ローマ進軍
マリアの目にはジグムントが幾らか気落ちしているように見えた。というのも、道中彼は言葉を少なめにしていたからだ。こちらが話しかけてもああ、とかうん、とかしか返事を起こさない。一週間かけてロンバルディア軍管区に入り、いよいよ彼の様子がおかしいと思ったマリアは夕食後にジグムントを呼び出した。
「あんた、どうしたの。出発前はあれだけ血気盛んだったじゃない」
「ああ、なんだか落ち着かなくってさ。最早イタリア戦線での戦闘は片が付いているのかもしれないと考えると」
「それはこちらが勝つと言う意味で?」
「そうだったらこんなに悩まないさ。僕たちはこれから無駄死にをしにいくのかな、と思ってね」
「バシレイオスってのはそんなヤバい相手なのね」
「ああ。平和な土地から来たお坊ちゃま達はみんな死ぬと思うぜ」
「そもそも人を殺すことに躊躇しそうね。虫も殺せないんじゃないかしら」
マリアはここに居ない人間をそう揶揄してジグムントの心を軽くしようとした。しかし彼の表情は一向に優れない。暗闇に閉ざされた空を見て、
「ワラキアが僕を呼んでいる......」
とだけ呟いた。
「そうよ、あんたがこんなところで死んだら、ダキアで死んだあんたの幼馴染やその家族の無念は誰が晴らすの?」
「判ってる。こんな糞みたいな戦いだけど、僕とマリアは生き残らないと。バシレイオスは僕が殺す」
マリアはジグムントの雰囲気が戦士のそれになった事を感じた。こうなったジグムントが負けたことを見たことが無い。たとえマリア自身相手でも。
しかしジグムントの心の奥底では別の何か形容しがたい違和感を感じ取っていた。そのことを考えるたびに今はもういない筈の幼馴染の少女の顔が彼の脳裏にちらつく。彼は心の中でその少女に問いかけた。―――ナディア。お前は生きているのか?、と。
縋るような妄想だったが、考えてみれば納得の出来ない話では無かった。彼は戦闘を直接目にした訳では無かったし、彼の父親もナディアの死体は確認していなかったと言っていた。家族の死体が発見されたことから、おそらく死んだのであろうとも語っていた。そうなれば、ナディアは今、死よりも辛い目に遭っているだろう。東帝国の奴隷の扱いは常軌を逸脱していると聞いている。
そこまでジグムントが考えていた時であった。第三者が彼らに近付いてきた。フランシスだ。
「どうやら敵はローマを貶めたらしい。我が西帝国軍はローマ北方に陣を置いている」
「という事はローマで決戦という訳ね。願わくはバシレイオスが居ない事ね......」
「まだ軍そのものは堕ちていないか。ならこちらにも光明がある」
「例えば何よ?」
「ローマを火の海に沈めれば良い。そうすれば東帝国軍は皆殺しだよ」
「それは......!いや、そんなことは許されるわけがない。ローマは旧帝国の帝都だぞ?俺達のアイデンティティーでもある」
「知らないね、そんなことは。何せ僕のルーツは騎馬民族なんだ」
「しかし帝国の大部分はローマに魂を売ったゲルマンだ。彼らがそれを許すとは思えない。そして何より俺が許せない」
「私もゲルマンじゃないから、何とも言えないけれど皇帝陛下はそれを許すかしら?」
「勝っても負けても極刑だろうな」
「まぁ二人からの評価が低いのは判ったよ。僕は戦略を決めるような役職についていないから安心して。だけど、そのくらい突飛な作戦じゃないとローマは落とせないだろうね。何せ旧帝国の中心だったのだから」
ジグムントは遷都した今もなお、文化の中心地であり続ける旧帝都に思いを馳せた。彼は異民族なので全く分からないが、一般帝国国民にとってローマとは彼らの心そのものだ。そしてまた一方で、東帝国にとっても同じだ。ローマを攻略し我が物にすることは、相手のアイデンティティーを傷付けると同時に自らの正当性を確認出来ることでもある。西帝国軍は決死の覚悟でローマを取り返そうとするだろうし、東帝国軍は果敢に抵抗するだろう。そしてローマそのものが護り易く、攻め難い。彼ら古代帝国人は、緻密に計算された都市と共に異民族を撃退し続けた。
ジグムントは、配給の酒を少しばかり舐めた。空を見上げれば星が輝いて見える。苦しい戦いになるだろう。士官学校生に関しては二割が生き残れば御の字かもしれない。ジグムントには容易に想像できた。敵の勇猛な将兵の足元に転がる未だ半人前の士官たちの亡骸。彼とマリア、そしてジグムントが実力を認めた弓の天才なら生き残ることが出来るかもしれない。フランシスは、未だ彼の実力を見たことが無いのでジグムントには判断出来かねた。彼はテントに入り、横たわった。戦いはもうすぐだ。休めるときに、休んでおかなくてはならない。
翌日、彼らはローマに向けて再び出発した。道中、ヒスパニアやルシタニア、マウレタニアからの増援とも合流し、総計3千の軍勢がローマへと向かった。現地には凡そ五千の軍勢がいるといい、彼らの合流を持って八千の軍勢になる。しかし、もちろん攻撃側に多大な損害が出るのは当たり前だ。そして一般的に東帝国軍の方が練度が高い。勝てる可能性は少なかった。
三日後、彼らは本軍へと合流した。謁見した西帝国軍総司令は何も言わなかったが、彼ら新米兵の扱いは惨憺たるものであった。陣の一番端に行くことを命じられ、配給も少ないものであった。司令官の側近達の視線は冷たく―――恐らく士官学校での散々な態度を知っているのだろう―――、中には表だって士官学校生の合流を喜ばない将兵たちもいた。大体の学生はそれが自分達に原因があることを知らず、憤っていた。
「なんか嫌な感じね。本軍が私たちを疎むのは道理だけど、もう少しやり方があるんじゃないかしら」
「戦う前から士気を落とすとは本軍もそんな程度だってことさ。だけど、僕たちも身の振り方に気を付けなくてはいけない」
「後ろからぶすっとなんて嫌よ、私は」
「何しろ僕たちの実力は戦場に出れる物じゃない。この士官学校生百人の一番効率の良い使い方と言えば、肉壁だろうね」
「ヤン・エドゥアルトは何か秘めてそうね」
マリアは総司令官の表情筋がなさそうな顔を思い浮かべた。ヤン・エドゥアルトは40に差し掛かるくらいの高級将校で、リスボン大軍管区指導者ピサロと共にルシタニアを占領した異教徒軍をポルトの戦いで壊滅させた英雄として名高い。平民の出でありながら、西帝国中央軍の一派の司令官を任されるほど皇帝ルートヴィヒ二世に信頼された徹底的な叩き上げの軍人だ。しかしマリアもジグムントも、この時は彼の腕に懐疑的であった。
「さあ、ね。彼が本当に有能な指揮官かどうかは最初の作戦でわかる」
「ええ。本当に英雄なのか、腕の見せ所ね」
二人はどこか他人事のように考えていた。
夜も更けるころ、本軍からの伝令が士官学校生たちにこう伝えた。
「油紙を集めて、矢に括り付けろ」
ジグムントはひゅうと口笛を鳴らした。どうやらヤン・エドゥアルトは柔軟な思考の持ち主らしい。
士官学校生にとって、初めての実戦が迫ろうとしていた。