タルタロスの森 外層②
定期的に行われる、アブソリュート最高司令官とテミス国法管理局局長の話し合い。ファスやフォグリアたちがタルタロスの森の調査に赴いている頃、それはアブソリュート本部の最高司令官室で行われていた。
いつも座っている椅子から離れ、部屋に入って右手側に置いてある応接用の茶色い艶のあるテーブルに、向き合うように置かれた2つの黒いソファ。その片方に座っているのは司令官ネオ=グランソール。もう片方に座っているのは、黒い法衣を身に纏い、法に関して最も大きな力を持つ者の証である金のバッジを付けた、まだ30代に入ったばかりくらいに見える男だった。
肩下まである長い白髪は綺麗に手入れされており、端整な顔には常に優しく微笑みを湛えている。年の割にはそれ以上の落ち着きが感じられ、法に則り裁きを下す立場の最も上にある者にしては、少々穏やか過ぎるようにも思えた。
金のバッジに刻まれた名は、アンヘル=トイフェル。全属性使いでもある彼は、優秀な魔導士としても名高い。
テミスの局長、さらには全属性使い、それだけでも有名になるのは必然なのだが、彼を有名にした理由がもうひとつ。
それは、彼が『天使』の血を引いていること。
天使の存在はもう何年も確認されておらず、すでにその種は失われてしまったのではないかと言われている。僅かに残っているのは、彼のようなハーフのみだ。
しかし、天使は決まった姿を持たず、自由に姿を変えることができるとされているため、もしかすると、ひっそりとどこかで暮らしているのかもしれない。
共通の特徴といえば、力を解放した時に現れる純白の羽。天使の最大の象徴であるそれが出現している間、天使は強大な力を発揮できた。
しかし、ハーフであるアンヘルは、天使の力を存分に発揮することはできない。だが、天使の力が十分には使えなくとも、彼は相当な実力者として名を連ねているのだった。
「さて、私の方からは以上ですが、他に何かございますか?」
手元の分厚い資料の束を整理しながら、アンヘルはネオに問いかけた。そして、もう冷めてしまった紅茶の注がれた白いティーカップに手を伸ばす。
問いかけられたネオは、一度ゆっくり瞬きをしてから、今一番頭を悩ませている事柄を口にした。
「そうですね……最近頻発している爆破事件と、ウルカグアリの巫女誘拐事件の指名手配犯の件について、何か進展は?」
それを聞いたアンヘルは、カップに伸ばしていた手を静かに引っ込め、弱々しく首を横に振った。
「ああ、その件に関してですか……我々も必死で捜してはいるのですが、どうにも成果が出ていないのが現状でして。テミスの者として、面目ないことです」
申し訳なさそうにそう言うアンヘルの顔を見ながら、ネオは思案する。
「それは我々も同様です。しかし──」
「何か?」
何か言おうとして急に口を閉ざしてしまったのを不思議に思ったのか、アンヘルは問いかける。ネオは言おうか言うまいか少し迷った末、首を横に振った。
「いや……引き続き、協力して捜査を続けましょう」
「ええ」
にこり、とアンヘルは笑みを浮かべて頷いた。
アンヘルの足音が遠ざかっていくのを確認した後、ネオは背もたれにもたれかかって大きく息を吐く。
「注意は必要か……」
ネオは、静まり返った部屋で、ポツリと呟いた。
部屋の外に出ると、黒い法衣を身にまとった秘書の女性が、アンヘルを待っていた。
「アンヘル様、この後のスケジュールですが──」
アンヘルの隣を歩きながら、秘書が淡々と今日のスケジュールを述べていく。つらつらと途切れることなく読み上げられるそれは、今日も仕事の多さを物語っている。
それを聞きながら、頭の片隅では別なことを考えていた。
「──注意は必要ですかね」
おもむろにアンヘルが呟いた言葉に、秘書は首を傾げる。
「どうかなさいましたか?」
しかし、アンヘルは微笑みながら首を横に振った。
「いえ、気にしなくていいですよ。それより、すぐにテミスに戻って仕事を再開しましょう」
「分かりました。……それにしても、只でさえお忙しいのに、爆破事件の調査に関しても局長自らが行うことになるとは。ご無理をなさってはいませんか?」
アンヘルを気遣うように、女性は尋ねた。アンヘルは、只でさえ多忙な日々を送っている。そこに今回のような事件が舞い込んできては、彼女が心配するのも当然のことだ。
彼の周りには優秀な部下たちがいるが、彼らの力をもってしても事件の解決には至っていない。
その状況で何も打開策を投じなければ、テミスが手を抜いているのでは、などと悪い噂も立ちかねないだろう。
「アブソリュートがあれだけ躍起になっていると、ね。私も、さすがに動かざるを得ませんよ」
法に触れる行為、今回のような爆破や誘拐などは、テミスが処理すべき仕事だ。アブソリュートは基本的に何でもやるが、テミスは法を犯した者に裁きを下す最大の権限を持つ。
法の頂点に立つ者として、アブソリュートに後れをとるわけにはいかなかった。
「私の心配はいりませんから、君は君の仕事をきちんとこなしてください。君こそ、日頃からよく働いてくれているんです。たまには休暇を取ってみてはいかがですか?」
しかし、アンヘルは疲れを表に出さずに、優しく秘書を労った。
「いえ、私はそんな……」
「謙遜しなくても、本当のことですよ。しかし、今日のところはまだ仕事が残っているようですから。早く片付けてしまいましょう」
「はい」
にこり、と絵に描いたような美しい微笑みを浮かべるアンヘルに、心なしか頬を赤くして女性は頷いた。
「あの……アンヘル様」
しばらく黙ってアンヘルの隣を歩いていた秘書が、ふいに彼の名を呼んで立ち止まる。
「どうしたのですか?」
そんな秘書の様子に、不思議そうな表情を浮かべながらアンヘルも立ち止まり、振り返った。
俯き加減だった秘書の女性は、書類を抱える手に力を込めると、アンヘルの青い瞳をまっすぐに見ながら口を開く。
「ありがとうございます、私を拾ってくださって」
その言葉にピンときたアンヘルは、ゆっくりと首を横に振る。
「ああ、そのことですか。礼を言われるようなことではありませんよ。君はとても優秀だった。その力は、生かさなければならないものです」
「そんなこと……私は、アンヘル様がいなければ、今頃どうなっていたか分かりません」
「君は、努力してきたのでしょう?──私も君と境遇は似ていますから、大変だったのは分かるつもりです」
「アンヘル様も……ずっとお独りで?」
いつもの笑みの中に寂しさの色を感じ取り、秘書は少しためらいながらも尋ねた。その問いを、アンヘルは隠すこともなく肯定する。
「ええ。しかし、私に救いの手を差し伸べて下さった方がいます。私には、その方が『神』のように見えましたよ」
そう話すアンヘルは、本当に嬉しそうに笑っていた。
決して、彼は楽に今の地位にいるわけではない。ここに至るまでに相当の努力と、苦労をしてきている。持って生まれた能力値は高かった彼だが、それが開花したのは今から十数年前の話だ。いくら努力しようと、苦労しようと、どれだけ力を持っていようと、這い出ることのできなかった場所から連れ出してくれた存在。言葉では言い表せないほど、彼はその存在に感謝していた。今でも、その気持ちは少しも変わらない。
微笑むアンヘルを見た秘書は、自分も嬉しそうに顔をほころばせた。
「私も、アンヘル様に出会った時に、同じことを思っていました」
秘書の言葉に、アンヘルは少し驚いたように眉をあげたが、やがてふわりと微笑んだ。
「私は、君に自分を重ねていたのかもしれませんね」
そう言って、遠い昔の自分を思い出すようにアンヘルは目を細める。
「私たちのような思いをする方がいない世界になるといいのですが。法を司る者として、できることをしていきましょう」
秘書は力強く頷いた。そしてアンヘルはテミスへの帰路につく。
その表情は、どこか満足げだった。
 




