芽生え始めた新たな気持ち
最後の一口を飲み込んだとき、ミカエルは小さく息を吐いた。
器の底には、もう何も残っていない。
温かなスープは、冷え切っていた身体だけでなく、心の奥にまで染み込んでいた。
「……ごちそうさまでした」
自然と、そう口をついて出た。
イルフェルミナは、空になった器を見て満足そうに頷く。
「はい、どういたしまして」
どこか子どもを褒めるような口調だった。
ミカエルは、少し照れたように視線を落とす。
そして、しばらく沈黙が落ちた。
窓から差し込む朝の光が、床に細い線を描いている。遠くで、孤児たちの笑い声がかすかに聞こえた。
穏やかな時間だった。
あまりにも、穏やかすぎるほどに。
だからこそ、ミカエルは思った。
(……おかしい)
こんなにも良くしてもらっているのに。
自分が何者かも。
なぜ倒れていたのかも。
彼女は、一切聞いてこない。
意を決して、口を開いた。
「……ひとつ、聞いてもいいだろうか」
「なに?」
「……私が誰なのか。なぜ、あそこで倒れていたのか……尋ねないのですか?」
イルフェルミナは、一瞬きょとんとした。
それから、少しだけ視線を上に向けて考えるような仕草をする。
「……そうね」
しばらく間を置いてから、静かに言った。
「あなたが話したいなら、話していいわ」
ミカエルは、息を呑んだ。
「でも」
彼女は、はっきりと言い切る。
「話したくないなら、私は無理に聞かない」
きっぱりとした声音だった。
「誰にだって、触れられたくないことはあるもの」
それは、とても正しい言葉だった。
――そして同時に。
(できるだけ面倒事に関わりたくない……って気持ちもあるけど)
という本音は、彼女の胸の奥にそっとしまわれている。
ミカエルは、その言葉を聞いて、しばらく呆然としていた。
こんな得体の知れない男を拾い。
傷を癒し。
食事を与え。
世話をして。
それでいて、理由すら求めない。
(……この人は……)
彼の脳内で、結論が導き出される。
(地上に、間違って降ろされてしまった女神なのでは……?)
大真面目に。
極めて真剣に。
そう考えてしまうあたりが、ミカエルである。
そのときだった。
扉の向こうから、微かな音が聞こえた。
「……ひそ……」
「……こそこそ……」
何かが、動いている。
イルフェルミナが眉をひそめる。
「……?」
そっと扉に近づき、勢いよく開いた。
「こらっ!」
「わっ!」
そこには、数人の孤児たちが、ぎゅうぎゅうに固まっていた。
扉の隙間から、中を覗いていたのだ。
「お客様に失礼でしょ!」
「えー……」
「だって気になるじゃん……」
口々に言い訳する子どもたち。
その中の一人が言った。
「おきゃくさま……?」
「イル姉ちゃんが、そこらへんから拾ってきた旦那さんじゃねーの?」
「誰が旦那さんよ!」
即座にツッコミが飛ぶ。
「そこらへんに、旦那さんが落ちてるわけないでしょ!」
子どもたちは笑い出す。
その中から、小さな少女が、てくてくと前に出てきた。
マリーだった。
大きな瞳を輝かせながら、ミカエルを見上げる。
「……ぎんいろのかみ……すごくきれい……」
純粋な、憧れの眼差し。
飾り気のない、まっすぐな視線。
その瞬間。
ミカエルの胸が、ぎゅっと締め付けられた。
――帝都では。
彼の銀髪は、裏切り者の証とされていた。
偽聖女に仕えていた過去。
未だに残り続ける疑惑。
コウモリ男。
そんな言葉と噂と共に、嘲られてきた色。
忌み嫌われてきた色。
それを。
この少女は、美しいと言った。
何の打算もなく。
何の偏見もなく。
ただ、きれいだと。
「……ありがとう……」
小さく、震える声で答える。
マリーは嬉しそうに笑った。
その様子を見ていたイルフェルミナは、ふっと表情を和らげる。
そして、ミカエルに向き直った。
「ねえ」
「……はい?」
「元気になったら、子どもたちの面倒、見てくれない?」
「……え?」
予想外の言葉に、目を見開く。
「働かざる者、食うべからずよ」
腕を組んで、きっぱり言う。
「一食食べたんだから、ちゃんと働いて返しなさい」
実に現実的な物言いだった。
だが、その裏には。
(この人、ずっと居場所がなかったんでしょうね……)
という、静かな思いやりがあった。
ここに、いていい。
そう思える場所を、与えてやりたかった。
「……ここに、いて……いいんですか?」
ミカエルは、恐る恐る尋ねた。
捨てられることに慣れすぎた人間の声音だった。
イルフェルミナは、少し笑う。
「当たり前じゃない」
そして、いたずらっぽく言った。
「宿泊費は、ちゃんと身体で返してもらいます」
「……っ!?」
一瞬、意味を誤解しかけて、顔が赤くなる。
それに気づいて、彼女は吹き出した。
「変な想像しないの! 労働よ、労働!」
くすくすと笑う。
その笑顔を見た瞬間。
ミカエルの胸が、どくん、と鳴った。
一度。
また一度。
少しずつ、音が大きくなる。
かつて愛した人とも。
敬愛していた恩人とも。
違う。
もっと、穏やかで。
もっと、温かい。
心が、ゆっくり満たされていく感覚。
「……はい」
彼は、静かに頷いた。
ここに、いたい。
この人のそばで、生きたい。
そんな気持ちが、芽生え始めていることに。
まだ、本人だけが気づいていなかった。
ストック溜まってきたんで、今日はあともう1話更新されます。22時30分に更新予定です。




