」

 大江、本当に意味わからん。

「ご協力に感謝する。さ、行こうか」

 ヒロ先輩はにこやかに俺の腰の辺りに手をまわしてエスコートする。いやいや、なんでこんな流れになるんだよ。ヒロ先輩はスポーツバッグを肩に掛け、鼻歌まじりに横を歩く。なんかスキップしそうな勢いだな。

「えーと、工藤先輩。今日は部室の掃除の日なんですか?」

 部室がどこなのかはわからないけど、並んで歩きながらなんとなく沈黙に耐えかねて会話のネタを探す。

「いや。やっぱり初めての日は掃除から入るだろう」

 そんなもんですか。

「あと、わたしを名字で呼ぶのはできれば止めてくれ。なんか慣れなくてな」

「はあ。では……ヒロコ?」

「素敵な提案だが、まだ呼び捨てで呼び合う仲ではないぞ」

 優しく笑ってくれた。目も笑っているから大丈夫だよな。ボケは通じたよな?

「では……ヒロ先輩?」

「Que bom!」

 ヒロ先輩は親指を立てて笑う。〈キボン〉……何語だろ? 多分イエスかグッドってニュアンスかな。

 ということで、これがきっかけで俺は先輩のことをヒロ先輩と呼ぶようになった。

 俺が毎朝通う教室があるのは北校舎の一階。連れて行かれたのは同じ校舎の三階だ。昔はこの学校も生徒数は多かったのだろうけど、今は少子化の流れのせいか授業では使われていない教室がいくつかある。この北校舎の三階の教室は授業ではまったく使われていない。そうか、部室だったんだ。少しだけ胸の鼓動が早くなる。やっぱり初めての部活での顔合わせ、なめられないようにどんな自己紹介をしようか……って、待て待て。俺はまだ入部すると決めたわけじゃないんだよな。今日は見学だな、見学。お客さんの気分で気楽、に。

 ヒロ先輩は一番奥の教室の扉の前で止まると、スカートのポケットから鍵を取り出して扉を開ける。あれ? まだだれもいない? 一番乗りか。扉を開けると、いかにも長く開けられたことのない部屋のにおいがした。教室の半分は物置として使われているような感じだけど……本当にここが部室なのか?

「ほこりっぽいな」

 ヒロ先輩は、にこやかに教室を見まわす。

「今年……今年度初めての練習なんですか?」

 明らかにしばらく使われていないような雰囲気の教室。ヒロ先輩は俺に顔を向けるとふふんと笑みを浮かべ、スポーツバッグから取り出した紙を俺の顔に突きつける。

「団体設立許可書……パンデイロ部の設立を認める……って? え? どーゆーことですか? 日付、今日になっていますが……」

 そういえば、俺を教室に迎えにきた時も〈二人っきりだから〉なんて言っていたけど。

「今年初めての練習ではない。記念すべき、創部して初めての練習だよ」

 ヒロ先輩は教室の窓側まで進むと、窓をひとつずつ全開にする。

「早く片付けないと、初めての練習が明日になってしまうぞ」


        5


 いまいち何が起きているのか完全には理解できていなかったけど、言われるがままに掃除を始める。何年も使われていなかったような教室はほこりが溜まり、掃除は想像以上に手間取った。机は最小限の数だけあればいいとのことで四つだけ残し、残りをとなりの同じく使われていない教室へとほうり込む。っていうか、部員ってまさかヒロ先輩と俺だけ? もう二時間近く掃除しているけどだれも来ないもんな。

「ヒロ先輩。部員ってまさか二人だけってことはないですよね?」

「うん? その教卓の上の団体設立許可書の二枚目の申請書に、創部メンバーが書かれているよ」

 ヒロ先輩は雑巾で窓を丁寧にふきながら、あごで教卓の上を示す。俺は汗をぬぐい、少しだけ休憩しながら団体設立許可書を手に取る。

「……二人だけじゃないですか」

「まあそういうことだ。きみの筆跡をまねてみたけどなかなかだろ? 創部に必要な最低人数が二人だったんでね。それにだれでもいいというわけではない。我々はプロ志向なのだから」

 いやいや。そもそも俺の筆跡見たことないでしょ? 俺の筆跡はこんなにきれいじゃないんだけどな……じゃなくて! それ私文書偽造! ……しかし、二人だけ……まじか。これはこき使われて終了か? そもそも本当に部としての活動は行なわれるのだろうか? まあプロ志向、と断言するのならきちんとした活動をするのだろうけど……。

「よし。そこそこきれいになったしスペースもできたし。片付け終了!」

 ヒロ先輩は手にしていた雑巾を床のバケツにほうり込み、両腕を上げて背伸びをしながらうれしそうに笑う。夕暮れのオレンジ色の光に包まれたヒロ先輩の横顔に少しだけどきっとした。今まではどこかお固い壁のようなもの、なんとなく強腰な感じのイメージを作り上げているようにも感じていたけど、こんな自然な笑顔も見せるんだ。

「では、わたしはとなりの教室の鍵を職員室に返してくるから休んでいてくれ」

 そう言い残すと、ヒロ先輩はさっさと教室を出ていった。となりの教室の扉を閉める音、鍵をかける音、鍵がかかっているか扉を動かす音。そして遠ざかっていく足音。テンポ200ちょっとってところかな。

 俺は教室の中央に集められた四つの机と一緒に並んだ椅子をひとつ引いて腰掛ける。開けた窓から吹き込む風が心地いい。俺は制服の詰襟のホックを外し、ボタンも上二つを外す。カッターシャツの襟元も緩め……最初から上だけでも脱いでから掃除すればよかったな。

 俺は制服の胸元をぱたぱたさせながら、ゆっくりと教室を見まわす……ああ、教室じゃないな。今日からは部室、か。上級生はヒロ先輩しかいないし、ある意味俺たちの城か。それに一から作り上げる部活ってのもいいよな。好き勝手できるし。とはいえ、ヒロ先輩はパンデイロ部というものをどこまで本気でやるんだろうか? ま、一週間くらい様子見かな。入部するかしないかもそれから決めればいいか。とはいえ、今日はもう練習できないよな。日が暮れかけているし。

「おつかれ。オレンジジュースとりんごジュース、どっちがいい?」

 声に振り返ると、部室の前の扉から紙パックのジュースを掲げたヒロ先輩が入ってきた。足音に全然気づかなかった。

「じゃあ、りんごジュースで」

 ヒロ先輩はりんごジュースを放物線を描くようにそっと投げる。俺は空中でキャッチ。

「八〇円ね」

「……この流れだと、普通はおごりでしょ?」

 俺は苦笑いをしながらパックにストローを挿して勢いよく吸い込む。うん、一仕事あとのジュースはうまいね。そして、なんとなくヒロ先輩の性格がわかってきた。

「掃除の対価と入部祝いは他に用意してあるよ」

 これは意外なこたえ。

 ヒロ先輩はジュースのストローに口をつけながら、自分のスポーツバッグから何か取り出す。黒色の丸いソフトケース……中身は恐らくパンデイロだろう。また入部の舞とか歓迎の舞とかでお茶を濁されるのかな。

「はい、プレゼント」

 ヒロ先輩はニッと笑うと、そのケースを手渡してきた。え? くれるの?

「貸してくれるんですか?」

 ケースを受け取り、ファスナーを開けると中にはやっぱりパンデイロが。ここでタンバリンが出てくるとか、そんな嫌がらせはなかった。

「プ・レ・ゼ・ン・ト。初めての部員だからね。持ってないだろ? パンデイロ」

 俺は意味がわからず、お礼を言うのも忘れてパンデイロをケースから取り出し、手に取って眺める。確かにパンデイロは初めてさわるくらいだし、当然持っていない。

「ゴープ……ってブランド名ですか?」

GOPEゴペ。わたしが最初に買ったパンデイロ。中古で申し訳ないが、一ヶ月くらいしか使っていないから。よかったらもらってくれ」

 パンデイロを見ると、多少の使用感はあるけど、ほとんど新品同様だ。

「いいんですか? こんなにきれいなのに」

「わたしは手が小さくてね。そのパンデイロの軽さは好きなんだけど、深胴がどうも慣れなくて」

 ヒロ先輩はもうひとつのケースを取り出し、中のパンデイロを見せる。昨日も手にしていたパンデイロだ。よく見るとわずかに浅胴……高さが低いようだ。

「こっちはCONTEMPORANEAコンテンポラーニャ。猫みたいな名前でかわいいだろう」

 猫みたいかどうかは置いておいて、確かに演奏者ってこの細かいところが気になったりするからね。

「今日はもう日が沈んでしまうな。本格的な練習は明日からにしよう。では、パンデイロ譲渡の舞を……」

 やっぱりそうきたか。とはいえ、ヒロ先輩の指先から奏でられるパンデイロの音にすぐに魅了される。昨日はゆったりとした8ビート主体のリズムだったけど、今回は細かいアクセントがより多く加わった16ビートを聴かせる。まるでドラムのように、どうしてこんなに多彩な音が出るのか。きれいにロールも入れてるなあ。俺もヒロ先輩をまねして手元のパンデイロを軽くたたいてみるけど、似ても似つかないような音だ。もちろんちゃんとしたたたき方もよくわからないし、持ち方すら知らない。なんか悔しいけど、やっぱり俺もこのパンデイロをたたいてみたい。

 まわりを気にしなくていいからだろうか、気づけばヒロ先輩は五分くらいたたき続けていた。俺も飽きずにずっとパンデイロの音色に耳を傾け、そして少しでも技を盗もうとヒロ先輩の手元を見続けていた。ヒロ先輩は唐突に演奏を止め、〈ふう〉と息を吐く。

「明日、放課後にここへ集合。じっくり教えるから、今日はそれ持って帰ってまずは好き勝手にたたいてみなよ」

 なかなか真意のつかみづらい人だけど、パンデイロは本気でやりたいんだな、というのを感じられる目つきと笑顔だった。

 ちなみに、俺が部室を出る前にしっかりと八〇円は回収された。


        6


 帰宅後、夕食前にリビングでパンデイロを取り出す。せっかくだからとパソコンを立ち上げるとネットで〈パンデイロ 入門〉などで検索し、入門ページや動画などを見ながらおそるおそるパンデイロをたたいてみる。

 パンデイロは左手で持ち、右手でたたいているだけと思っていたけど、基本左手は腕を軸にして常にパンデイロを振っていないといけないらしい。たかだか数百グラムの楽器だけど、これがけっこうきつい。一曲三分として……もつか? 少し練習しただけで左腕が痛くなる。

 しかし、このパンデイロってタンバリンと見た目そっくりなのに、持ち方も演奏の仕方も全然違うんだよな。そして音もまったく違う。

「タンバリン? 買ったの?」

 パンデイロの扱いに試行錯誤していると、リビングに入ってきた妹のサツキがプラスチック製のカラフルなパチカを片手で鳴らしながら興味深そうにパンデイロを見つめる。新品同様にきれいなパンデイロなので、買ったと思ったのだろう。

「タンバリンじゃなくてパンデイロ。似てるけどね。部活に入ったらもらった」

 あ、まだ入部はしていないんだよな。

「タンバリンなんて簡単じゃん」

 そう言ってサツキは持っていたパチカを俺に押しつけるとパンデイロを奪い取る。

 タンバリンが簡単って……これだから素人は。パーカッションをやってる人間はこんな言葉にけっこうイラっとする。タンバリンひとつとってもどれだけ難しいか。〈弾ける楽器はタンバリンくらいかなあ〉なんて言われると〈おまえにタンバリンのなにがわかる!〉と説教したくなる……しないけどね。いちいち説教していたらきりがないし、変なやつと思われるだけだし。

 ……とはいえ、サツキはパーカッションののみ込みが早くてすぐに上達するので、〈簡単じゃん〉という言葉に微妙にうそはなかったりする。

 例えば、今俺に押しつけられたパチカ。これもパーカッションのひとつで、アメリカンクラッカーのひもを短くしたような形をしていて片手で鳴らす楽器だ。俺が中学校でパーカッションをやるようになってから、サツキも自然にパーカッションを手に取るようになった。楽器屋で〈安いから、かわいいから〉という理由だけでサツキに選ばれたパチカだったが、今やサツキはパチカの有段者であり、俺をすでに超えてしまっている。

 天性の才能ってうらやましい。

 しかし、今のところはパンデイロに関してはまだまだだ。そりゃ今さっき手にしたばかりだしね。タンバリンのように2と4にアクセントをつけてたたいているだけでご機嫌だ。

「アラピンカラピンスカンピン~」

 あくびちゃんか。

「これ不良品じゃない? シャンシャン鳴らないよ?」

 サツキはパンデイロを顔の前に持ってくるとパンデイロをのぞきこむ。

「パンデイロはわざと鳴りにくくしているんだってさ……って、こら、無理に広げるな!」

 サツキがパンデイロのプラチネラ……タンバリンでいうところの金属でできたジングルのすき間を広げる破壊活動を始めたので慌ててパンデイロを取り上げる。

「ふーん、変なの」

 サツキは不服そうな表情を浮かべ、俺からパチカを受け取るとキッチンで夕食を作っている母親のもとへ。

 そんなわけで日中のわが家は打楽器の音でいつもにぎやかだったりするけど、〈バイクに取りつかれて事故起こすよりまし〉と笑う母親の言葉が意味するように、わりと寛容な家庭である。両親も音楽好きだというのもあるかもしれないが。

 明日も放課後は部室に行く。その前にできる限りパンデイロの予習はしておこう。この両手におさまるほどの大きさでしかない楽器からドラムのような音が出るとは今でも信じられないけど、確かにヒロ先輩は様々な音色を奏でていた。

 あのレベルがどれくらいのものなのかはわからないけど、自分の手でもあの音を再現したい。初めてヒロ先輩と出会った時にそんな衝動に駆られ、今でもその気持ちは変わらない。

 吹奏楽から離れていたけど、久々に楽器に触れたいモードになっている自分の気持ちを抑えることはできなかった。

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