少しは感情を共有し合えたが、結局は…。
「エマ。起きて、もう朝だよ」
寝起きの掠れた男性の声が、私の胸に響いた。
重い瞼を開けれず、身体を丸めると男性が笑う気配がした。
「ダメだよ、二度寝しては。エマ、起きて。一緒に朝食を食べよう」
再び優しい声が耳元で囁き、私は居心地の良さから口元にへらっと笑みを浮かべる。
「……エマ。可愛い」
声の主が夫のものと分かり、そのまま夫の端整な顔が近づいてくると同時に、私ははっと目覚めた。
――――夢。
今までのはっきりとした声も、夫の顔も夢だった。
広いベッドの上で一人、ほっとしたような残念なような複雑な気分で身体を起こす。
辺りを見回しても確かに部屋には私一人で、誰かが入ってきた痕跡はない。
夫は昨夜、お酒を飲み過ぎたからまだ寝ているだろう。
(昨夜の君がいなければ寝れない、なんて言われたから変な夢を見たんだわ)
私はそんなことあるはずないのに。と思う。
ただ、人恋しいだけだろう。
それを満たすのは妻の役割だと思うが、実行しようとは思わなかった。
彼がその役割に望んでいるのは、きっと私ではないから。
私は夢を見てしまったせいで、朝から妙な気持ちになってしまった。
「おはよう、エマ。支度はできたか」
夫は二日酔いになっていないのか、いつも通りの優しげな笑みを浮かべ、私はいたたまれなくなった。
まだ夢の中の夫が、頭の片隅に浮かぶ。
「どうした?具合でも悪いのか」
様子のおかしい私に、夫は気遣わしげな表情を浮かべる。
「…いいえ、何でもありません。参りましょう」
首を振る私に、夫は気遣わしげな表情を浮かべたまま私をエスコートした。
◇◇◇
朝食は二人きりだ。
全員集まるのは夕食だけで、私はどちらかというと朝食の方が苦手だった。
話すのは夫で、私はそれに相槌を打つだけだ。
「エマ。今日は何するの?」
夫が食後の紅茶を飲みながら、優しく微笑んで訪ねてくる。
「…今日は町に出ようと思います。お義母さまからお買い物を任せられたので」
「そうなのか?…じゃあ、俺も行こうかな」
「その必要はありません。治安も良いですし、一人でも大丈夫です」
「俺がついていきたいんだよ。いや?」
夫は困っている私の顔を見つめ、本心の見えない微笑みを浮かべる。
「…いやというわけではないですが…」
「じゃあ、決まりだな。さっそく支度しようか」
夫は押しの強い方ではないと思うが、たまに拒否できない場合がある。
紅茶を飲み終わると、私のイスを引いてくれエスコートしてくれる。
(大事にされている自覚はある。けれど、心のどこかで夫も私も自分を出せていないとも気づく)
夫の逞しい腕に手を添え、ちらっと見上げると、案の定優しい微笑みが返ってきた。
「どうした?」
「いいえ」
これからも、この優しい夫に嘘を重ねて付き合っていかなければならないのだろうか。
本心を見せ合えないのだろうか。
私は自分で招いた結果なのに、今は優しい微笑みを見たくなかった。
お義母さまのお使いで、町にはしょっちゅう赴くため、一人でも全然平気だし、夫がいると余計に神経をすり減らすのではと思っていたが…。
そんなことはなかった。
夫は私をエスコートし、品物を見ているときは黙って背後に立っていたし、迷ったときは「母の好みはこっちかな」とアドバイスもくれたりと不思議と楽しく買い物ができた。
結婚から一年半たつが、一緒に買い物をしたのはこれが初めてだった。
夫も私と同じことを思っていたのか、「今日は楽しかった」と弾けるような笑顔で言う。
不覚にもその屈託のない笑顔に、私の胸はドキドキと高鳴る。
帰り道でもほとんどの荷物を持ってくれて、私は比較的軽いものを持つ。
そして、夫は片方の腕を空けて私の手をかけさせエスコートしてくれた。
(なんだか今日は、いつもよりも甘やかされている気分。これ以上踏み込んでほしくないのに、いとも簡単に私の心は満たされる)
私は何故か泣きたくなった。
今この瞬間が幸せすぎて、いつか壊れるんじゃないかって想像すれば涙が勝手に浮かんできたのだ。
「エマ?」
視線を下にそらした私に、夫は腰を屈め心配そうに覗き込んでくる。
「…何でもありませんわ」
私は泣きそうになるのをぐっと我慢し、顔を上げて完璧な笑みを向けた。
けれど、誤魔化しはきかなかったのか夫は怪訝そうにしている。
「エマ。言いたいことがあるのなら言ってくれ。俺は君の全てを受け止めたい」
いつの間にか足を止め、私たちは見つめあっていた。
空が赤くなり、二人の影がゆらゆらと揺らめいている。
言いたいこと―――。
たくさんある。
でも、それを言って何になるのだろう。
感情をぶつけて解決すればいいけれど、言い合うのは目に見えていた。
それなら、感情は圧し殺した方がいい。
「何でもありませんわ」
私はもう一度同じ言葉を繰り返し、夫を見上げた。
「さあ、もう行きましょう。夕食に間に合わなくなります」
「エマ…」
私は夫の腕を半ば強引に引き寄せ、無理矢理歩を進める。
夫は何か言いたいのか、私の横顔をじいっと見下ろしてくる。
けれど、私は知らぬフリをして歩く。
今は何も言わないで。
せめて、私のこのぐちゃぐちゃな感情が収まってからにして。
でないと、今度こそ醜態をさらしてしまうから。
だが、私の願いは叶わなかった。
背後から夫を呼ぶ可憐な女性の声のせいで――――。
「ベン兄さん」