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親指のおばさん

作者: 小林 米



「ちょっと、来てみろよ」と両手に何か隠し持っているという仕草で、時田がいうので、ぼくは最初、ほとんど帰ろうと思った。何度か、こうやって話をもちかけられて、彼の屁の匂いを嗅がされた事があった。場所は喫茶店である。

 大事な話がある、といってこの日、ぼくは呼び出されたのである。彼は、とてもケチな男だった。電話代の十円を使ってまで、自分のおならの匂いを嗅がせる事などあり得ない。それで、ぼくは、

「なんだい、見せろよ。へへへ」などと調子にのって話に乗ったのであるが、時田が両手を開いた時、そこには、親指サイズの小さな中年女が座っていた。

「親指姫なんだ」と時田が言った。

「誰?何なの一体」と親指姫だと称する熟女が言った。口の匂いがきつかった。胃腸かどこかをやられているに違いない。ガタがやってきていてもおかしくない年齢であった。

「これで一儲けを考えている。どうだい?やるかい」と時田が誘ってきた。

 てっきり、ぼくはビジネスパートナーとして一緒に儲けよう、と言っているのだと思っていた。ところがどうだ。話が進んで行くにつれて、どうやら、彼はこの熟女を一日千円でぼくに貸してやる、という話をしているらしい事に気がついた。

「こんなどこで拾ってきたんだい、ええ?あった所に戻しておけよ。今に連れ子を何人か連れ込んでくるに違いないぞ。あっちこちで糞を漏らすんだ。お前の部屋のアパートをめちゃくちゃにして、いろんな所にシールを貼るぞ。戻してこいよ。気味が悪いよ、汚いよ。それにわきもにおうぜ」

 ところが、彼には自分が厄介者を背負ってしまったという自覚が犬ほどもなかった。それどころか、ぼくがこういってアドバイスを送っておいて、後で捨てた場所に戻って独り占めするのだろう、などと激怒し始めたのだ。

「おまえは一番の理解者だと思っていたんだけどな。こうなるとお前との付き合いも考えんといけん」

「一万円返せよ。もうあわないつもりなんだろう。だったら、一万円返せよ」

 親指姫だが、彼女はサイズに合う服がないらしく、トイレットペーパーの切れ端を体に巻き付けていた。それが時田の手汗をすって、体にぴったりと張り付いていた。陰毛が透けて見えた。

「借りる気になったんだろう」いやらしい顔付きで時田がぼくを見る。ぼくがじっと親指姫の体の線を眺めているので、勘違いしているのだ。

「何だよ、これ」とぼくは親指姫の足の間から伸びている紐を引っ張った。

「あれ、まあ!」などと親指姫が言うとほとんど同時に、ポンと空気の抜ける音がした。これは本当だが、スゴい音だった。見るとタンポンである。先端に血がついている。

「ごめんよ」とぼくはあやまったのだが、親指姫のほうはと言えば、見ず知らずの男にタンポンを引き抜かれた経験があまりにも衝撃だったのか、膝を抱えて泣き出してしまった。

「借りてくれよ。お願いだよ」膝を抱えた為に、陰部が丸出しになった部分を新しくとったティッシュで隠しながら時田が懇願する。「二日で千五百円でもいい」

「特別割引だろうな?」

「ああ」

 思えば、これは恐らく、時田と親指姫が仕掛けた巧妙な罠であるに違いなかった。何か良く分からない場所から、何につながっているのか分からない紐がのびてあれば、誰でもちょっと引っ張ってみたくなるだろう。時田とは幼なじみだ。彼は、ぼくがそういった状況に陥れば、必ずや紐を引っ張りたくなる、という事を分析したのだ。そうとしか考えられなかった。けっきょく、泣いて泣く、熟女をなだめる手段としては、お金を払って借りる事しかないようだった。

 家へと帰ると、さて、とぼくはタッパーに入れた親指姫をテーブルの上に出してあげた。タッパーは時田が貸してくれたのだ。返す時に返却しなければならない。

 清水美佐子というのが親指姫の名前だ。ぼくは、もちろん聞いていないのだったが、見ず知らずの他人のアパートへと入り込んだという事に気兼ねしたのか、彼女のほうから喋り始めた。彼女は、ずっと気を使っていた。

「十六歳よ。だから分かるでしょう?そういう事はだめ。法律で決まっているもの」

「ああ、そうかい。残念」とぼくは彼女にあわせた。とてもではないが、裸のままの女性を前にして、そんな事をするつもりはない、とはいえなかった。気落ちさせてまた泣き出すかもしれない。

「とりあえず、何か着よう」

「あなたったら興奮するのね、その前に風呂に入りたいわ。じょうろある?」

 彼女が風呂に入っている間に、ぼくは何か適当な洋服を見つけておこうと思った。ところが、この熟女は、一人で風呂にも入れないのだ。人肌よりも少しぬるめのお湯をじょうろに詰めて、彼女が鼻歌をうたい、ぼくはずっとその間、洗面器めがけてじょうろで流し込んでいないといけないのだった。当然、洗面器が一杯になると、

「ぬいてぬいて」などと鼻歌を中断しながら、下のほうで小人が叫ぶのである。

 よっぽど一時間で返却しようと思ったが、千五百は支払ったのだから、もったいない。

 彼女を見せ物にして、お金をとろうと思い立ったのは、必然であった。誰でも、こんながらくたに千五百円も支払ったのだから、元を取ろうとがんばるに違いない。

 ぼくは、早速ストリップバーで踊り子として働いてる佳子という女友達に電話をかけ、きてもらった。なんとか彼女の店で、この熟女を働かせてやれないだろうか、と考えたのだ。

「だめよ。こんなちっちゃいんじゃ。お客さんはみんな酔っぱらっているでしょう。だれも見えないわ。おっぱいだって探すのに探偵をやとわなくちゃ」

「でも、珍しいだろう。よっぱらったおじさんがたにはうけると思うんだけどな」

「店長に聞いてみるわ。期待しないで、店長たらおばさん嫌いなのよ」

 佳子が携帯電話で店長に電話をかけている間である。親指姫をふと見ると、彼女が非常に苦しそうな顔をしているのに気がついた。表情の細かい所など、小さいのでよくわからないのだ。

「どうしたの?」と聞いても、自分のくびもとを指差すばかりでよくわからない。

 洋服である。冬の間にぼくが使っていた手袋の親指部分を切り取って、着せていたのだったが、風呂上がりの水分をすって膨張し始めていたのだ。それが首と全身を締め付けていたのだ。

 あっけないものだった。

 気がついたぼくが、せっせと脱がそうとがんばっている間に彼女は、動かなくなった。多分、勢いに任せて、えい、とばかりにやったものだから、どこか骨を折ってしまったのだ。

「店長やっぱりだめだってさ」と佳子が電話を切った。「どうしたの?」と聞く。

「なんでもないよ。いつもこうなんだ」とぼくは答えた。気まずくてとても殺してしまったとは言えない。親指姫はぐったりしていて、口からなにか変な汁を漏らしていた。

「病気なの?」と佳子がなおもしつこく聞く。

「分からない。見つけたときからこうなんだ。しょっちゅうがくがくやっているんだ」

 なんとか、佳子を部屋から追い出して、親指姫の手当をしなければ、とぼくは思った。死んだといっても、いろいろいじくればまだ助かるかもしれない。

「ねえ、しようよ」と佳子が言い出したのだ。地べたに座って、パンツを見せびらかしている。

 殺人罪になるわけはなかった。よもやこんな小さな人間の死体など、隠そうと思えばどこへなりとも、土にでも埋めてしまえば解決するのだ。時田には、何か良く分からないが、朝起きたらいなかった、そういえば夜中に「楽しかったわ」などと言っているのを聞いた気がする、などと言い訳しておけばいいだろう。

「いいじゃん、ねえ、しようよ」とすでに佳子はパンツを片手に持っていたのだ。

「よせよ」とぼくは、佳子のパンツをポケットにしまった。「帰れよ」

「なによ、急に。きもちわるいわよ」

「うるせえ!かえれったら」

 ぼくは、佳子を半ば強引に追い出した。「もうきてやらないから」と佳子は消えて行った。

 可哀想な親指姫。ぼくはその日、膝を抱えて泣いた。殺人罪で捕まる恐れはないとはいえ、人間を一人殺したのだ。彼女の親の事を考えた。いるか分からないが、子供達の事を考えた。お腹をすかせているかもしれない。

 次の日、ぼくは武蔵の墓を訪れた。むさしというのは、ぼくがお年玉で買った犬で、三日と立たずに死んだ。その墓に一緒に、美佐子を埋めた。朝起きれば、何事もなく起きだすと思っていたが、やはり彼女は動かぬままだった。

「じょうろを持ってくれば良かった」とぼくは思った。彼女はぼくがいれた風呂を喜んであげた。

 ジッパーをあけ、墓にかけ、ぼくは振り返るものか、とそこを後にした。


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