政略結婚をしてすれ違う夫婦
あなたに養われてから一年半――――
私の心はもう壊れている。
「エマ」
落ち着いた大人の男性の声が私を呼ぶ。
振り向くと、精悍な顔に優しい笑みを浮かべ、私を見つめる男性が立っていた。
「やっぱりここにいた。中に入ろう。外は冷えるよ」
足の長さを活かして数歩で、私の前までやって来ると大きな手が伸びてくる。
私はその手をただ見つめ、やがてふいと目を背ける。
「寒くありません。どうぞ私のことは放っておいてください」
「そういうわけにはいかないだろう。君に風邪を引かれたら困る」
「そうですね。仮にも妻ですものね」
嫌味を含んだ口調で言うと、男性は眉をひそめた。
「俺はただ…。君のことを」
「心配ですか?必要ありませんわ。自分のことはよく分かっておりますから」
「…っ」
男性は何か言いたそうに口を開くが、私はその前に男性の横をすり抜けていく。
「エマ」
「入りましょう。あなたまで冷えたら私も困ります」
夫のことを心配するフリをして、私は今日もこの人の妻を演じる。
◇◇◇
夫とは政略結婚だ。
お互いの家の利害が一致したためと、父親通しの交渉が上手くいったため息子と娘を結婚させた。
だが、夫婦となった二人は歩み寄ることはなかった。
特に私が…。
結婚当初から、夫は他に好いた女性がいるみたいだった。
結婚に夢見ていたわけではない。
夫は優しく私のことを大事にしてくれ、常に気遣いも忘れなかった。
初夜も行ったが、愛がなく義務的だったと思う。
結婚から数ヶ月。
ある晴れた朝、夫が木漏れ日の木の下で女性を腕に抱いていた。
その女性は夫の従兄弟だった。
女性は涙を流し、夫の腕の中でしおらしく泣いている。
私は二階の自室から見ていて会話は聞こえないが、確かに二人は抱き合っていた。
私はその時、何かが壊れたように感じた。
あの優しい笑みを浮かべた夫は偽りだったのか。
私をあんな風に抱き寄せたことなんかない。
政略結婚でも夫とならば、夫婦生活を送れるんじゃないかって期待したが、二人の心が通わなければ成立しないだろう。
私はこの時から夫に心を見せないと誓った。
「エマ。夕食の時間だ。行こう」
「はい」
私の隣室は夫の部屋だ。
続き間となっているので、お互いの部屋をいつでも行き来できる。
だが、夫はなかなか心を開かない妻に遠慮をしているのか、勝手に部屋に入ってくることはなかった。
いつも扉をノックしてから入室する。
夕食は夫の両親も一緒なのできちんと正装しなければならない。
今夜の私は、淡いグリーンのドレスに髪はゆるやかに頭上にまとめている。
夫はそんな私を見て眩しそうに目を細め、いつも通り「綺麗だよ、エマ」と言う。
私は「ありがとうございます」とだけ返し、作り笑いを浮かべたまま夫の差し出された逞しい腕に手をかける。
今夜の夫も素敵だ。
黒いタキシードに艶やかな黒髪を後ろに撫で付けていた。
優しげで色素の薄い緑の瞳は、私のドレスと似ている。
「あなたも素敵です」と言えれば、どんなにいいか…。
私はそんな夫の姿に密かにときめきながらも、見ないフリをした。
夫が優しげな目の奥に強い意思を宿しながら、私を見下ろしているのも気づかないで―――。
カチャカチャとお皿の上の肉を、ナイフで切る音が室内に響き渡る。
私と夫が並び合い、右側に夫の両親、その真向かいに義弟という並びだ。
「お口に合うかしら?エマ」
義母が夫と似た色素の薄い緑の瞳で、優しく訪ねてくる。
「はい。お義母さま」
「良かった。今夜のお肉はあなたの故郷から取り寄せたものなの。少しは故郷の味も食べないとね」
「うむ。実に美味だ。エマの故郷の料理は美味しいからなー。もちろん、君が作った料理も美味しい」
「まあ、あなたったら」
義父も義母の意見に賛同する。
お二人も政略結婚なのに、20年以上たっても新婚並みに仲が良い。
今も義母は義父の言葉に、可愛らしく頬を染めている。
まだ一年半の私にとっては、お二人の仲の良さには羨ましい限りだ。
「またやっているよ。父さん、母さん。義姉さんが困っているだろ?」
「あら、ごめんなさいね。エマ」
「いいえ」
義弟のアレンが呆れたように言うと、義母が照れたように笑う。
私が微笑むと、夫も優しく微笑みながらこちらを見ていた。
どきんと胸が高鳴り、私は自然に目をそらしワインをちょびっと飲む。
「ははーん、兄さん。今見惚れていただろ」
「ばっ…。違う」
「あらあら。ベンは情熱的ね」
「違うって!」
弟と母にからかわれ、夫は珍しく赤くなっていた。
政略結婚とはいえ、こんな和やかな家族に囲まれ、エマは申し訳なく思っていた。
夫は私を好いてはいない。
ただ合わせているだけよ。私に。
エマは作り笑いを浮かべながら、いかにも良妻であるかのように振る舞う。
一方、頭の隅では家族の一員にはなれないのだと自分に言い聞かせていた。
「今夜は飲み過ぎた。君もゆっくり休んで」
「はい。ありがとうございます」
私の部屋の扉まで、夫は律儀に送り妻を気遣う。
部屋に入れば、続き間から自室なのに夫は私の部屋に入ろうとしない。
夫はお酒に弱く、すぐに赤くなり眠気が強くなるといつも言っているが、今夜はなかなか立ち去ろうとしない。
私をじっと見下ろして何か訴えている。
「あの?」
その意図が分からず私が首を傾げると、夫が手を伸ばしてきた。
私の腕をとると、優しげな目元を細める。
私はお酒で微かに赤くなっていた頬をさらに染め、伏し目がちにして夫から離れた。
だが、腕は掴まれたままだ。
「…っも、もうお休みください。酔っていて眠いのでしょう?」
「君がいなければ寝れない」
「え?」
「…眠れないんだ」
夫は酔いが回っているのか、普段は言わない言葉を口にした。
目元が赤くなり、穏やかな笑みは消えていた。
私は無表情の夫をあまり見たことがないので、少し怖いと感じた。
怯えの走った妻の顔に、夫ははっとなり「すまない」と謝る。
「ごめん、気にしないで。おやすみ、エマ」
「お、おやすみなさい」
名残惜しそうに私の腕から手首、指先と滑らせるとするりと離れる。
いくら酔っていても今夜のような夫は見たことがなかった。
私は動揺を隠せず夫が気になるも、おやすみと言った手前、扉を静かに閉める。
扉に背を向けると、パタンと夫の部屋から聞こえた。
続き間は鍵はかけていない。
行こうと思えば、いつでも行ける。
だが、私も夫もそうしない。
行けば、私の脆いガラスはいとも簡単に割れてしまうだろうから。