第1回 静かな港町
パテリア王国の西、隣国ガッリアとの国境近くにマーレという町がありました。
この町は海に面していたものの、内陸部を走る主要道ビタ街道よりずいぶんと離れていたため、旅人があまり訪れない町でした。
千年前、海を見たことがない炎王こと芙蓉姫が、一度だけ、此の地に立ち寄り、たいそう気に入ったとの伝承を持つ地でした。
町の正面には海が広がり、大小様々の島が点在していました。町を囲む岡に登り辺りを見渡せば、色白の島が、緑の木々を背負って、海に浮かんでいる姿を観ることが出来ます。
町は、この丘の下、海に向かってくだる緩やかな斜面にありました。白服に赤い帽子を被った家々が少ない土地をせめぎ合って建っており、その先には海に大きく腕を広げた港が懐に沢山の船を抱えていたのでした。
遠くに風を受け軽やかに疾走する船たち、空には海鳥達が翼を広げ舞っているそんな日の光を蓄えたのどかな町でした。
この町に二人の兄弟がいました。
兄はフレイト、弟はグレーティア。
二人は靴屋の息子で、仲の良い兄弟でした。
「グレーティア、もうそこらでいいだろう」
手を休めたのは、フレイトでした。
「兄さん、いま始めたばかりだよ?」
「畑の草むしりなんぞ、農家がやるもんだ。おれは靴屋だ、これでいいんだ」
「でも母さんが怒るよ」
「構わないさ、昨日余分に仕事したので、今日と差し引けば分からないさ」
「ちゃんと、していったほうがいいんじゃないのかなあ」
弟は、後で、こっぴどく怒られるのを心配しました。
「お前は、杓子定規なんだよ。だから他の奴らから、王子とあだ名をつけられるんだ」
「それ、褒め言葉と思っていたんだけど」
「まったく。お前は、なんてお人好しなんだ。平民のくせに、なにか上品なんだよな。こうなんというか、かしこまって、ちょこんと座っているような」
兄は、弟を見て、おとぎ話の王子はこんな風なんだろうなと思いました。
「韋駄天と呼ばれる兄さんは、その渾名を気に入っているんじゃないの?」
「まあ、足の速さは、俺の自慢じゃあるが。悪い気はしないな」
兄は自慢げに、鼻をを親指で弾きました。
「だったら、一概に悪口とも言えないよ」
「お前の口達者には負けるよ。賢さではお前が上だが。いいか兄ちゃんには夢がある」
フレイトは、自信満々と語りかけました。
「どんな?」
「パテリア一番の靴のマスターになることだ」
フレイトは胸を張り、親指で自分を指しました。
「兄さんなら出来るよ」
「当たり前だ。そうだ、グレーティアお前はなにを目指す?」
「僕は・・・・」
グレーティアは口ごもりました。フレイトは自分が一番関心がある問題だったので、つい口にしたのですが、その様子を見て、弟には未だ早すぎると、気がついたのでした。
「なあに、気にすることはない。大器は晩成すると言うからな。お前はそんな器かもしれない。俺が及びもしない大物になるかもな。そうだ書士なんかどうだ。名声と財を成すことできるぞ」
「それは何?」
「役人への交渉役というか、橋渡しだな。ほら、近くに、鬚をはやした肥満の男がいるだろう、彼は権益にかんする問題を、かなり解決して、町の人に重宝されている」
グレーティアには、分からない職業でした。
つまらぬ話をしてしまったと、反省すると、兄は遠くに目をやりました。
「見ろ、アグラチオ山がくっきり見えるぞ」
兄が指さした先には、麓が雑木林に覆われた大きな山がありました。そして、空が澄み渡っているためか、山肌がはっきりと分かり、中腹に白いものが、見受けられました。
「あれは、神殿だな。知っているか、あそこにはお宝が眠っているそうだ」
「お宝?海賊か何かの・・・」
「わくわくするだろう。箱を開けたら金貨がざくざくてことになったら、たまんないだろう」
若者の冒険心は、沸き立っていました。
「でもそれって、持ち主が使おうとして、置いていたものなのに、勝手に自分のものにしていいの?」
「まったくお前は。固い。そいつは生きていないだろうが」
兄は弟の柔軟性のなさに、呆れました。
「まあ、男のロマンてやつだ。それに勝っ手に、山に捨て置いた奴が悪い、お宝はいただくためにあるのさ」
「そういう、ものなの?」
「当たり前だ、そうだ、いつか二人であの遺跡を探索しよう。お宝を持ち帰れば、母さん腰抜かすぞ」
弟は、この言葉を印象深く、深く心に留めたのいでした。
兄の目論見は大いに外れました。町で息子達を見かけたお母さんは、言いつけ通りに仕事をしていないことを見破り、兄弟が帰ってくると、しこたま説教したのでした。
兄弟は、夕ご飯ぬきの罰は免れたものの、翌日、森に住むビルトス先生のお手伝いを命じられたのでした。
夕飯の時、お父さんはお母さんに語りかけました。。
「北では、アウダックという流れ者が、徒党を組み、大きな勢力となりつつあるようだ」
「まあ、なにか起きるのでしょうか」
「彼の地は、酷い官僚が赴任していらい、不満が貯まっており、その男を支持するものを多いと聞く」
「でも政府軍が動けば、鎮圧されるのでしょう?」
「だと思うのだが。今回はどうかな」
お母さんは不安な顔をしましたが、息子のフレイトは、混乱を期待しているようでした。
「フレイト。お前は靴屋になるか?」
お父さんは、息子に目をやりました。
「はい、父さんを超える職人になるつもりです」
「こいつ、よく言う」
お父さんは、苦笑しました。そして、改まったように姿勢を正すと、お母さんに視線を向けた後、息子にゆっくりと語りかけました。
「フォルムで学んでくるが良い。話はついている」
「え!はい」
いきなりの許しに、フレイトは胸躍らせました。以前から、都会で修行したいとの希望が叶ったからでした。
「そんな遠いところに、もっと近場はなかったのですか?」
お母さんは、息子が見知らぬ土地に行くのを不安がりました。
「フレイトの望みは大きいようだ。フォルムは、異文化が集まる土地だ、その地で修行することは財産となる」
「でも、大丈夫かしら」
「生け簀で育てるよりも、海に任せたほうがいい。男はそうなくてはな」
突然の、兄の旅だちでした、出発の朝、兄は、まるでピクニックに行くかのように旅支度を調えると、波止場の定期船に飛び乗ったのでした。元気よく手をふる兄を、桟橋で見送ると、家族は無事に着くように祈ったのでした。グレーティアは兄弟が居なくなることを寂しがり、これからは、母を自分が支えなくてはと、心の誓うのでした。
一人居なくなっただけで、家は少し寂しくなりました。なにかにつけ騒ぎを巻き起こしていた兄と違い、弟は言いつけを守っていたので、余計にそう感じられるのでした。
兄が家を去り、グレーティアは兄に替わり、家のお手伝いをしていましたが、両親は、何故かビルトス先生の手伝いをするように命じたのでした。
兄とは違う務めに、首を傾げながらも、彼は先生の手伝いに、なんども山を尋ねていったのでした。
そんなある日、グレーティアは、ビルトス先生の部屋で、宙を舞う木箱を目撃したのでした。
「驚いたかね」
ビルトス先生は、グレーティアが目を丸くして見つめるのを、面白がっていました。
「魔法じゃよ」
「これが魔法ですか。先生は魔法使いだったのですか?」
木箱は、右に流れて行きました。
「そうじゃよ。学んでみたくはないかね?」
「僕がですか。しかし、出来るでしょうか」
「無論じゃよ。君には才能がある」
グレーティアは、玩具を差し出された子供のように、なにも考えず飛びついたのでした。
ビルトス先生は博学な薬剤師で、これまで、数多くの学問を、彼に授けていましたが、限られた者しか使えない魔法を目の前にして、断る道理はありませんでした。
魔法はビルトス先生の秘め事で、公言してはいけないものでした。何故先生が魔法使いであるのかを隠すしているかについて、分かりませんでしたが、それは固く守らなくてはない事でした。
グレーティアのビルトス先生のお手伝いは、魔法の修行に転じたのでした。
毎日が魔法の修行に費やされ、次第に彼は魔法の技を使えるようになっていったのでした。
「雷撃が得意なようだな」
ビルトス先生は、指導中に言いました。グレーティアはやっと出せた技に感激していました。
「まさか、僕が魔法を使えるようになるなんて」
「だが、まだまだじゃな」
先生が指を一振りすると、強大な雷撃が飛び、巨石を砕きました。
「自分のは線香花火程度で、恥ずかしいかぎりです」
グレーティアは、その威力に驚かされ、高い山の峰を見せられた気分でした。
「訓練次第で、ここまで到達できる」
「出来るでしょうか?」
「無論じゃな」
グレーティアは気を取り直して、再び雷撃を放すと、空気を切って稲光が伸びたのでした。
「魔法は四大五元を基礎として、使うのだが、本来、魔法に形はない。雷撃とか水撃、空撃、そして火炎撃などとと分けているのは、エレメントとしてイメージを掴みやすくするためだ。両者はそのまま繋がっているわけではない。たとえば、四大五元の水だから、水攻撃などと、見なしてはならないのじゃ。エレメントの水はシンボルであり、水そのものではないのだ。各攻撃技は枝葉として違いがあるだけで、本来同一の原理に基づくものだ。だからお前は雷撃が出来るようになったと言うことは、他の技も出来るようになったということだ」
「なかなか、難しいのですね」
「普通でない技を使うのじゃ。取り扱いについては、十分な鍛錬が必要だ」
「安定した技を出せるようにならなければならないと言うことですね」
「違うな。不動の心じゃ。よいかな、魔法は心のイメージが具現化したもの。自己の心の制御が出来なかったら、魔法が身を滅ぼす」
「危ないですね」
「そうだ、魔法は精神的負荷が加わるのだ。馬を乗りこなすように、心の制御が必要なのだ」
「失敗したら、どうなるのです?」
「廃人じゃ」
グレーティアは、息をのみました。
「魔法の要諦は、この精神力だ。何者にも揺り動かさられない心を作ることが大事だ」
「何故、魔法はその様に危険なのでしょうか?」
「魔法の世界は、すなわち心の世界。自然界と違い、この世界は世界の原理に近いため、形が流動的で、心のありようでいかようにも変化する。かつてパテリアに魔法が興ったさい、魔法の術者は身体の変容を来した。それは、魔法の世界の有り様を、そのまま自然界に持ち込んだためだった。現在、二つの世界は分離され、混乱は治まったといえるが、やはり、精神面について、大きな負荷がかかる事態は残ったといえる。本来人間に、石を空中に持ちあげたりする力はない、しかし、そうする事によって、自然世界の限定された枠組のなかで、安全の保護されているのだ。個人の思考と現象が切り離され、人はいかような悪意や、憎悪をもったたとしても、現象として現れることがない。しかし魔法を使う者は、魔法世界と半分つながりを持っているため、思考がそのまま現象として現れてしまうのじゃ」
「魔法世界に通じるのならば、その世界のルールを守るということですか」
「魔法使いは、自然世界にあって、その固定化された現象を破り、魔法世界を呼び起こし、自然界のルールを書き換える。であれば、大きな責任があるというものだ。神々が人間をに魔法世界と分離し、安全な世界の中に住まわせたのも、魔法世界の危険性がら守るためであったのじゃろう」
「人は自分の思い通りになる魔法に憧れを持ちますが」
「自然世界を改変しているからの、しかし、それは自らの土台を揺さぶっているよいうなものじゃ。よいかな、魔法は心の世界。自らの思考が形となって現れる、恐れ、怒り、憎しみ、がそのまま形となるのじゃ。そしてそれは自然世界の何万倍もの力をもったものだ。だから魔法の術者は常に精神を整え、自分の心のを統御しなくてはならない。変化変容する現象に対し、自己を失わず、相対する必要があるのじゃ」
「厳しい世界なのですね」
「昔、偉大なる魔法使いが、冥界よりやって来た者と戦った。彼女の魔法は、誰よりも優れていたが、残念な事に、意志に欠けていた。結果、撃退はしたもにに、討ち取ることは出来なかった。魔法は心の世界、優れた術者であっても、このような結果になるのじゃ。だから、グレーティアよ、君は感情に振り回されず、強い意志をもって事象に相対せねばならぬ」
「先生、魔法の心構えについて、分かりました。自らの技に、驕りを持たず、励みたいと思います」
「それでよい。私は、君に期待しよう」
ビルトス先生は、にこやかにしました。
こうして、グレーティアはビルトス先生より魔法の技を学び、めきめきと、上達していったのでしたが、魔法の技に熟練するに従って、なにか向上を妨げる壁のようなものを感じ始めたのでした。魔法がどこか重く感じられ、拘束されているかのようで、正体不明のなにかに苛立ちました。
しかし、ビルトス先生が、誰にでもある壁と言ったので、彼は安心し、この様な、精神的些細な感情が膨らみ、魔法を侵すのであろうと、グレーティアは思ったのでした。
障害の正体は魔法によるものでしたが、それがなんであるか彼には未だ分かりませんでした。
港町マーレには、海の恵みに感謝する祭りがありました。その日には港に灯りを点した船が沢山浮かび、海を明るく照らすのでした。町にはランプが点され、出店で賑わい、その田舎の祭りを見に、おおくの人がやって来ていました。そして、一人の貴族がこの町を訪れていました。その貴族は大変わがままな婦人で、古都ナティビタスの知府の妹であることを、自慢にしていました。
彼女は、傷心を癒やすために、静かな港町を選んだのでしたが、あまりにも田舎だったので、少々退屈していました。ところが、町がお祭りでしたので、気晴らしにでも、外に出ることにしたのでした。そして、海に浮かぶ船や、仕掛け花火が一番よく見える場所に来ると、無理矢理、祭りに来ている人々を、追い出すと、そこに幕を張り、大きな特等席を作ったのでした。横暴な所業に人々は怒りましたが、権力者であり、町の警察も手だしできないさまに、我慢するしかありませんでした。
彼女は、最初は祭りを楽しんでいましたが、所詮は田舎の祭りで、都会の祭りと比べたら規模も違い、あまりにもみすぼらしい祭りに、直ぐに飽きてしまったのでした。そこで彼女は、海に浮かぶ船を呼び集め、船団を組み、何か演技せよと命じたのでした。伝統の祭りを、邪魔され、町の若い者が、抗議の声をあげると、突如、彼らの回りを炎が取り囲み彼らを震え上がらせました。彼女はお供に、魔法使いを同行させており、邪魔するものは強制的に排除するつもりでした。若者達は魔法の力に、恐怖し、その場を、一目散に逃げたのでした。
彼女は、愚かな平民をあざ笑うと、村の役人に命じ、すぐに、船を動かすように命じたのでした。すると、どうでしょう、突如、港の海がせり上がったかと思うと、大きな水の柱となって彼女達を襲ったのでした。大量の海水が、彼女等を襲い、その場から押し流してしたのでした。町の倉庫まで押し流された彼女は、びしょびしょに濡れ、自慢の髪も崩れていました。あちこちに流れた従者が、彼女の下に集まってくると、なにが起こったのか尋ねたのでした。魔法使いが、「誰かが魔法で攻撃を仕掛けてきた」と伝えると、彼女は怒り、魔法使いを倒すように命じたのでした。魔法使いは周囲に警戒し、くせ者を捕らえようとしましたが、祭り群衆がじゃまで特定できませんでした。
すると今度は、濡れた地面をつたって、弱い雷攻が伝ってきたのでした。怒り狂っていた、婦人は体が痺れ、もうそれどころではありませんでした。部下に命じて、直ぐさま宿に撤退することにしたのでした。
この事件はマーレの住民を喜ばし、何処の誰かは分からないが、町の祭りを邪魔した者を懲らしめてくれたことに喝采をしたのでした。
三日後、グレーティアがビルトス先生を訪ねると、先生は採集した薬草を天日干ししていました。彼は、手伝おうと近づいてみると、先生は語りかけたのでした。
「何日か前の祭りで、貴婦人が災難にあったそうだ。可哀想に、慌ただしく町を去ったそうだ」
「そうですか、町の人と仲良くあれば、歓迎を受けていたでしょうが」
グレーティアが素知らぬ顔をすると、先生は鼻で笑いました。
「悪戯坊主とは思わなかった。だが嘘が下手じゃな。禁止した魔法を何故つかったのかな」
全てを、見透かされているようで、グレーティアは観念しました。
「祭りには来訪者がれば、大歓迎です。しかし、横暴な方は願い下げです。お引き取りを願いたいところです」
先生は大きくため息をつきました。
「若さ故というべきか。魔法使いが、お前を特定してたらどうするのじゃ。父や母に災いが及ぶぞ」
「しかし、わがままが通るのは、納得しません。正義はどこにあるのですか」
「純粋な理念は尊いが、そうも行かぬところが、世の中にはある。今回の事件は、別の災いをもたらしかねないのだ」
「その時は、議論で解決をするつもりです」
「よいかな、それは相手が話し合いに応じなければ、無駄じゃ。君の魔法は下級魔法レベルであり、婦人の魔法使いは、恐らく中級レベルであろう。問答無用に攻撃されてはひとたまりもない。そこは用心しなくてはな」
道理で解決しようとするグレーティアの姿勢に、ビルトスは危うさを感じたが、逆に、立派に成長していることに、頼もしさを覚えていました。
「今日は、剣の修練としよう。魔法が使えない場合も想定して、鍛えておくとしよう」
「はい、先生。その前に、禁断魔法というものを聞いたことがあるのですが、先生はご存じですか」
「古の魔法か。あまりにも攻撃力が高く、高等魔法なので禁じられた魔法だ。遙か昔に途絶えて、使える人物はいない。いや、正確には、一人だけいるな」
「今も伝承されているのですか?」
「伝承ではないがな。私はゼノビオスという人物から、イルマットという技を教わったことがあるが、使いこなせていない」
「先生は禁断魔法を使えるのですか?」
グレーティアは驚き、目を輝かせた。
「今、申言ったように、完全に制御出来ないでる。まあ、見ておきなさい。如何に危険か」
ビルトスが作業の手を休め、少し離れた場所に立つと、禁断の魔法を放ったのでした。
黒い球体が空中に現れたかと思うと、それは風に流されているかのように動き、障害となる物を削り取ってしまったのでした。
「まだ一個しか作り出せて居ないが、これだけでも厄介な存在だ。こちらに流れてくるぞ、よけないと危ない」
その球体は二人の方に漂ってきて、自由きままに動いているようでした。先生が一振りすると、その球体は消え、グレーティアを安堵させました。
「このような技に興味を持つより、基本的な事を確実に習得しなさい。手助けとなるように一冊の本を貸し与えよう」
そういうと先生は書棚から一冊の本を取り出し、彼に渡したのでした。
「この本の著者は、ヘテロの宰相ホスティスだ。彼は天才肌の人物で、魔法の発展を夢み、その研究に打ち込んでいた。不幸な出来事が起こり、その目的は復讐へと変わったが、彼の残した書物は体系だって、魔法学をを学ぶもの助けとなっている」
「ホステスは極悪人として知られていますが」
「彼の実像はそうではない。魔法のさらなる発展を目指したものだった。私が魔法の歴史について知りたがったように、彼も新時代の魔法について夢みていたのじゃ」
「まるで、よくご存じのようですが」
「彼は私の友だった。かつて、私達三人は魔法について語り合ったのだ。私は古の魔法について、ホスティスは新しい魔法、さらに一人は魔法による統治についてだ」
「先生はいったいどの様な方なのです?」
「よいよい。それは過去の話じゃ。この書を読み、体系だった魔法について学ぶが良い」
ビルトス先生は、立てかけてあった木剣を二本取ると、外に出て行きました。グレーティアは、渡された本を、大事に袋にしまうと、慌てて後を追いかけたのでした。
「こいつ何度言ったら分かるんだ!」
色黒の男肩を震わせました。
するとあばた顔の男は鼻で笑うと太々しく
「どうしようが俺の勝手だ」と言い返しました。
二人ににらみ合いが起こりました。
黙って聞いていた男は眉間に深く皺を寄せると瞳に鋭い光を放し
「癖が悪い奴だ」と爆発するように拳を繰り出しました。
骨と骨が当たる鈍い音がしました。
砂が宙に舞い、男は地面に音をたたて倒れました。
「殴りやがったな」
鼻を押さえて男は起きあがると吠えるように言い、色黒の男に渾身の力を込めて打ちかかったのでした。
しかし彼が色黒の男に届く前に別の四角い顔の男が立ちはだかり、お腹に大きな拳を打ち込んだのでした。あばた顔の男はくの字の曲がり口の中から中身が飛び出さんばかりの苦しい表情をいたしました。
かろうじて彼は持ちこたえると砂を踏みしめ二人に襲いかかろました。でもまた別の鬚顔の男が現れると頬に激しい衝撃を受けたのでした。彼の顔は大きく横に振られ頭がくらくらとしました。
打った男はと言うと、痛さに耐えかね自分の手を一生懸命振っていました。
倒れそうな彼を別の猿顔の男が抱きかかえます。
「倒れちゃ困るんだよ」
猿顔の男はそう言うと彼を羽交い締めにして仲間の方へ指しだしました。
四角い顔の男が笑いながら近づくと再びあばた顔の男の腹に、胸に、顔にと拳をお見舞いたしました。男が息が出来ないほど苦しんでいると色黒の男は言いました。
「今日はこの辺で勘弁してやる、いいか二度とするんじゃねえ」
するとあばた顔の男は喘ぎながらも声を捻りだし「やだね」と言いました。
男達の形相が鬼のようになりました。
羽交い締めにしていた男が彼を投げ捨てると力無く男は地面に横たわりました。色黒の男が目を青白く輝かせ男の顔を踏んづけました。するとそれに呼応するように他の男達は倒れた男を足で蹴り始めたのでした。転がった男から鈍い音が響いてまいります。男達は飢えた野犬のように男に襲いかかりました。
グレーティアは荷物を背負って港の道を歩いていました。海風が心地よい昼下がりで気分も上場でした。しかしそれを打ち消すかのような荒々しい声が飛び込んで来たのでした。
声の方向、浜を見れば幾隻かの小舟の横たわる砂浜で男達が争っているのが分かりました。彼はその様子を不安な様子で眺めていたのですが、突然目を見開くと荷物を傍らに置いて駆けだしたのでした。
「まった」
大きな声が辺りに響きました。男達は怒りの形相のまま動きを止め、その方向を見つめました。そこには砂地を蹴って走ってくる若者の姿がありました。男達は怪訝な様子で若者が間近にやってくるまで見届けました。
グレーティアは目鼻立ちが整い知性に満ちた顔立ちの若者でした。息を切らしながらは走って来たのでしょう言葉が直ぐに出ない様子でした。
「なんだお前」
痺れを切らして色黒の男は訊ねました。
「おやめください」
やっと彼は口を開きました。男は不機嫌そうに若者を睨むと確かめるように言いました。
「お前、こいつの仲間か?」
「なじみのお客さんなのです」
若者の返事に色黒の男は見下すような眼差しを向けました。
「ならお前には関係ない。俺達はちょいと話し合いをしていただけだ」
「話し合い? これがですか」
戯けたような仕草で地面に横たわっている男の姿を見ました。
色黒の男は、恐れを知らないグレーティアの様子に、少々戸惑いました。体格もしっかりしたこの若者は、自分たちと全く違う感じで、この町には不釣り合いの雰囲気をもっていました。しかし若者の言葉は自分たちの自尊心を著しく傷つけるものであったので、その躊躇も直ぐに失せて怒りの衝動がすぐわき湧く上ってきたのでした。
「正義漢面するんじゃないぜ。小僧は家へ帰えんな」
「いいえ止めてください。これ以上したらこの人は死んでしまいます」彼は稟として食い下がります。
「邪魔するならこうだ」
男は荒々しく唾を地面に吐き捨てると拳を若者に突き出してみせました。するとどうでしょう、その行為に彼ははたじろぐどころが静かに立っていました。ただ深緑の瞳を愛嬌良く開いていた眼は遠くでも見るかのように半眼になっていました。
「俺達の邪魔をする気だな」
そう叫ぶと色黒の男は力を込めてグレーティアに打ちかかりました。男の拳は若者の顔を捕らえ、打ち砕いたように思えましたがその感覚も直ぐに修正されました。不思議なことに男の拳は空を切り彼には当たらなかったのです。というより拳が巻き込まれるように絡み取られて力を無くしたのでした。男は自分の渾身に力を込めた拳が無力化したことに狼狽致しました。その感覚は力が吸い取られたように思えたのでした。
我が身に起こったことに一瞬驚きましたが男は再び地面を蹴って渾身の拳を何発も打ち出しました。ところがどうでしょう、それらの攻撃はことごとく流されてしまいグレーティアが懐に深く侵入し密着状態のまま捌くので拳を打ち出せなくなってしまったのでした。
拳を出そうとすると動きだしの所で封殺され男は確実に若者の制御下に置かれたことを肌で感じたのでした。
「よしましょう」
グレーティアは静かに言うと男は驚きの様子で動きを止めました。
色黒の男は力無く腕を降ろしましが他の男達の怒りは治まっていませんでした。仲間がねじ伏せられたと分かると一斉に若者めがけて襲いかかってきたのでした。グレーティアは素早く転身すると男達の間を燕が林を飛び去るようにすり抜けました。
目標を一瞬見失った男達。
慌てて背後を見ると若者が静かに立っていました。狐に馬鹿されたような感覚が全員に襲いました。
四角い顔の男が彼めがけて走り寄ってきました。するとどうでしょう、ずいぶん離れた所にいたはずのグレーティアは一瞬にして自分の前に現れたのでした。何故? という問いが脳裏をよぎった瞬間男は地面に倒れていました。鬚面の男は間近に彼がいたので襲いかかりました。一瞬男は若者を確実に捉えたと思い打ちかかろうとしたのですが、グレーティアは影を残して横にいました。彼がくるりと回転するのが見えたかと思うと地面に打ち据えられたのでした。
最後に残った猿顔の男は一瞬にして二人がうち倒されたのを見て立ちすくんでしまいました。そしてグレーティアがこちらを見ているのが分かりました。
「来るな」
男は怯えました。
「おじさんなにもしませんよ」
彼はにっこりしました。
ところが地面が砂地だったためでしょうか倒された二人の男は軽傷で、再び起きあがるとグレーティアに再び挑んでまいりました。
二人の間をなんなくすり抜けて、彼は何かを口ずさみ指を振ると空気を通じて何かが走りました。すると男達の体を何かが突き抜け体にに激痛をもたらしました。体が痺れたまま男達はうずくまり苦しそうです。
「なにが起こった?」
他の男達は突然仲間が苦しみ出したので唖然と立ちつくします。
「少々、動けなくしました」
彼は笑顔で答えると、この若者には到底敵わないと男達は戦意喪失してしまいました。
「あんたが強いてのはよく分かった。若いからと馬鹿にして悪かった」
黒い顔の男は言いました。他の者も反省しているようでした。
「しかし、分かってほしんだよ。悪いのは俺達じゃなくて転がっている奴なんだ」
男は訴えかけます。
「彼は一体何をしたというのです?」
「こいつはなあ。獲っちゃいけない魚に手をだしやがったんだ」
グレーティアには思い当たるものがありました。
「この近海にしかいないという魚」
「そう、そいつだ」
男は弾けるように返しました。
その魚は乱獲で少なくなった魚でした。
「こいつは、儲かるからこっそり漁をしたやがったんだ」
色黒の男は喘いで地面に伏していれるあばた顔の男を指しました。
「頭にくるのは言い分だ。俺は昔ながらの漁をしているだけだ。悪いのは商売根性出して卵巣を金持ち連中あいてに売ったお前達だといいやがる」
「こっちだって我慢しているというのによ」
色黒の男は怒りが治まらないのかまくしたてました。
「事情はわかりました。でもここまで怪我をさせるのはどうでしょう。その主張が正しかったとしてもこの状況は褒められたものではないということです」
「この状況?」
男には彼の言わんとすることが分かりませんでした。
「おじさん達盛んに蹴っていたんだけど、かなり急所に当たっているみたいですよ」
厳しい表情で彼は語りました。
男は指摘され地面に伏している男を思わず見ました。
「殺すつもりだったのですか?」
「いや、それは」
男は声が詰まりました。
「俺達もやりすぎたのかもしれねえ。こいつを懲らしめるだけだったんだ。それに殺人で捕まって家族が路頭に迷うことになったら目も当てられねえ」
「この人にこれ以上の制裁は不要でしょう」
男達は返す言葉もなく項垂れて、バツが悪そうにその場を去って行きました。
暫くすると倒れていたあばたの男も元気を取り戻し起きあがれるようになりました。彼は相変わらず強気の言葉を吐き捨ていましたが、怒りが治まるとグレーティアに礼を言いびっこを引きながら去って行ったのでした。
港の道。道は海沿いにアーチを画いて延びており片側には倉庫や民家などの家々が軒を連ね、もう片側には大小様々の沢山の船が停泊していました。道は広々としており船が繋留されている付近は石畳の道と変化していました。
お昼過ぎです。朝の人やものが慌ただしく往来する喧噪もなく落ち着いた港の様子でした。海鳥の声が良く聞こえ静かです。時折、空から白いものが降ってきて石畳にシミをつくりますがそれも愛嬌というものでした。
船の近くでは漁師が網を一杯道に広げ繕いに余念がありません。船から箱を抱えた男が現れ船と桟橋に掛けた板の上を器用に渡っていました。船では帆を綺麗にたたむ人がおりのんびりとした感じでした。
暫く進むと家々の間を割って岡の上から下ってくる石畳の道が現れました。町の東側の港に通じる道でした。この道は岡を越えよその町へとは通じてはいませんでしたが、町の主要な道でした。
港の道をのんびり歩いていると石畳を叩く足音が聞こえてまいりました。若者が坂の方を見上げると少女等が楽しげにはしゃいでおり、その中の一人がスカートをひらひらさせこちらに駆け下りてくるのが分かりました。幼なじみのプエラでした。
あまりにも元気良く走っているので彼女の栗色の三つ編みにされた長い髪は揺れるように波打ち、花飾りの付いた帽子は飛んで行きそうでした。スカートに足を取られ今にも転びそうで、喜び溢れんばかりに走って来る少女を見て彼は小さな子供のようだなと思いました。
「グレーティア」
少女は青年の名前を叫ぶと息を切らしたまま彼に抱きつきました。彼は思わず荷物を落としそうになりましたがなんとか持ち堪えました。彼女はそのまま一回転すると道に降り何かを言おうとしましたが呼吸も荒く咳き込んでしまいまいました。そして大きく息をすると「確保!」と言いました。きらきら光輝く青い瞳が印象的でした。
「なにそれ?」
「いいの」
彼女は悪戯ぽく微笑んだ後に彼の腕に手をゆっくり通し、一緒に歩き初めました。
「勢いよく来たのでこれ落としそうだったよ」
彼は少しだけ厳しい顔をしました。
「ご免なさい。そんなつもりなかったの。あの坂早歩きしたら止まらなくなったの」
「走ってたよあれ」
「そうかしら」
彼女はとぼけました。
先ほどまで少女たちは誰が彼の恋人になるか競いあっていたのでした。幼なじみの彼女は他のものに今更割り込まれては不愉快だと実力行使にでたのでした。
坂の上から少女達がプエラに盛んに話しかけています。負けたわ。降参降参とも聞こえました。
「あの娘達は君の友達だろう。僕にかまっていいの?」
「いいの丁度さよならしたところだから」
うち消すように彼女は言いました。
「私には幼なじみを守るという大事な勤めがあるのよ」
「僕を守る?」
青年は訳が分からなくなりました。
「そう、守るのよ」
その時坂道いた少女達が彼女に手を振りました。するとすかさず彼女は強く寄り添うと手を振り返しました。これで良しと彼女は思いました。
東の坂道から少し二人は進みました。彼の歩みは少女に会わせたそれになっていました。猫が地面を注意深く嗅ぎながら横切って行きます。その傍らで寝そべっていた男は不機嫌そうに二人を見ていました。
「ところで今日はなんのお使いだったの」
彼女は彼の肩に背負ったものに目をやりました。
「お父さんが忙しいので代わりに靴の材料を受け取りに行ってきたんだよ」
「大変ね」
同情するように彼女は言いました。
「プエラだってパン屋だから店番あって忙しいだろう。同じさ。ところで今日は自由の日なの?」
彼女はちょっと戸惑いました。
「たまには休まないとね。店の中でそのまま干からびてもなんだし」
「それもそうだね」
彼も分かるような気がしました。
「ところで行く方向一緒でいいの?」
「家に帰るところだったの」
彼女は言葉を詰まらせました。
「そうか」
彼は納得した様子でした。
「ところでお兄さんがいなくなってお手伝い増えたんじゃないの」
「そうだね」
彼はぽつりと言いました。
「あたし手伝ってあげようか」
跳ねるように彼女は言いました。
「いいよ君も暇じゃないんだし、それに兄さんが帰って来るまでの二、三年の事だし」
グレーティアは四つ上の兄を思い起こしました。大変弟思いの兄で、幼い時分は兄弟して海やら野山を走り回っていました。その兄は十五歳の時父親の後を継いで靴屋になる決心をし、腕を磨き始めました。瞬く間に兄は父親の技術を習得し、彼はそれに飽きたらずさらなる技術を得たくなったのでした。丁度その頃父親の兄弟弟子がその話を聞き及びフォルムの町で修行しないかとの誘いをかけてきたのでした。兄弟弟子はその町で靴屋を興し革新的デザインで人気を集め繁盛しているのでした。フォルムといえば国一番の港町。いろんな国の船が出入りする交易の拠点です。見知らぬ国の文化に接する機会があるので喜んで兄は修行に出かけることにしたのでした。
「お兄さんが出た行ったのも分かるわ。この町僻地過ぎるしね。こんな田舎町なんかじゃ お洒落な靴なんて望めないし。お兄さん期待の星だわ」
「ありがとう」
彼は少し嬉しそうでした。
「でも一生この町なんでしょうね」
プエラは悲しそうに呟きました。
「町が嫌いなのかい」
「この町てものすごく平和でしょう。毎日が退屈でしょうがないわ。なんかこう瞼がくっつきそうというか、一年中春の陽気の中にあるというか」
「最高じゃないの」
「ううん、駄目なのこのままじゃ。そうよ冒険の嵐がこの町に吹き荒れないといけないんだわ」
彼女は決意したように力強く拳を握りました。
「冒険ねえ」
彼は頭を掻きました。夢見がちな少女にいさかさ付いていけないようすでした。
「平和が一番て思わない?」
「そんなのつまらない」
少女が駄々をこねようように返事すると彼は少し呆れ返りました。
「この町もそんな平和な町なんかじゃないんだよ」
「どういう事?」
彼女は興味深く目を開きました。
「港の向こうで喧嘩騒ぎがあったんだよ」
「え。どこどこ」
彼女は辺りを見渡します。
犬が杭におしっこをかけている姿が目にはいりました。
「とっくに終わっているさ」
息が抜けたように彼女は肩を落としました。
「なんだ見たかったなあ」
「お祭りじゃないんだよ」
「それであなたは見たの?」
突然の振りに彼は狼狽えました。
「見たというか、関係したというか。見てたな」
「なによそれ」
不満そうに彼女はむくれました。
「平和といったって争いはあるってことだよ。双方に言い分があるからね。貴重なものはみんな欲しがるし奪い合いとなるわけさ。仲良く分ければいいのだろうけど独占したくなるらしい」
「その気持ち分かるわ」
慎重に考えたかのように彼女は言いました。
「どういうこと」
彼は思わず彼女を目を向けると、彼女は澄ました顔でなぞるように言いました。
「貴重なものでしょう。だったら誰かのものになる前に自分のものにしなくちゃ」
「そうなの?仲良く分ければいいじゃない」
「分けるんですって。とんでもない。そんなことあり得ないわ」
「どういうこと?」
彼は少女の主張は全く理解できませんでした」
「どーしても分けられないの」
彼はそれ以上は言えませんでした。しかし彼女が大真面目だということはよく分かりました。
暫く行くと港の道に穏やかに下る町の大通りとぶつかりました。坂の上から荷馬車が果実をいっぱい積んで下ってまいりました。蹄の規則的な音が次第に近づいてきて車輪が石畳のでこぼこに弾かれ、ブレーキの軋む音とともに辺りに騒音をまき散らします。鼻息を立てた馬の長い顔が目の前の現れてきたので二人はやり過ごすために少しの間待ちました。赤や緑や黄色の果物を積んだ箱が上下の小さく揺れて通り過ぎて行きました。
この通りの道は北に延びており、長い坂を上り岡を越えさらに森を越えて外界とつうじている道でした。もちろん他に道はないことはないのですがどれも狭い道で物資の輸送が円滑に出来るのはこの道だけでした。それでこの道は結構往来の多いものでした。
坂の家を見上げると大通りを挟むように大きな建物が反り立って見えました。道も建物も先に行くに従って小さくなりその先は空に消えていました。遠くに小さく荷馬車が下ってくるのわかり、手前には人が往来していました。
この通りには立派な建物多く、町の重要な建物がここに集まっていました。若い二人にはご縁がないものでした。
近くの事務所から男が慌てて飛び出してまいりました。港ののんびりした様子と少し違っていました。ここまで来ると心なしか海鳥の鳴き声が遠くなったようでした。
ほどなく町の大広場に出ました。町は狭い土地に押し合いへし合いしながら建っているのに何故か町の真ん中に大きな広場がありました。しかもこの広場は石が敷き詰められ二つの噴水まで備えていたのでした。その整備された広場には薔薇のアーチや草花の花壇もあり田舎町に似つかわしくないようなものでした。伝えられたことによると昔この町に左遷された行政官が都を懐かしみ強引に改造したと言われています。
二人はここで左に逸れ西に向かいました。ベンチでは老人が日向ぼっこをし、噴水では若い二人が愛を語っていました。広場の隅では婦人達が世間話に夢中になっています。
広場を進み外れていくと小さな商店街の通りがありました。左右にいろんな軒を連ね様々な商品が目に飛び込んで参ります。この通りは商店街の一つでここを歩くだけで楽しくなる所でした。2人の目的地はもう目の前でした。商店街の奥に2人の家のパン屋と靴屋はありました。
「いけない。私忘れ物しちゃった」
思い出したかのように彼女は声を上げました。
「何処に?」
彼は疑いの眼差しを向けました。
「友達の家によ。ちょっと引き返してみる」
彼女は作り笑いをしながら口を横に開くと逃げ抱くかのようにその場を離れようとしました。とこがそんな後ろから、辺りに響き渡るような大きな声が飛んで参りました。
「姉ちゃん見っーけ!」
彼女は凍り付いたように動かなくなりました。恐る恐る声の方を振り返ると、そこに立っていたのは泥だらけで鼻を袖で拭いている男の子でした。
「遅かったか」
彼女は舌打ちし頭を抱えるような仕草をしました。しかし意を決したのか胸を張ると両足で地面を踏みしめ来いとばかりに少年に相対したのでした。
「逃亡者を只今から逮捕する」
少年はそう言うと素早く走り寄ってきてきました。そして彼女のスカートを鷲掴みにすると強引に引っ張ったのでした。堂々と少年を撃退するつもりだった彼女はあられもない格好に大慌て。必死で裾を押さえます。
「あんたなにするの!」
彼女が大声を張り上げていると呆気にとられた彼は我に返り急いで止めに入りました。
「駄目だろう。服破けるよ」
諭すように注意された少年は引き寄せた腕を弛めました。
「グレイ兄い。確かに破れる」
その言葉を聞いた二人は胸を撫で下ろし息を付こうとしたところ、少年は飛び寄ると彼女の腰まで伸びた栗色の髪を掴んだのでした。
「これなら大丈夫」
少年は意地悪く言うと、思いっきり彼女の髪を引っ張ったのでした。痛さに耐えかねて彼女は少年に連れて行かれます。彼は少年の行為に意表をつかれ唖然として見送ってしまったのでしたが、慌てて二人の後を追いかけました。
暫く行くとプエラが少年を捕らえ拳骨で殴っている姿に出くわしました。
「痛いな。姉ちゃん」
少年は地べたに尻餅をついて頭を抱えていました。彼女はというと厳しい顔で腰に手をやり睨み付けています。
「だいたい、店サボったぐらいでなんでアンタにこんなことされなきゃならないの」
彼女はもの凄く怒っていました。
「やっぱりそうだったか」
後ろから彼の声がしました。彼女は弾かれたように反応するとバツが悪そうにもじもじしました。
「それじゃ。家に帰ろうか」
優しく彼は言いました。
彼女は深く肩を落としとぼとぼと引きずられるように歩みました。その後ろを男の子はこれから起こることを楽しむかのように鼻歌を歌いスキップしながらついて参りました。
「ただいま」
店の呼び鈴が鳴ってグレーティアが中に入ってまいりました。
店の中は大小様々の靴で一杯でした。靴は壁際と中程の棚に綺麗に整理され並んでいました。男物の靴は丈夫そうで、女性の靴も軽く長持ちしそうなもので実用重視といった品揃えでした。しかし派手さはないものの革に光沢があり縫い目もしっかりして良いものであることは分かりました。
呼び鈴の音に奥から丸顔のエプロンをした婦人が出て参りました。
「お帰り。重かったでしょう」
ニコニコしながらその女性は彼を迎え入れました。
「お母さん、この位平気だよ」
「あらそう」
お母さんは頼もしくなった我が子に嬉しくなりました。彼は肩に担いだ荷物をそっと台の上に置きました。
「お隣の奥さんがプエラちゃんを探していたんだけど、知らない?」
思い出したかのようにお母さんは訊ねました。
「もちろん知っているさ。今まで一緒だったからね」
意味ありげに彼は言いました。
「まさか連れ出したんじゃないだろうね」
「そんなことないよ」戯けるような仕草を彼はしました。
「いつもの脱走だよ。帰り道に港で出逢ってね。一緒に帰ってきたんだ。彼女小母さんにさんざん怒られていたよ」
お母さんはクスクス笑いました。
「隣の奥さんたら怒り出したら止まらないから、さぞかし元気なプエラちゃんも塩かけられた野菜みたいに萎びたことでしょう」
彼も思わず笑ってしまいました。
二人が会話しているとお父さんが現れました。ぼさぼさの髪にエラが張って人でした。
「帰ってきたか」
お父さんはお尻を掻きながらやって来て、運ばれた荷物のところで立ち止まりました。厳しい目が持ち込まれた革に注がれます。
「どうやら注文通りだったようだな。奴のところの品は信用できる。おかげで息子に任せられるというものだ」
お父さんは満足げに白髪の入った鬚を撫でました。
「お父さんお茶にしましょう」
お母さんはそう言うとテーブルにお茶を用意いたしました。みんなが席に着くとカップにお茶が注がれ、芳ばしい香りが辺りに広がりました。
「なかなかいいでしょう。このお茶は香りが素晴らしいの」
自慢げにお母さんは言いました。
「そうだね花の香りかな」
彼は相づちを打ちましたが、お父さんは渋い顔をしていました。
そして「儂は普通のが良い」とぼそりと言いました。
「これはお高いのに飲ませがいがないわねえ」
お母さんはご機嫌を損ねてしまいました。
お父さんはこれはまずいことをしたものだと話を振り替えました。
「西のガッリアとの境界線でなにかあったらしい」
「まさか軍隊がやって来たの」
「そんなことではないが境界線となっているラセオ河のガッリア側の関を破ってこちらに入った者がいるらしい」
「まあ」
「どうも関の役人が金をせしめようと因縁をかけたらしく、男は怒って関の兵士を相手に大立ち回りをし難なく国境を越えたらしい」
「すごい人がいるもんだね。どこかの武芸者に違いないね」
「そうだな、どうやら槍の使い手らしく。しかもだ多人数を相手にし、一人も殺していないときた。半端でないな」
「その武芸者この国に使えてくれたら安心だわ。この町ビタ街道からずいぶん離れているといっても国境の町ベトーに近いでしょう。そんな猛者が守ってくれるといいわね」
「まあ、ガッリアは休戦協定もありここ何年も侵攻していなのでその心配は必要ないな。むしろ東のヘテロの方だろう。国境の町キャンプスではヘテロの南下を警戒してる」
そのあとお母さんが町のうわさ話や育てている野菜の話題になり時間はだいぶ経ちました。最後にフォルムの町で修行中の兄の話になったのですが突然お父さんは言いました。
「お前、魔法が使えるらしいな」
お父さんが話題をそちらに持ってきたので彼はちょっとだけ緊張しました。お父さんの真意が分からないので、ここは面白く自慢してみるのがいいのか控えめに様子を窺ったほうがいいのか悩みました。
「少しだけだよ」
彼は後者を選びました。
「靴屋の息子が魔法か」
お父さんは呟きました。
これは靴屋なのに魔法が出来てすばらしいという意味なのか、それとも靴屋の息子には魔法は必要ないという事なのか彼には判断できませんでした。でも思いこんだような言葉なので非難されているのではと思えました。
「魔法て素晴らしいじゃないですか。魔法の靴でどんなものかしら」
母親はどんな時にも子供の味方です。
でもお母さんの言葉がお父さんには聞こえていないようでした。
「何になりたい?」
お父さんは質問してきました。
魔法使いになりたいのか訊ねているように思えました。彼はお父さんから視線を逸らしました。
「昼間からそんな話はよしましょう」
お母さんは話題を変えたがっていました。
彼はどんな職業に就きたいのか自分でも分かりませんでした。でも十六歳にもなり自分の道も見定めなくては成らない時期でもありました。兄は十五歳のとき靴職人に成ることを決心しました。それより彼は一年遅くなっていました。魔法についても魔法使いになる覚悟があって修得したものではありません。ただ学んで楽しいという漠然としたものがあるだけだったのです。
お父さんはカップの中に起こる小さな波紋を見つめていました。
「靴職人かな」
耐えかねて彼は思ってもいないことを言いました。するとお父さんは目を閉じて思索を巡らしました。
「それは違うな。お前は先生に憧れている」
お父さんは彼の言葉を否定しました。
お父さんの言葉は本当でした。お父さんの先生と言ったのはビルトス先生のことでした。町より離れた森の中で薬草を採取している薬剤師でした。不思議な人でありとあらゆる知識に通じ魔法まで使える人物なのでした。今は薬剤師を生業にしているようですが昔は偉い学者だったのではと思える人でした。それで彼のことを先生と呼んでいるのでした。
靴屋の夫婦とこの先生は親しくしていて彼が小さい頃から度々店に訪れては楽しい話を聞かせてくれたので夢中になってしまったのでした。先生のお話は宝箱のようで煌めく宝石が飛び出して来るように心ときめかせるのでした。大きくなった今では自分の方から先生のご自宅を訊ね教えを請うという状態になっていたのでした。
先生から教わったのは国語、数学、歴史、地理、文学、天文、動植物、医学、治政、軍事、魔法さらには武術などと広範囲に及んでいました。普通この様な田舎の子供はわずかばかりの読み書きに簡単な計算が精一杯のところなのですが、彼はそれを遙かに越えて知り得ることも出来ない知識を得ているのです。
この知識が逆に彼を混乱させているのでした。もし先生にように薬剤師を目指すにであれば植物学に薬学を学べば済むことであり他は余分でした。いったいこれらの知識の交わる先はなんなのか彼にはよく分かりませんでした。
またお父さんお母さんについても不思議でした。この様な職業に単純に結びつかないものに夢中になっている子供を止めようとしなかったのか。普通そんな学問より働くことを推奨するのではないのか。それは跡継ぎの兄がいることで自由にさせてもらえたのであるとも思えました。こういう理由で彼は進路について迷っていました。
「学士ということになるのかな」
お父さんは知恵を絞り出しました。
学士それは貴族や裕福な家の子息が志す道。国を治める行政に携わる職業に就くことが出来るのでした。しかし平民がこの道を志すのは難しく並はずれた能力を持たなくてはなりませんでした。事実このマーレの町から出た学士というものは一人も存在しないのでした。
「無理だよそれは」
彼は力無く否定しました。
「ビルトス先生がなんとかするさ」
お父さんは安易なことを言いました。田舎の薬剤師になにが出来るというのだろうと彼は思いました。
ビルトス先生は確かに博学でした。この様な人が何故こんな田舎町にいるのか全く不明でした。都会の人と繋がりがある様子もなく、それらしい便りも訪問客を見たことはありませんでした。それに先生自身が人と交わることを避けていらっしゃるようでした。
「相談してみるんだな」
お父さんはそう言うとカップを置いて部屋に戻って行きました。お父さんは分かっていました彼が靴職人の道を歩んでいないことを。優柔不断で先に進まない自分にお父さんは後押ししたのだと彼は理解しました。
「急がなくてもいいのよ。ゆっくり決めればいいの」
お母さんは優しく慰めました。
知識とは学べば見識も広くなり様々な問題も解決でき苦悩と無縁に世界をもたらすはずでした。しかし学んだ結果が道を失わせ迷わすものとなったのです。こんなことなら何も知らずに直に職人になってしまうのが良かったのかもしれません。それにしても先生は何故田舎の靴屋の息子に熱心に学問を教授されたのだろうかと彼は自問自答を繰り返しました。
ビルトス先生について思いを巡らしていたところお借りしていた本について思い出しました。そろそろ返却する時期でした。お父さんの箴言に従って先生にご相談しようと彼は思いました。
「母さん。先生のところに行ってきます」
彼は立ち上がると引き出しから本を取りだし大切に袋に入れると店から出ていきました。するとお母さんは何か不安な気持ちになって店の入り口からその後ろ姿を追いかけたのでした。彼の姿はもう遠くにありました。
自分の漫画がギャグタッチで、劇画調の絵が描けないので漫画ネタを小説にしてみました。絵とは違い文字なので気楽に書けるものと思ったら大間違いでした。
かなり苦戦しました。小説世界に降り立った漫画界の住人てかんじ。
ファンタジーの世界なのであえてですます調にしてみました。アクションが緩慢になってしまいましたが、これの方は童話ぼいです。
最終話までいくつもりですので宜しくお願いいたします。
追伸
2017年7月にて加筆しました。