【掻きむしる女】絶え間なき蟻走感
定時を1時間ばかりすぎたオフィス。天井のエアコンの稼働音がやけに大きく響きわたっている。
さっきからそれを上回るほどの勢いで、ボリボリやる音。
フロアは乾燥しすぎなのだろうか? 昼間よりもさらに激しくなった気がする。それとも社員がいた手前、我慢し続け、オフィスに津田 要人と二人きりになったのをいいことに、遠慮なく掻いているのか――。
津田はパソコンのモニターとキャビネットの隙間から、斜め向かいのデスクに眼をやった。
今月、彼の所属する営業事務課に中途で配属されてきた女性――苧坂 莢花である。
32歳。独身。本来なら目鼻立ちは悪くなく、しっかりメイクすれば映える顔立ちなのだ。
今はいささかげっそりとやつれ、眼の下にクマを作っている。俯きがちの表情はいかにも神経質そうだ。胃腸が弱いらしく、昼休みは小鳥みたいに小さなパンを齧るだけで、どこか元気がない。
――やれやれ、またやってるよ。
津田は眉をひそめた。
莢花は、会社から支給された半袖ブラウスから細い腕をのぞかせている。
左の二の腕を爪で掻きむしっている。
カリカリカリカリカリカリカリカリカリ……。
静かなオフィスに、皮膚を擦る音がひそやかに響く。
重度のアトピー性皮膚炎なのか? むき出しの肌には、ミミズ腫れのような赤い爪痕が交差し、ところどころ血が滲んでいた。瘡蓋まで剥いでしまったらしく、痛々しい傷跡も眼についた。
津田と莢花は、同じ教育担当という間柄もあって、自然としゃべる機会が多い。あまり器用な方ではないが、与えられた仕事はそつなく几帳面にこなす彼女に対し、津田はそれなりに親身に接していた。
「苧坂さん、皮膚科で診てもらった方がいいんじゃない? かなり痛そうなんだけど」
明るい声をかけると、莢花は弾かれたように肩を震わせ、慌てて半袖の袖口を引っ張った。
痛々しい素肌を隠しきれるものでもない。
「すみません、お見苦しい姿を」と、莢花は小声で謝った。「アトピーとかじゃないんです。最近やたらと痒くて、つい」
「乾燥してるせいかな。エアコンの風量、マックスで効かせてるみたいだから。ちょっと調整してくるよ」
と言って立ち上がり、壁の操作パネルのところへ行き触った。
「ありがとうございます。……津田さんは、本当に優しい方ですね」
「よく言われるよ。ウソウソ」
「フットワークの軽さといい、ユーモアのセンスに、私、毎日救われています」
「あそう。社交辞令でも嬉しいな」
「そんなんじゃありませんったら」
席から立ち上がり、ペコリ。
俯いた莢花の首筋。――そこにも赤い引っ掻き傷がついているではないか。
津田は莢花に対し、悪い気は抱いていなかった。はじめは掻きむしった肌ばかり眼につき、ちがう意味で放っておけなかったと言うべきか。
「ところで津田さん。蟻走感って言葉、ご存じですか?」
「ぎそうかん」
「蟻が走る感覚と書いて蟻走感。ときどき、肌の表面を、蟻が歩いてるんじゃないかと思うほど、ムズムズすることがあるんです。原因は生活習慣やストレス、他にもホルモンバランスの変化によって、自律神経や皮膚感覚が敏感になるためとも言われているそうですけど」
「あるある……。たまにそんな気、することあるね。思わず本当に虫が這っていないか、確認しちゃう。けど、大抵気のせいでしょ」
「だといいんですが」
そのやりとりを境に、二人は残業を切り上げることにした。
いっしょに駅まで歩いて帰り、笑顔で別れた。
――いっそ、食事でも誘えばよかったかな?
しかし津田は、どうせ2日後の金曜の夜には宴会が開かれるし、と思い直した。
二人の仲が決定的になったのは、まさに週末の夜だった。
◆◆◆◆◆
その金曜日。
定時で仕事を終えると、夕方19時に莢花の歓迎会が開かれた。
繁華街の居酒屋チェーン店に営業事務課の社員全員が集まり、大いに親睦を深めた。
とはいえ、莢花は乱痴気騒ぎは苦手のようだ。宴会前のあいさつが済んだあとはテーブルの角を陣取ったまま、肩をすぼめてやりすごしていた。
むしろ隣についた津田とグラスを重ねるうちに、いつしか二人はいい雰囲気になっていった。もっとも莢花は、グラス一杯で顔が火照るほどの下戸のようだった。
居酒屋での一次会のあと、みんなはカラオケに行こうと意見が一致した。
女性社員は他に6人ばかりいたが、あえて津田との仲を裂こうとしなかったのも幸いした。津田は3年ばかり、恋人が不在だったのをみんなは知っていたのだ。
徒歩での移動途中でも、津田と莢花は話に夢中になった。
一行の行列は、酔っていたのもあって、しだいにバラバラにはぐれはじめた。
それで津田たちはカラオケには行かず、こっそりバックレようということになった。
肝心の莢花の歓迎会なのに、主賓がいなくなるのもどうかと思ったが、どうせみんなはたっぷり酒が入っている。しょせん歓迎会は名目にすぎず、社員は日ごろの憂さを晴らしに集まったようなものなのだ。
月曜、出社して他の社員に問い詰められたら、二人はこう口裏を合わせることにした。
――津田はたまたま大学時代の友人とバッタリ出くわし、そのままキャバクラへ連れていかれた。
莢花の場合、大名行列からはぐれてしまい、迷子になったのでタクシーで帰宅した、ということにした。
二人はワインバーへなだれ込み、さらに杯を傾けた。
結果、お互い前後不覚になり、店を出たことさえ憶えていない。
一瞬、正気に戻ったとき、津田はどことも知れぬ雑居ビルに囲まれた狭い路地にいた。
莢花の細い肩を抱いて、壁にもたれていた。
どちらかがということなく、二人は唇を重ねた。
じきに啄むような濃厚なフレンチキスに。
土曜の朝を迎えたとき、津田は見知らぬマンションの部屋のベッドでうつ伏せになっていた。
ベッドシーツは乱れ、生々しく汗で滲んでいる。
床には二人分の制服が脱ぎ捨てられていた。自身のトランクスがしおれた形で莢花のスカートの上に重なっている。
彼女の姿が見当たらない。
シャワーを浴びているらしく、どこかで水の跳ねる飛沫が聞こえた。ハミングの声までする。
津田は二日酔いでズキズキする頭を抱え、思わず天井を見上げた。
――恋は出会い頭の事故のようなものって誰が言ったんだっけ?
◆◆◆◆◆
はじめこそ津田は、莢花との交際をまんざらでもないと思っていた。
しかしながら一番気になっていた彼女の肌のトラブルは改善されるどころか、日を追うごとに悪化していったので心中穏やかではない。
会議中だろうが接客の最中だろうが、痒いと思ったら誰憚ることなく掻きむしる。
ご飯を食べていても二の腕と言わず、首筋、はてはタイトスカートから露出した脛から足先に至るまでガリガリやるようになった。
しまいには服を脱ぎ払い、やり出すのではないかと津田は冷や冷やせずにはいられない。
傍目に見て、いい気はしない。
物理的にはありえないものの、皮膚の細片がエアロゾルになってエアコンの風に乗って飛び散っているのではないかと、誰もが顔をしかめている。中には露骨にハンカチで口と鼻を覆う者までいた。
見かねて女性社員たちが医務室へ連れていったりしていた。
「津田君。あんたたち付き合ってるんでしょ?」休憩時間、古株のメガネの女性社員が声をかけてきた。給湯室で他の女性たちが集まり、このやりとりを見守っている。もはや二人の関係は営業事務課にとっては公認の仲になっていた。「別に会社って社内恋愛は禁止じゃないから、構わないんだけどさ。彼女、どう見たってふつうじゃないよ。あなたが病院に連れていってあげなさいよ。私たちじゃ角が立つから……」
恋人らしい甘い期間はあまりにも短すぎた。
夜、莢花のマンションで二人きりですごしていても、発作が襲ってくる。
発作が来たら、掻かずにはいられないという。
ボリボリボリボリボリボリボリボリ…………。
何度か皮膚科に診せにいったが、アレルギー性の皮膚炎でもなかった。皮脂欠乏性皮膚炎ともちがうという。医師は首をひねるばかりだった。
結局、原因はわからず。せいぜい数種類の内服薬と塗り薬を処方されただけだった。セカンドオピニオンも視野に入れるべきだ……。
じきに薬すら効かなくなる。
爪を立て、ガリガリガリと掻きむしるものだから、たちまち柔肌は血に染まり、無惨な傷だらけになった。
「どうしたんだよ、莢花」
「痒い。猛烈に痒いのっ!」と、彼女は白眼を剥き、歯を食いしばり訴えた。シャツをまくり、津田に背中を丸めて見せる。掻きむしった傷痕が格子状についていた。「要人君! 見てないで助けて! 掻いて、思いっきり!」
尋常じゃない身悶え方だ。それこそ床でのたうち回る。
津田は見るに耐えず、しゃがみ込んだ。
「こんなの異常だろ……」
津田の心に邪な考えがよぎる。
もし、なんらかの感染症にかかっていて、素肌に触れたら伝染るのではないか。
とはいえ、すでに二人は肉体関係になり、ちょうどひと月になる。
感染るならとっくに――。
「背中っ! 痒ぃ――のっ! 早く!」
顔を歪ませ、莢花は叫ぶ。
狂気すら孕む眼つきに圧倒され、彼女の裸の背中に手を伸ばすしかなかった。
背中に触れた瞬間、津田は息を飲んだ。
爪痕でズタズタになった肌は熱を帯び、汗と血とで脂っぽく、ネッチョリ濡れている。汗ではあるまい。指で触れると、半透明の糸を引いた。
これはいったい……?
さらに津田を戦慄せしめたのは、掻いたときの感触だった。
小さな無数の塊が、内側から皮膚を持ち上げながら這い回っている。異様な斑模様になっていた。
寄生虫か、それとも文字通り蟻か?
波状に移動する突起は、津田の手のすぐ下で、まるで掻くことによって押し潰されるのを防ぐかのように逃げ惑っていた。五指を置くと、そこを中心に放射状に散っていく。
あきらかに意思をそなえたなにかが皮膚の下にいた。
「い……」
津田はあわてて手を引っ込めた。
「どうしたの? もっと強く! 爪でガリガリやってったら!」
莢花は恋人の動揺に気付いた様子もなく、自ら肘を折り曲げ爪を立てた。その爪の内側には赤い皮膚の繊維が詰まっていた。
バリッバリッバリッという痛々しい音が室内に響き、新たな赤黒い筋が走る。
掻いた拍子に、皮膚の下を泳いでいる何匹かを潰した。
――これは皮膚病なんかじゃない。
医師が首をひねるわけだ。
抗ヒスタミン薬もステロイドも効くはずがない。
彼女が訴えていた蟻走感は、ストレスや自律神経の乱れによる錯覚などではなかったのだ。
「莢花、今すぐ病院へ行って、摘出してもらおう。身体の中にいるんだ……」
「なにそれ」と、莢花は半ベソをかきながら言った。亀みたいに四肢を縮こめ、うずくまったまま津田をふり返った。「まるで身体の中から食べられてるみたいだと思ってたの。なんなのいったい? ……ウソ、耳鳴りまでしてきた!」
「おれが知るわけないだろ。虫だよ、それも大量の!」
「あ゛――――っ! がゆいっ!」と、莢花はまたしても白眼をむき、猫が伸びでもするかのように弓なりに撓らせた。恥もかなぐり捨て、尻を突き出す。下着も汗でぐっしょりだった。「痒ぃ――――――のぉおおおっ!」
津田は見かねて莢花を抱きしめた。
なかば柔道技で身体を押さえ込むような形になった。そうでもしないと尋常じゃない力で抵抗されるので、津田は力づくでねじ伏せるしかなかったのだ。
相手の首を腕で挟み込むようにしていると、そのうち気を失ってしまった。まさか結果的に締め落としてしまったとは――。
◆◆◆◆◆
彼女が気絶したので、これ幸いにベッドに横にさせた。
発作はおさまったらしく、しばらくして莢花が眼を醒ました。穏やかな表情だった。
津田は水を飲ませたあと、莢花に説明を求めた。
きっとなんらかの寄生虫を身体に入れてしまった原因が、どこかにあるはずだ。
「あるとすれば――」
莢花に思い当たる節があった。
じつは彼女は、津田が勤める会社に就職する3カ月前まで、南米で生活していたという。
父親が動植物検疫官だった。輸入農産物・植物に付着する『特定外来病害虫』の発生状況調査を調べる仕事をしていたという。農林水産省に所属するれっきとした国家公務員である。
たまたまコロンビアの現地農園の検疫指導のため、家族を帯同して長期出張に出かけていたのだ。半年にわたる滞在だった。
ある日の朝。莢花はベッドから起きると耳に違和感を憶えた。
耳の奥になにかが詰まった感じがする。そのせいか、はっきり音も聞こえない。
耳かきを探した。今すぐ異物を掻き出すべきだ。
ところが耳かきが見つからずグズグズしているうちに、異物感は消えてしまったのだという。
「しばらくなんともなかった。でも帰国してから、ずっと体調がすぐれなかったの。就職してから、蟻走感がひどくなって。病院へ行っても、メンタル的なものにすぎないだろうとあしらわれて……」
「ひょっとして、虫が入った?」
「そうかも……。あのとき」と、莢花は津田にしがみついた。「南米のジャングルにはヒトクイバエがいるのよ。生き物の肉に卵を産み付ける、獰猛なハエが! 耳かきを探しているうちに、ハエが奥まで入り込んでしまったとしたら……」
津田の顔面から、音を立てて血の気が引くようだった。
「そんなの、映画だけの話だろ?」
「夢なら醒めて……。きっと卵が孵って、ウジになり……私の肉を食べながら大きくなっているのよ!」
またしても莢花の狂乱がはじまった。
着ていたシャツをまくり、胸元を掻きむしる。
たちまち皮膚が抉れた。
津田は、その傷口から眼を引き剝がせない。
熟れた果実のように裂けている。その薄皮一枚下で、モコモコと蠢いていた。
波打つ傷だらけの柔肌。無数に泳いでいる。
肉の裂け目から、ニキビの芯のようなものが突き出た。
ぬめりを帯びた細長いものが、ニュッと顔をのぞかせる。
ウジムシだった。
ぽってりと丸々肥ったウジが、ポロリとベッドに落ちた。
次々と一匹、また一匹と現れ、外に出てくる。
「わ……」
津田は思わずうめいた。
「いやっ……、なに? み、み、み、み、見えない……。眼が!」
莢花の眼の焦点が合っていない。ベッドから半身を起こし、両手でシーツをまさぐる。サラサラとシルク素材の布がひそやかな音を立てた。
「どした、莢花」
「要人君……、どこ? 見えない!」
莢花が顔を上げ、恋人の気配を捜そうとキョロキョロした。
津田は言葉を失った。
彼女の眼球がおかしい。
透明な角膜の裏側――濁った虹彩の前を、やけに大きなウジが身をくねらせながら泳いでいた。眼球を内側から穿孔しているのだ。
「来るな!」
「要人君、私を見捨てないで!」
津田はしがみついてきた莢花を払いのけた。
尻もちをついた莢花のシャツの裾から、ポロポロと大量の虫が零れ落ちる。
矢継ぎ早、ウジを排出するスロットマシーンと化していた。
「莢花……、ごめん。やっぱ、おれには無理」
「そんな!」
津田はさっと身を翻すと、靴を突っかけ、部屋を飛び出した。
エレベーターで降りようとボタンを連打したが、なかなかボックスはやってこない。
待っているうちに、手探りで莢花が追ってきた。
半狂乱のまま、裸足でやってくる。救急車のサイレンみたいに泣き声を放っていた。
「来ないでくれ、莢花。……赦してくれ!」
「置いてかないで!」
「すまない、力になれなくて!」
津田は待ちきれず、横の階段を駆け下りた。
莢花は片眼は失明したものの、もう片方はなんとか見えるのか、手探りで壁伝いに走ってくる。その執念に津田は総毛立つ思いにかられた。
手すりにつかまりながら、なかば階段を転がるようにして下り、1階のエントランスについた津田。
追ってくる莢花との距離を計りながら玄関の自動ドアをくぐった。
夜の路上へと躍り出た。
道路は車が行き交っている。
左の方が明るい。
歩道を走った。
「助けてくれ! 誰か!」
津田はクロールするかのように腕をふり回しながら走る。
背後からペタペタペタ、と裸足でレンガ舗装を走る音が追ってくる。
「要人君! 愛してるって言ったじゃない! 一人にしないでえっ!」
「ごめん、撤回する!」
「ウソっ? 耳鳴りがひどくなった……。私、どうなっちゃうの?」
「赦せ、莢花!」
「置いてかないで――――!」
男としてどう思われようが知ったことではない。
なりふりかまわず全力で走った。
大通りへと曲がる。
もっとネオンがある場所へ行くべきだ。ここはあまりにも暗すぎる。
――人が大勢いる方がいい。きっと誰かが助けてくれる。おれも、もしかしたら莢花さえも。
夜の21時をすぎているとはいえ、幹線道路は交通量が多い。三車線をさまざまな車種の車が行き交う。
こんな狂ったメロドラマが歩道でくり広げられているとは露知らず、ドライバーは素知らぬ顔で津田の傍らをすぎていく。
逃げているうちに、前方に大きな交差点が見えてきた。繁華街の色とりどりの光があふれていた。
歩行者用信号機は青。会社帰りのスーツ姿やカジュアルな恰好のカップルが行き来している。
渡るなら今だ。
モタモタしていたら莢花に捕まる。
――おれにどうしろってんだ! 医者でも匙を投げたのに、どうすることもできないだろ!
津田はあえぎながら横断歩道を渡った。
夏の土曜の夜は、みんな浮かれ気味だ。必死の形相で、汗水垂らしながら走る者は津田だけだろう。
行き交う人たちは、そんな彼に怪訝な眼をよこした。
「要人っ! 止まれ! なんで逃げんのよ!」
ずっと背後から、声を嗄らした莢花の怒声。
ふり向いた。
信号機はすでに赤に切り替わったところだった。
莢花は脇目もふらず、これから横断歩道を突っ切ろうとしていた。
まだ車道までは5メートルは離れている。いくらなんでも今から渡るのは無謀すぎる。
事情も知らぬ車がいっせいに動き出す。三車線の幹線道路。
津田から見て、交差点の左の直線道路から、長距離トラックが一気に加速して迫った。
どうすることもできなかった。
甲高い急ブレーキが夜の空にこだました。
トラックがつんのめったが停まりきれるはずもない。
バン、という衝撃音。
莢花の細い身体が撥ね飛ばされた。
莢花は宙を飛び、8メートルほど離れた路上に叩きつけられた。
水切りの石みたいにバウンドしたあと、歩道沿いに建った街灯の柱に後頭部を打ち付けた。
激突すると、パック入りの卵を叩きつけたのとそっくりの破砕音がした。
一瞬にして場は騒然となった。
歩道を行き来していた通行人たちから、悲鳴とどよめきが上がる。
車もいっせいにブレーキをかけたので、車道の流れが堰き止められた。
莢花が倒れた現場に注目が集まる。
車から外へ飛び出し、かけつける者もいた。
津田は茫然自失で、その場に立ち尽くすしかない。
やがて罪の意識からか、勝手に脚がそちらへ向けて歩き出した。
行きたくないのに、行かずにはいられない。ちょうど莢花が蟻走感から掻かずにはいられなかったように。
周囲の店舗やらビルから出てきた客たちも、街灯の元に集まる。
莢花は即死だろう。ピクリともしない。
肘や膝の関節が不自然な方向に曲がっており、あたかもゴミ箱に打ち捨てられたマリオネットを思わせた。
頭はスイカ割りしたみたいにパックリ割れ、あたり一面には、ピンク色の陶器の欠片のような尖ったものが散乱していた。
欠片には毛髪がついていた。頭骨の破片だろう。
津田はよろけながら近づいた。
街灯とネオンに照らされ、真鱈の白子そっくりの脳髄が見える。眠ったような死に顔だけは、せめてもの慰めだった。
たちまち人垣ができた。魅入られてしまったのか誰もが眼を剝がせないようだ。
ところが莢花の無惨な遺体をつぶさに凝視するなり、遅れてさらなる悲鳴と絶叫が上がった。
「なにあれ! ウソでしょ?」
「なんじゃこりゃ……」
「うげえええええええええええっ!」
津田は見物人たちをかき分け、莢花の元にしゃがみ込んだ。
莢花の頭からむき出しになった脳みそ。そこにあったのはありふれた脂肪組織ではなかった。
ヌラヌラした消化液にまみれ、わんさかとウジムシの群れが脳髄の表面を泳ぎ、内側にまで潜り込んでいた。
ぽってりと膨らみ、ふくふくとしたクリーム色のウジたちが街灯の光を受けて蠢いていた。
津田は言葉を失い、魅入られたように見つめていた。
すると、新たな異変を眼にした。
ブブブブブブブブブブブブブブ――――ン。
脳と頭蓋骨のわずかな隙間から羽音が聞こえたと思ったら、黒々とした成虫が舞い出したではないか。
ひそかにヒトクイバエどもが羽化していたらしい。
ハエは煙のようにひと塊になって、宙にとどまっていたが、やがて空高く飛び去って行った……。
◆◆◆◆◆
莢花の葬儀が済み、あの恐ろしい事故から、3週間がすぎた。
警察の取調べも一応、落ち着いていた。『狂乱した女による飛び出し事故』として片付けられた。いくつもの目撃証言もあり、津田は救われる思いだった。
すでに会社には退職届を提出していた。本来なら後任の補充、および業務の引き継ぎをすべきだったが、精神的にまいっていたのを会社側も察してくれ有給消化させてもらっていた。
いっさいの連絡を絶ち、アパートに引きこもる日々を送っていた。
時間が解決するだろうと、誰からも慰められた。
そうは言っても、あの夜のトラウマはおいそれと忘れられるものではない。
眠れない夜は、ストレートのウィスキーを流し込んで横になった。
――なにもかも終わったんだ。莢花、赦してくれ。
そう自分に言い聞かせながら、枕を涙で濡らした。
だが、悪夢は去っていなかった。
さらに1週間が経とうとしていたある夜。
朝起きて、洗面台の鏡の前に立った津田は、ふと首筋の傷を見つけた。
「オイ、なんだよ、これ」
見れば、赤いミミズ腫れのようないくつもの引っ掻き傷がついている。
寝ている間に、無意識に掻いたらしい。
そういえば異様に痒い。皮下の奥底を這いずり回る蟻走感。
チリチリとした肌のざわめき。
爪を立てて、掻かずにはいられない。
ガリガリガリガリガリガリガリガリガリ。
どこかで聞き慣れた、乾いた音が、狭い洗面所に響く。
「あ」
痒みではない。
身体の奥の粘膜の襞のすぐ裏側で、なにかが蠢いているのだ。ヌメリを帯びた微細な生物が、蠕動しながら肉を食んでいる感覚。ドリルで地面を掘削するかのように、奴らが穿孔しているにちがいない。
嫌でも莢花と身体を重ねた夜を思い出す。
彼女の粘膜から、知らないうちに微細な卵――あるいは虫そのものが、津田の粘膜や尿道を通じ、彼の体内へと侵入していたのだ。
「うがああああああああっ!」
発作が起きた。
全身がむしょうに痒い。あらゆる部位がブルブル細かく震えている。身体ごとバイブレーターになったみたいだ。
とりわけ下腹部には無数の凹凸が生じ、波打っている。
津田は狂気に捉われ、引き出しからハサミを取り出す。
下腹部に切り込みを入れた。
たちまち肉が裂け、血があふれ出る。
傷口から血に混じり、ポロポロと、クリーム色のウジムシまでがこぼれ落ち、洗面台のボウルで跳ねた。
「いいいいっ……。やっぱ、伝染ってたんだ!」
鏡を見ていたはずの視界が、急に曇った。
右眼の角膜の裏側だった。濁った水晶体の中を、ウジムシが身をくねらせている。片眼の視力が瞬く間に奪われていく。
耳の近くで、例の異音が聞こえはじめた。
ブブブブブブブブブブブブブブ…………。
体内で羽化したのであろう、何千という羽の振動音か。
津田は両耳を塞ぎ、床に転がって身悶えた。
すでに莢花の遺体から外来種であるハエが飛び去った。津田の中で羽化した成虫を国内に放ってしまっても、今さら大差あるまいと思った……。
部屋を出て、どうにか外階段の踊り場まで歩いた。
気力をふりしぼって身体を押し上げる。
ためらいもなく真下の駐輪場に頭からダイブした。
4階建てだ。死に損なうことはあるまい。
鈍い衝撃。そして破壊。
だが、それは完全な終わりではなかった。
叩きつけられた衝撃で砕けた津田の肉体から、血飛沫とともに弾け飛んだのは解き放たれた無数の羽音だった。
ブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブ――――ン。
それはおぞましき産声か。
津田の身体から、黒煙のようなハエの大群がいっせいに舞い上がり、ネオン揺らめく街の空へと拡散していく。
街灯の下を歩いていた若いカップルたちの、鼻や耳に潜り込み、瞬時になにかを産み付けられた。
了
★★★おまけ★★★
実話――かれこれ四半世紀昔の話です。
親戚のおばさんがハワイ旅行へ行ったらしく、お土産を持参して実家を訪ねてきました。
お土産は定番のマカダミアナッツ。パッケージはかなりの大きさを誇りました。
ひとしきり世間話をしたあと、おばさんが帰られたので、さっそくパッケージを開けてみることに。
ところが開封する前から、手に伝わるわずかな振動。
ザワザワザワ……と、カイジなみに、なにやら不穏な『気配』がするのです。
勇気を出して封を切り、フタを開けますと、中はエライことに……。
なんと、大量のウジムシ。恐るべき数のウジムシが、マカダミアナッツの原型がなくなるほどに食い荒らしていたのです。
チョコレートはまだしも、内側の硬いナッツの中にまで虫は潜り込み、見るもおぞましいことになっておりました。
中にはサナギ化したものや、すでに羽化した小さな蛾もいました。ハエではなく蛾の幼虫だったのです。
これを見た僕の母は、開口一番、「……おばさんはけっして悪気があって、これをくれたわけじゃないはず。ハワイの土産店かメーカーに問題があったんだろう。これは見なかったことにしましょう。だから、今度おばさんに会ったときは、お土産は美味しかったと言いなさい。あんたは、ただちにコレを焼却してきて」と、言いました。
当時、実家には屋外に焼却炉がありました(今でこそ、外付けの焼却炉で可燃物を焼いたり、野焼きするのは消防法やらなんやらで困難になりましたが)。
僕はすぐにマカダミアナッツのパッケージを火にくべ、燃やし尽くしました。
万が一、ハワイ産の虫を拡散してしまえば、日本の生態系を狂わせる寸前でした。
あのときの元気モリモリのウジムシは忘れられない(*^-^*)




