とは言えまだ緊張感は無かった―――。
それは、何時だって急に始まる。
ジグムントは、士官学校生に与えられるアパルトマンの一室で彼宛に届いた手紙を読んでいた。内容は、硬直したイタリア戦線への行軍命令だった。おそらく、士官学校四年生は皆届いている事だろう。召集令状には、イタリア半島南部、サルディニア及びシチリアを奪回せよと書かれている。ジグムントの知る限りイタリアは西帝国領だったはずだが、いつの間に東帝国に侵略されたのだろうか。
「まさか」
しかし、彼の知る限りシチリア大軍管区やサルディニア軍管区の出身者は居なかった筈だが、もし居るのならその親や親族は捕虜になっている可能性が高い。
「イタリア出身の学生は居ても南部出身は居ないような気がするな」
「勿論居るわよ」
突然聞こえた自分じゃない女の声に振り向くと、マリアが玄関に背を預けて立っていた。
「鍵は開けていない筈だけど......」
「ピッキングよ」
盗賊にでもなる心算だろうか。ジグムントは呆れて物も言えなくなった。
「入るわよ。うわ、何この生活臭のない部屋。死人の部屋かしら?」
「人の部屋に文句付けんな」
確かにジグムントの部屋は備え付けのテーブル、ベッド以外には本棚しかなかった。しかし不法侵入者に言われる筋合いはないというものだ。
「それで、何が居るって?」
「シチリア大軍管区指導者の息子がよ。確か......名前はフランシス。私達と同じクラスでは無いけどね」
「ふーん、ていう事はそのフランシスの親父は?」
「残念ながら......」
これは不確定の情報だけど。
マリアはそう言って話を始めた。
「マクシミリアーノシチリア大軍管区指導者、アレーモカラブリア軍管区指導者が死んだらしいわ。その家族もね。他の軍管区指導者は判らないけれど、多かれ少なかれそんなところじゃないかしら」
その話というか、その惨事を引き起こした犯人にジグムントは心当たりがあった。
「皆殺しのバシレイオスがイタリアに居るというのか......!」
「誰よそれ」
「知らないか?東帝国と接している軍管区の人間は誰でも知っている。子供の頃、『皆殺しのバシレイオスに会ったら終わりだと思え』と父親に口酸っぱく言われたものだよ」
苦い過去を解き放つようにしてジグムントは話を続ける。
「今から五年程前か。エルデーイの戦いを知ってるか?」
「東帝国のトランシルヴァニア侵攻を機に始まった幾度めか知れない局地戦の一つね。東帝国側の司令官は確か、第三皇太子だったかしら」
「そう。その皇太子がバシレイオスなんだ。今の皇帝アレクシオス3世には四人の息子が居て、それぞれ第一皇太子がウェルギリウス、第二皇太子レオニダス、第三皇太子バシレイオス、第四皇太子コンスタンティヌスって言うんだ。アレクシオス3世はそれぞれの子供達に東西南北の方面軍を任せているらしい。で、西方方面軍―――つまり対西帝国軍―――の総司令官はバシレイオスだ。彼は敵国の人間を皆殺しにすることで有名だ」
―――無論、一般市民も―――。ジグムントはそう付け加えた。そして隣の領地を治めていたトランシルヴァニア大管区指導者とその家族及び領民に起きた悲劇も説明した。兵士市民関係なく皆殺し。顔が良い女は多分皇族の奴隷になっているだろう、とも。
「お前は顔が良いから生き延びる可能性が有るが、僕たちは漏れなく死ぬだろうな」
「聞いてて気持ちのいい話じゃないわね。しかし、疑問があるわ。イタリア半島は彼らから見たら西側だけど、地理的に考えて南方方面軍を出して来る筈じゃないのかしら」
「恐らく、恐らくだが彼らはこの一戦で方を付けるつもりなのだろう。そして西帝国軍上層部もそれを察している」
「だからこそこのタイミングでの学徒出陣ってわけ」
「僕たちは一般学生ではないから、ただの学徒では無いけどな。だが、忘れてはならないことがある。彼らはイタリア戦線に兵力を統合させるだろうけど、それでも裏にも兵力はある」
「ああ、まだ東方方面軍と北方方面軍が居るわね......」
「ああ。恐らくボスフォラス海峡を渡ってバルカン半島に進入してくるだろう。何せロシアはあのいけ好かないノルマン人共の王リューリクが治めていて、白ロシアや赤ロシアにはタタール人が居る。彼らとは言え迂闊には手を出せないだろう。そして、東方にはペルシア人が居る」
「なら、タタールやノルマン、ペルシアと手を組むのはどうなのよ」
「タタールやノルマンと手を組むのはあり得ない。彼らに領土を与えることなど出来ないからだ。まず最初に分割されるのはレキア、ボヘミア、モラヴィアだろう」
ジグムントはマリアの目を見てそう言った。もしタタール人かノルマン人と手を組むことになれば、お前の国は無くなるんだぞ、と。
「そうね、迂闊だったわ。じゃあペルシア人は?」
「僕が思うにありだと思う」
「なら」
「でも、彼らは異教徒だ。それこそノルマン人やタタール人も異教徒だが、ペルシアの宗教は僕たちの宗教と相容れないだろう。そして異教徒と手を組むことを皇帝が許すことは無いだろう......」
「宗教なんて皆そこまで信じていないのにね」
「僕たち市民はね。でも皇帝になるには敬虔な信者じゃないといけない不文律のようなものがあるらしい」
「軍管区指導者は別にそうじゃないわよね」
「そもそも宗教では無駄な殺生を禁じている。敬虔な信者が指導者になればそれこそ戦争にならない」
「確かにそうね」
ジグムントはもう一つ気になることを思いついた。
「僕たちが召集されるという事は、現地軍もかなり苦しいのかもしれない」
「ところがそうでも無いらしいわよ。週刊アーヘン新聞によると、『イタリア戦線、連戦連勝。不当にも奪われたサルディニア、シチリア、南イタリア奪回まであと少し』らしいわ」
「それが本当なら良いんだけどね。マリアもそんな事言ってるけど本当は判ってるでしょ」
「むしろこれを手放しに信じる人がいるのかしら」
「ルーマニア戦線も、ボスニア戦線もここ最近は勝ち星を聞いたことが無い。そんな時もこの新聞は連勝していると言っていた」
「ええ、私達は軍管区指導者の家系だから真実の情報が遅くなっても回ってくるけど、これしか情報源が無い人は可哀相よね」
「新聞が嘘をつき続けて国が亡びないことを祈るしかないな......」
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ジグムントとマリアはアーヘンの軍詰め所に向かうことにした。彼らは学校で剣を使っているが、それは歯が潰された訓練用の剣であるから。幸い人は疎らで、すぐに装備一式を入手できた。鉄の板で裏打ちされた軍服に、士官以上に支給されるコート―――彼ら士官学校生は全て少尉相当である―――、鈍い光を放つ鋼の剣、鉄板が仕込まれたブーツ、各種紋章。完璧に二人用に調整されたそれらは二人の気持ちを否応がなしに高ぶらせた。マリアは単純に戦いたくて。ジグムントは、ご近所の仇を討たんと怪気炎を吐いていた。
そんな二人を見て、他の士官学校生は諦観と羨望の眼差しで見ていた。そもそもの話だが、士官学校とは軍人を養成する学校だ。だから女子は少ない。居てもゴリラと像を掛け合わせたような女ばかりである。そんな男臭い学校に咲いた一輪の花がマリアだ。だからジグムントに嫉妬するのも普通だ。しかし、ジグムントの腕は普通じゃない事を普段の学校で身に染みて判っている為に喧嘩を吹っ掛けることも出来ない。
だから。
二人にこそこそと付いてくる一人の男に興味を持った。わざと裏路地に行き、その追跡者がどう出るか確かめようとした。すると。
「おい」
と武骨な男の声が二人を呼び止めた。
「何かしら」
マリアとジグムントは振り向いた。前者は追跡者の顔を見て驚いたが、後者は全く何も感じなかった。追跡者の正体が判っていないジグムントにマリアは憐みの視線をくれてやり、男に真意を尋ねた。
「あら、シチリアのフランシスじゃない。どうしたの?」
「彼が?」
「ええ、例のシチリア大軍管区指導者の息子よ」
その会話でフランシスは自分の噂が様々な処で飛び交っていると悟った。
「俺の親父と家族の話を知っているなら猶更好都合だ......。この通りだ、家族や領民の仇を晴らすのを手伝ってくれ......!」
すると驚いたことにフランシスは土下座をした。彼自身は何の非も無いというのにだ。
「顔を上げてくれ。別に悪いのはお前じゃないだろ?」
「だがな、どうしようもない頼み事だと自覚しているからこうせざるを得ないのだ......!」
「判ってる。アレクシオス―――東帝国第三皇太子だろ?僕も個人的な用があるんだ。奴を殺すのは吝かではない」
「ありがとう、ジグムント。お前の名は学校中に轟いている。そんなお前に協力してもらえるなんて嬉しい限りだ、『流星剣』」
「ハ?」
ジグムントが隣を見ればマリアはニヤニヤと笑っている。
「知らなかったの?あんたの二つ名よ、良かったじゃない」
表情だけで堪えていたが、余りにも可笑しいのかマリアは噴出した。ジグムントが絶対零度の視線を差し向けるもマリアは素知らぬ顔だ。
「ああ、マリアさんもそんな風に笑うんだな。『豪剣のマリア』は無表情なことで有名だというのに」
「え、マリア『豪剣』なんていう二つ名持ってるの?その顔で?『豪剣』?似合わな!」
「あんた、覚えておきなさいよ」
「お前こそ」
マリアとジグムントは睨みあった。一方フランシスは一体二つ名のどこが悪いのか判らなかった。というのも、二つ名は恐るべき戦士に着けられるもので、一般の士官学校生からしたら名誉あるものだったからだ。
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翌々日。士官学校四年生約100人がイタリアに向かって出発した。皇族の有難いお話や、校長の有難いお話。下級生によって高らかに歌われた西帝国国歌が彼らの背中を押した。学徒兵は初めての戦場に高揚していた。それはジグムントもそうだったが、一方で良くない予感を感じていたことも事実である。何せ敵は皆殺しで有名なバシレイオス。こちらは人を殺したことが無い生徒がほとんどだ。報道通り現地の西帝国軍が優勢なら大した苦労はしないだろう。それでもジグムントはこの中の一割から二割は死ぬと計算していたが。問題なのは伝わっている情報が間違っていた場合だ。もし、新聞での報道が間違っているならば、学徒兵は全滅することになるだろう。そして、それを確かめる術はもう無い。